2011年4月30日土曜日

キツツキのドラミング音

キツツキ(コゲラ)のドラミング音を「撮り」ました。
天保期堀割普請の土捨場跡が横戸緑地という公園になっています。春になるとコゲラのドラミング音があちこちでします。散歩人のほとんどの人は気がついていないと思います。
今回はコゲラを見つけることが出来ませんでした。見つけた時は、コゲラは樹の場所を下から上に小刻みに移動しながらドラミングして虫を探しています。


            コゲラのドラミング音

2011年4月29日金曜日

情報 千葉県の埋蔵文化財地図WEB公開

 千葉県教育委員会により千葉県埋蔵文化財地図(GISデータ)がWEB公開されていることを、関係している方から教えていただきましたので紹介します。
 千葉県ホームページから入るならば、「千葉県教育委員会」、「組織と仕事内容」、「教育委員会の組織・アクセス・連絡先」、「文化財課」の順に進み、文化財課の画面右にある「ふさの国文化財ナビゲーション」(外部)をクリックします。
 目的のページ「ふさの国文化財ナビゲーション」http://wwwp.pref.chiba.lg.jp/pbbunkazai/
にたどり着けます。
 ここから、「HTMLとFLASHの選択」、「ご利用規約をご確認の上お進みください」、「同意して利用する」を順次クリックすると「住所から探す、包蔵地/指定文化財から探す、地図から探す」画面になります。ここから、例えば地図をクリックしていくと文化財マップが出てきます。マップのくくりをクリックすると、画面右に属性(名称、所在地、解説等)の情報が掲載されます。
 この地図のベースマップは国土地理院発行の数値地図25000(地図図像)です。地図の縮尺変更、場所移動なども出来ます。
 どこにどのような埋蔵文化財があるのかを知りたい場合はこのWEB公開情報でわかりますから、大判で扱いにくい冊子版は使わなくてすみます。冊子版(改訂版)より最新情報になっているとのことです。
 このような情報公開(パソコンとWEBをツールとして行う、情報利用の仕勝手向上を目的とした情報公開)は市民にとって大変ありがたいことです。千葉県教育委員会に感謝します。

            「ふさの国文化財ナビゲーション」の地図画像例

 また、以前の記事「埋蔵文化財地図のGIS取込」で紹介した冊子版「千葉県埋蔵文化財分布地図」(昭和61年発行)は、既に旧版になっており、平成に入って改訂版が出ていることを知りました。私は現在、改訂版の埋蔵文化財地図の情報を自分のパソコンに取り込み作業中です。(WEBで公開されている情報は自分の所持している散歩情報とオーバーレイできません。ですから、私の場合、最終的にはどうしても冊子版情報のGIS取込が必要となります。)

 なお、蛇足ですが、包蔵地の括り線(総描線)の描き方が、昭和61年の旧版と平成9年の改訂版でイメージ的に異なります。改訂版の方が丸くなっており、地図情報量が少なくなっているような印象を受けます。

2011年4月28日木曜日

古柏井川のモデル河川としての芦太川

 芦太川流域紀行2 古柏井川のモデル河川としての芦太川

 以前、花見川の河川争奪について何度か記事(「花見川上流紀行10河川争奪見立て」など)にしました。印旛沼に流れていた平戸川(新川)の支流である古柏井川(私がつけた仮称です)の上流部分を東京湾に流れていた花見川が争奪したという見立てです。白鳥孝治氏によって1998年に先行して記述されていることも報告しました。(「花見川中流紀行17河川争奪に関する先行記述」)
 古柏井川は歴史時代になって、3回の堀割普請で人工的に改造され自然地形は失われました。

 さて、芦太川を歩いていると川(谷)の規模が古柏井川とほぼ同じであることに気がつきました。また隣接していますから地形地質的な条件も近似していると考えられます。このことから、古柏井川の人工改造以前の姿を復元するモデルとして芦太川が使えるのではないかと気がつきました。
 次の図は河川争奪前の古柏井川と古花見川の想像図に芦太川の谷筋線を追記したものです。

            古柏井川と古花見川の想像と芦太川

 この図から、古柏井川と芦太川の河川としての規模が似通っていることがお分かりになると思います。
 水系がこのようになっていたのは、地史的なある年代でのことです。歴史時代には既に河川争奪が行われていて、江戸時代の3回にわたる堀割普請前には、水系は次のようになっていました。

            江戸時代の堀割普請前の水系の姿

 芦太川の谷は次の写真のように浅く広い谷です。

            芦太川の現在谷地形

 おそらくこれに近い地形が古柏井川にあったものと想像します。このような浅い谷があり、現在の柏井橋上流(「高台」付近)で東京湾からの深い谷と接している(浅い谷の谷底が切られている)ので、古人は人工河川(堀割)開削の可能性を発見したものと考えます。

なお、現在の花見川堀割の姿は次のような幅の狭い峡谷状の地形となっています。

            現在の花見川堀割

 現在の花見川堀割部分は芦太川のように谷幅が広い浅い谷ではありません。これは、1人工的に谷底を掘下げたことと、2谷の壁に、掘った土を盛って(捨て土して)人工的に谷幅が狭くなっことと、3盛土により台地縁の標高が高くなったためです。堀割普請の資料が残っているので、大まかな土量計算もできると考えられます。芦太川の地形をモデルにしながら、人工改変前の古柏井川の地形復元が可能になると思います。今後その作業をしていきたいと思っています。

 なお、古柏井川の地形復元ができると、古柏井川が縄文時代や弥生時代において、印旛沼と東京湾の交流通路として果たした役割などについて、考察が進むものと考えられます。
 花見川は堀割普請の時に始めて印旛沼と東京湾をつなぐ役割を持たせられてのではなく、遠く縄文時代から既に印旛沼と東京湾をつなぐ重要な特別通路としての役割を担っていたものであると考えています。

2011年4月25日月曜日

芦太川流域の概要

芦太川流域紀行1 芦太川流域の概要

            芦太川流域

 芦太川流域の流域面積は2.87平方km、河川延長は約1.5kmです。ただし開水路は下流0.5kmでコンクリート柵渠です。かつて芦太川の低地は水田でしたから、農業用水路の名残です。

            コンクリート柵渠の芦太川

 開水路の上流1kmは蓋掛け水路ですが、蓋掛けが分かるのは八千代台東小学校の手前くらいであり、蓋の上に覆土してあるので、水路の形跡を感じません。谷地形があるのに、水の流れを感じないと無意識的に不思議(異様)な感じを受けます。

            川が見えない芦太川の谷地形
左は千葉市側の小字名「芦太山」の森で、カラス大集団のねぐら(カラス森)になっています。

            蓋掛け水路

 芦太川が千葉市と八千代市の市境になっています。散歩していると自然地形としての谷底平野を一体的に有効活用することが困難な様子を感じます。土地利用上放置されているような印象を与える部分もあます。なお、谷底にある八千代台東第二小学校と八千代台東小学校の校地は八千代市域と千葉市域にまたがっており、いずれも芦太川が校地中央の地下を横断して流れています。

            八千代台東小学校
 白線の下に芦太川が流れています。白線より右側は千葉市域です。

2011年4月24日日曜日

うれし悲しい高津川自然環境

高津川小流域紀行3 うれし悲しい高津川自然環境

 自然環境面から見て、高津川は私にとってうれしさと悲しさが同時に感じられる川です。

 うれしさを感じること
1 カワセミやコサギ、カルガモなどの野鳥が多数飛来して餌を採っている。
 カワセミは花見川合流点から約2.5km上流の北高津川合流部近くまで飛翔して餌を採っています。コンクリート3面張りの水路に緑光沢色のカワセミが飛翔し、ホバリングしてから水中にジャンプして餌を採る姿を見ることはうれしいことです。「どっこい自然は生きている」という感じを受けます。
 高津川ではアメリカザリガニをよく見かけるので、それを採っているのかもしれません。(カワセミについては以前の記事「カワセミの生息に不可欠な素掘堀割」でも紹介しました。)
 コサギは高津川の上流部までほぼ全川で見かけます。アメリカザリガニや水生昆虫、小魚などを採っているものと思われます。

            カワセミ飛翔区間

            高津川のアメリカザリガニ

2コイの集団産卵
 高津川が花見川に合流する区間では春先にコイの大集団による産卵が見られます。大きな水音を立てて産卵する様子からは、自然の力強いエネルギーを感じます。(コイの産卵については以前別記事でも紹介しました。「花見川上流紀行3見どころ」)

            コイの集団産卵の様子

3ドジョウ、小魚の生息
 散歩途中、高津川上流部の八千代市八千代台西十丁目付近で河床にドジョウと小魚、ミミズの多数の斃死体を発見しました。(平成21年10月19日正午頃)水質事故に対する問題意識の前に、ここにドジョウや小魚が住んでいることを知って、うれしい感情が湧きました。地域からは見向きもされていない水路ですが、「どっこい自然は生きている」のです。この斃死体が次々に流れ、下流で数羽のコサギが夢中で探して見つけ、食べていました。

            ドジョウ、多数の小魚、ミミズの斃死体

            ドジョウの斃死体があった場所

4流域に存在する広大な自然地
 既報(「北高津川流域紀行2習志野演習場見学記」)のように、高津川には陸上自衛隊習志野演習場が存在しており、広大な土地(67万坪)が自然的状態(草地、湿地、林地)で存在しています。第一空挺団の方から、キジ、ヤマドリ、タヌキ、ノウサギなどの野生動物が生息していることを聞きました。流域にこのような土地があるということは、高津川の環境が安定し、自然を回復するよすがとなるものであり、うれしいことです。

            都市空間の中の広大な演習場

 悲しさを感じること
1旧軍の悪
 旧軍の悪(毒ガス埋設)は高津川にとってとんだ災厄です。この件については既に詳しく書きました。(「北高津川流域紀行4旧軍の悪」、「旧軍の悪2」)

2街から排除された川
 高津川が環境や文化と深く関わってきているという事実の存在を否定するような川づくりが行われているように感じられます。高津川をコンクリート溝化し有刺鉄線付き金網柵で囲うことにより、地域から高津川を排除しようとしています。悲しいことです。(「有刺鉄線付き金網柵で川を囲む」)

3水質汚染
 ドジョウ等の水生動物の斃死は、上流における汚染物質の垂れ流しが原因であると推察されます。すぐ上流は工業団地になっており、一部は商業業務地区としてスーパーや郊外型各種量販店が立地しています。自動車の修理や洗車なども川のすぐそばで行われています。事業者が川の存在を意識し、水質事故に至らないよう自主活動することを望みます。(今から思うと、水生動物の斃死を観察した時、直ぐに担当行政機関に連絡しておくべきだったです。)

 高津川の再生
 高津川はかつて旧軍の悪があり、またコンクリート溝と化した川になってしまいました。
しかし、この川でも、増水時に生きものが退避できる場所をつくったり、演習場の自然を花見川の自然と結びつける工夫などをする中で、自然を序序に回復することが可能だと思います。
今は、地域の人々はあきらめていますが、気持ちを切り替えれば、そして知恵と工夫を持ち寄れば高津川は再生すると思います。

 悲しがってばかりではなく、うれしいことが沢山起こる高津川にしていきたいものです。

2011年4月22日金曜日

有刺鉄線付き金網柵で川を囲む

高津川小流域紀行2 有刺鉄線付き金網柵で川を囲む

 高津川、北高津川は全川にわたって有刺鉄線付き金網柵で囲まれています。金網柵の存在は、それに囲まれている地物が、通行する人に対して強く侵入を拒否するサインです。ですから自然や風景に配慮したまちづくりでは特別の事情がないと使われません。高津川と北高津川の沿川はほとんどが密集市街地ですから、自然や風景に特別に配慮した地区とは違いますが、金網柵の存在は街から川を切り離しています。有刺鉄線の存在は川を街から切り離すだけでなく、危険物としてのサインになっています。
 この有刺鉄線付き金網柵は単に転落防止とか水難事故防止の機能だけではなく、川の悪(穢れ)を回避したいという地域の深層意識を反映しているものと考えます。悪とは旧軍による敗戦時の演習場における毒ガス埋設であると考えます。

            高津川の有刺鉄線付き金網柵

            北高津川の有刺鉄線付き金網柵

 八千代市と千葉市の境界を流れて、柏井小学校付近で高津川に合流する芦太川はそのほとんどが蓋掛け水路となっていますが、合流部手前500mは開水路(コンクリート柵渠)となっています。この部分には金網柵があります。しかし、有刺鉄線はありません。この川の上流には悪(穢れ)がありません。この川の金網の機能は転落防止です。金網の近くには付近住民の方が植えた花が咲いていました。高津川や北高津川には見られない光景です。

            芦太川の金網柵

 次の写真はその沿川が住宅密集地である勝田川上流小深川(千葉市稲毛区山王町)の姿です。金網柵はありません。勝田川に金網柵が全くないわけではありませんが、ほとんどありません。

            小深川の姿(千葉市稲毛区山王町)

 花見川水系について、辿ることの出来る河川・水路・水路跡をほとんど全部歩いて感じることは、高津川・北高津川が街から排除された悲しい姿です。沿川住民の方はこの川の姿について、疑問を感じないのでしょうか?

2011年4月21日木曜日

高津川小流域の概要

高津川小流域紀行1 高津川小流域の概要

            高津川小流域

 高津川小流域の流域面積は6.92平方km、河川延長は約6.5kmです。

 高津川の源流部は船橋市習志野5丁目と習志野市東習志野6丁目、1丁目付近の台地上です。台地上なので、現地ではピンポイントで流域界を感覚することはできません。東習志野6丁目の実花小学校脇から流路(蓋掛け水路)を確認できます。
 高津川は蓋掛け水路の最源流部から花見川合流部まで、全川にわたって両岸金網柵が設置されています。また、沿川の土地利用は工業団地と演習場区間を除くと、全川が密集低層住宅地になっています。

            習志野市東習志野6丁目の高津川源流(蓋架け水路)

 高津川は工業団地で開水路(コンクリート柵渠)となり、東に向かって流れます。

            日立製作所付近の高津川

 高津川は工業団地を出て八千代市に入るとコンクリート3面張りの水路となります。陸上自衛隊習志野演習場付近で流れを北に向け、演習場東端に沿って北に向かって流れます。

            陸上自衛隊習志野演習場東端を流れる高津川

 高津川は飯盛台付近で北高津川を合流して東南に向きを変えます。水路のコンクリート壁直上に金網柵が設置されていて、街から高津川が風景的に排除されています。橋からのみ高津川を見ることができますが、街からは金網しか見えません。

            大和田南小学校付近の高津川

 京成線の下流ではコンクリート水路の断面が狭くなります。この区間の洪水を避けるために、地下水路バイパスが設けられています。

            柏井小学校付近の断面狭小区間

            花見川合流部

2011年4月20日水曜日

遺跡分布に興味を持つ

北高津川流域紀行6 遺跡分布に興味を持つ

            遺跡分布図(基図は地形レリーフ)

            遺跡分布図(基図は地形図)

 以前、埋蔵文化財地図をGISに取り込む記事(「埋蔵文化財地図のGIS取込」)を書きました。この方法により、GISに取り込んだ遺跡分布を北高津川流域について描いてみると、上図のようになり、北高津川両岸台地上の縁部分に、遺跡が川を臨むような形で分布していることがわかりました。北高津川を遺跡が取り囲んでいるように見えます。年代は先土器縄文のものや、奈良平安のものなどですから全て一辺に立地していたわけではありません。しかし、この小さな北高津川流域が、古代人にとって居住に適した場所であったことは確実に言えることだと思います。特に斜面が南向きになる左岸に縄文遺跡が3箇所立地していることから、水の便利(飲料水、舟運)以外にも日当たりが居住の重要な条件であったかもしれないと思いました。
 現在の北高津川の形状からは想像もできないことですが、こんな小さな川と谷が縄文人の生活に役立っていたことは、私にとっては大変興味を刺激されることです。


            現在の北高津川(高津団地内)

 この分布図をみて縄文人の生活について、次のような想像をしました。
1縄文人にとっての北高津川の役割は、飲料水の確保(や炊事洗濯など生活用水利用)がもっとも重要であったに違いない。この地にたどり着いた集団が、他の一等地(平戸川〔現新川〕沿川台地縁など)が既に先人によって利用されているので、二等地、三等地であるが、飲料水の確保ができるこの場所に居住の地を定めたのだろう。

2北高津川に舟を浮かべれば、高津川、平戸川(現新川)経由で印旛沼(海)まで容易に出かけることが出来るので、魚介類採取や交易などの便利が良かったに違いない。

3北高津川での魚介類採取は、河川の規模からして、あまり期待できなかったに違いない。

4北高津川上流に広がる原野(現在の陸上自衛隊演習場やその上流の工業団地付近)は狩猟の場として利用していたに違いない。

5北高津川から平戸川に出て、上流に歩いて古柏井川(現花見川)を遡れば柏井付近で当時の花見川源流に行き着き、花島付近で古幕張湾の最奥部にたどり着き、舟で東京湾に出ることも可能であったに違いない。(「縄文海進時における近隣流域の様子」「堀割普請前の花見川谷頭その1」「堀割普請前の花見川谷頭その2」)なお、印旛沼(海進最盛期は宮内付近まで塩水であったことが確認されている〔「八千代市の歴史 通史編 上」による〕)や東京湾(古幕張湾)は日帰り行動圏であったと考えられる。

            高津川流域の遺跡分布(基図は縄文海進想定図)

 パソコンの中で遺跡地図を自由に操ることができるようになって、遺跡(歴史)について強い興味が湧いてきました。現在の川の姿からは想像もできない役割を川や自然が果たしてきたということが遺跡分布図から判ります。同時に、現代人は、祖先が何万年もの間その恵みを利用してきた川や自然を全て放棄して、利便、快適、安全な都市生活を構築しているということも、強く意識させられます。

 こうした遺跡マップ作成を契機にして、遺跡(歴史)について基礎から学んで、花見川流域の特徴を知りたいと思っています。

2011年4月19日火曜日

花見川の鶯のさえずり


花見川弁天橋下流の堀割で鶯のさえずりを「撮影」しました。途中「ツーピー、ツーピー」というさえずりはシジュウカラのものです。4月18日午前5時50分頃の「撮影」です。

2011年4月17日日曜日

旧軍の悪2

            大正6年時点の軍事施設のプロット

北高津川流域紀行5 旧軍の悪2
 上図は旧版1万分の1地形図(大正6年測量)から読み取れる軍事施設、軍事軌道、演習場等の名称を現代の地図にプロットしたものです。

 図の右下に騎兵第13~16連隊営(現在の船橋市の東邦大学、日本大学、習志野市泉町2~3丁目)がありますが、大正年間のころはまだ生きた馬を使った騎兵連隊でした。昭和に入り戦争が激しくなり、この場所の東端(騎兵第16連隊営址)に陸軍習志野学校が入りました。

 「習志野学校は昭和8年(1933)8月に開校したが、これは毒ガスの知識普及・調査研究する機関であった。対ソ戦への準備のための化学戦の教育は、そのまま習志野学校の発展につながっていった。戦争中も演習が活発に行われた。実毒演習は、射撃場の北側の平坦な松林を中心に訓練が行われた」(「八千代市の歴史 通史編 下」八千代市発行)

 現在の陸上自衛隊習志野演習場付近が実毒演習が行われた場所になります。

 私は、敗戦時に実毒演習地に多量の毒ガスが埋設されたことにより、その土地の開発が不能であり、従って演習場として残存したのではないだろうかと、想像しています。今後情報を集めて、そうした想像の適否を検証していきたいと思っています。

 私の父は日露戦争勝利の年であり、ロシア革命の年である明治38年(1905年)に生まれ、大正14年(1925年)に新兵として騎兵連隊に入隊しました。生前によく連隊内での馬の世話の話しを事細かく聞きました。ただし、その場所が習志野であったことは、平成元年に私が千葉市花見川区に転居する際、父が大久保とか実籾の地名を知っていて初めて気がつきました。
大正年間の頃は、まだ生きた馬が実戦の最前線で活躍していたのです。
 その後、騎兵から戦車や毒ガスの時代になり、習志野の騎兵連隊のあった場所が習志野学校になったことは、このブログ活動(花見川流域散歩)で初めて意識しました。
 毒ガスという私の生活に全く関わりのないものと思っていたものが、花見川流域散歩で私にリンクしてしまいました。今後、毒ガスの情報を折に触れて情報収集していきたいと思います。


【お知らせ】
 このブログの記事の名称としてこれまで「北高津川流域紀行4 旧軍の悪」のように、どの場所の記事かわかるように「北高津川流域紀行」という地理的情報を含む表記にしてきました。しかし、他のサイトなどで記事を紹介していただくときに、全体に冗長な印象になりますので、記事の名称から原則として地理的情報を削り、記事本文の最初に地理的情報を含む表題を掲載することにしました。

2011年4月16日土曜日

北高津川流域紀行4 旧軍の悪


●悪の存在に戸惑う
 このブログは、流域を散歩して、地域の資産(宝)を洗い出し、それをいかにして地域づくりに活用していくかというテーマで情報発信しています。
 これまで、本川における散歩と情報発信は順調にきていると自分では思っていました。
 ところが、支流の高津川に入り、その流域変更に旧軍の悪(敗戦時の陸軍演習場内毒ガス埋設)が関わっているのではないかという疑念が心に浮かんできました。

 流域変更を説明すると考えられる公式資料(「印旛沼開発工事誌」水資源開発公団印旛沼建設所、1969)では、そういうこと(旧軍の悪)は検討条件にないことは確認しました。しかし、旧軍の悪が高津川の流域変更に強い影響を与えたことを、私は直感して情報発信しました。(2011年4月9日記事「高津川、勝田川が印旛沼水系から切り離された理由」)

 この旧軍の悪が流域変更に影響したという見立ては、自分なりに今後材料を集め、本当にそういう自分の直感が正しいのかどうか、検討を深めていきたと思います。検討は、私の見立てが正しことを証明しようとしているのではありません。私の見立てが間違っていても、真実がわかれば、それだけ花見川流域に対する認識が深まり、うれしいことです。

 私にとっての問題は、私の見立ての正否ではなく、流域における悪の存在を感じてしまったことです。
 花見川流域を対象に、散歩してその資産(宝)を見つけようとしている私が、そもそも花見川流域形成に関わる要因に旧軍の悪を見立ててしまったのです。

 楽しい散歩が台無しのように感じます。

 旧軍の話題について言えば、習志野原の地名由来や「坂の上の雲」のテレビ番組の影響の下で騎兵実施学校の秋山好古の話しをしている分には差し障りないと思います。それは、現在の私たちに対して、懐古の情に訴えるものです。その話題はすでに一種の地域資産と化していると思います。

 しかし、毒ガス埋設はそれを考え、情報を得るにしたがって、巨悪であり、社会の深い暗部であることを感じます。私の目指す活動に照らすと、戸惑いを覚えます。

●悪を直視する、悪を知る
 戸惑いを覚え、このブログ情報発信も少し停滞しました。
 しかし、誰でも、いつまでも心を停滞させておくことはできません。知恵がどこからか出てくるものです。
 まず、悪を直視しようと思います。悪の実体についてできるだけ知りたいと思います。悪の姿(事実)を知ることが出発点です。

 現在の生活に対する影響という側面から見ると、次のような情報発信が行われています。

習志野市役所情報発信(旧軍毒ガス弾等に関する環境調査
八千代市役所情報発信(「習志野演習場」における旧軍毒ガス弾等の環境調査について
船橋市役所情報発信(「旧軍毒ガス弾等に関する環境調査」の記事一覧
千葉市役所情報発信(旧軍毒ガス弾等に関する情報

 悪の経緯については各市の市史に記述があります。また旧軍毒ガスに関する書籍もあります。
 このような情報源から情報を得て、悪の姿をできるだけ直視したいと思います。

●悪を克服する哲学を学ぶ
 心の停滞の後、悪を直視せず、悪を忘れ、悪を無視し、悪を隠しても活動の展望は生まれないと感じるようになりました。悪を封印して散歩し、地域の資産を見つけ、川づくりや地域づくりについて語っていても、それは魅力の少ない活動だと感じるようになりました。
 つまり、私の活動としては、地域が悪を克服していく方向やその方法を見つけることもその範疇に入れるということになります。
 しかし、悪を克服するとはどのようなことでしょうか?行政も(おそらく)地域住民もことさら触れたがらない悪(暗部)を克服するためには、それなりの哲学が必要だと思います。

 また、悪はどこかで、善や人(世の中)の真実を考えるときに必須条件であるようにも予感します。少なくとも、悪を考えることで、善がより一層鮮明に浮かび上がります。

 すこし、飛躍があるかもしれませんが、最近始めた地域づくりの哲学学習「ジオパークを学ぶ」の活動の中で有用な哲学を見つけることが出来るかもしれないとも期待しています。
ジオパークを学ぶ」の活動も活用しながら、悪を克服するために必要な地域づくりの哲学を学んでいきたいと思います。

●悪の流域における発現形態
 悪(敗戦時の陸軍演習場内毒ガス埋設)の流域における発現形態を考え、その克服が必要なものは方法を考えて、このブログで情報発信していきたいと思います。

1習志野演習場の存在
毒ガス埋設地という条件が有力な要因となり演習場として残ったと見立てる。流域の地域づくりにおける習志野演習場の意味、価値、役割を考える。

2高津川、勝田川の花見川(東京湾)水系流域変更
毒ガス埋設による環境影響を水資源開発上回避するために流域変更があったと見立てる。流域変更された新生花見川流域が、あらたな統合に向かうような地域づくりを考える。

3高津川流域の河川改修、沿川開発
上流に毒ガス埋設地があることにより、川や沿川谷底平野が開発に当たって粗末に扱われ、川が心理的に排除されたと見立てる。上流にある広大な自然地(演習場)を活用しながら自然を回復するかわづくりや地域づくりを考える。

4埋設毒ガスの健康影響
防衛省調査では周辺地域のおける現在の毒ガス影響は見つかっていないとされている。過去における埋設毒ガス存在という情報を川づくり、地域づくりにどのように活かすか考える。

2011年4月13日水曜日

花見川の満開の桜

            亥鼻橋からみた右岸堤防の桜並木

 4月11日に花見川で、満開の桜の花見をしてきました。

 亥鼻橋から汐留橋までの右岸堤防の桜並木(延長約1km)は、桜のトンネルになっていて、平日にもかかわらず多くの人が花見に出て、賑わっていました。このサイクリング道路はいつもはほとんど利用する人がいなのですが、この日が年間で最高の人出であったのかもしれません。

            亥鼻橋下流右岸堤防の桜のトンネル


            多くの人出で賑わう

3月11日の震災で堤防に亀裂が走っている部分がありました。

            堤防に走る亀裂

            左岸から見た右岸堤防の桜並木

 花島公園の桜も満開でした。

            花島公園の桜

            左岸から見た花島公園の桜

 柏井橋下流の河道がカーブしているところにも桜があり、山裾が重なるような風景を引き立てていました。

            柏井橋下流の桜

 弁天橋上流の右岸堤防にも桜が沢山あります。この堤防道路は自動車がスピードを出して走行するので、せっかくの桜を落ち着いて愉しむことができません。

            弁天橋上流右岸の桜(4月12日早朝)

            弁天橋上流右岸の桜(4月12日早朝)


            弁天橋上流右岸の桜(4月12日早朝)

2011年4月12日火曜日

北高津川流域紀行 3習志野原の地名由来

            吉田東伍著「大日本地名辞書」習志野原の項

 陸上自衛隊習志野演習場を見学した際、案内していただいた第1空挺団の広報幹部の方から習志野原の地名は明治天皇の命名によることを教えていただきました。
 上の画像のように、吉田東伍著「大日本地名辞書 坂東」(明治40年 冨山房)においても明治天皇の命名が確認できます。もちろん、角川「千葉県地名大辞典」でも確認できます。
 習志野原という地名は船橋市、八千代市、習志野市にかかる広域的な地域を指します。
 同時に、現在では習志野市の市名と東習志野という町名、船橋市の習志野、習志野台という町名にもなっています。

 広報幹部の方から教えていただいた内容が、第1空挺団パンフレットに詳しく出ていますので、以下に関係部分を抜粋します。

「習志野駐屯地について
 習志野原は江戸時代「下総国大和田原(別名小金原)」と呼ばれ、徳川幕府直轄の放牧場であった。
 明治6年4月29日天皇親裁により初めて陸軍大演習が西郷隆盛以下の近衛兵により大和田原で行われた。
 天皇はこの演習を天覧され、演習を指揮した少将、篠原国幹の見事な指揮振りに感銘され、「習篠原」(篠原に見習いなさい)という御言葉を賜り、この御言葉から「習志野原」と、明治6年5月13日に命名されたといい伝えられており、旧軍当時は「350万坪」という広大な面積を有していた。(後略)」

 なお、戦前はこの地に陸軍騎兵学校が創設されました。習志野は騎兵の町で有名でした。坂の上の雲に出てくる日本騎兵の父秋山好古が第2代の校長を務め、日本で唯一の騎兵幹部教育を実施しています。また近くの大久保には実戦部隊である騎兵第13連隊~16連隊が駐屯していました。
(私の父は最初の徴兵でこの騎兵実戦部隊に配属され、馬の取扱について習熟するとともに、騎兵としての訓練を受けました。父が大久保とか実籾の地名を知っていたので、不思議に思い、その理由を聞いた時、騎兵連隊入隊の話しを聞きました。)

2011年4月11日月曜日

北高津川流域紀行 2習志野演習場見学記

            陸上自衛隊習志野演習場(2.5万地形図)

            習志野演習場区域の旧版地図
            (1/1万地形図「習志野原」大正6年測図)

 花見川の本川筋、支川筋の散歩をほとんど済ませたとき、陸上自衛隊習志野演習場内に入っていないことが気がかりになりました。そこで、陸上自衛隊習志野駐屯地に電話で、「個人の趣味で花見川流域を歩いている。自衛隊演習場内も歩きたいので許可してほしい」旨お願いしました。結果は車で案内していただけることになりました。近隣住民に対するサービスのよさに感心しました。
 当日は所定の時間に習志野駐屯地に出向き、そこから案内の方(第1空挺団第1科広報幹部)、運転の方、私の3名で演習場に向かいました。

            第1空挺団の方に案内していただいた

 最初に自衛隊および周辺住民の方が現在「マムシ森」、「マムシ沢」と呼んでいる場所に出向きました。ここは大正6年測量の旧版1万分の1地形図で「境谷」と記載されている谷です。私が仮称でつけた北高津川の上流部です。
 マムシ森付近をはじめ演習場内にはキジ、ヤマドリ、タヌキ、ノウサギなどが生息しているとのことです。私もヤマドリが5羽が道路脇の樹木下の影にいて、近くまで自動車が近づいても特段逃げ出さないのことに驚きました。市街地の中の野生動物生息孤島になっているようです。
 一方、空挺団はここでサバイバル訓練(自活生存訓練)をしていて、ヘビなどの小動物を採って食べることもあるとのことです。隊員が作った手作りの生きもの供養塔もありました。

            マムシ森

 この谷には常時水があり、演習場出口付近にはたまり水になったところがあります。ここには魚がいると説明を受けました。
 また、古い土手があります。旧版1万分の1地形図をみると土手が北高津川に沿って延びています。現地でもかなりの土手が残っている印象を受けました。
 青木更吉「小金牧を歩く」(崙書房、2003)によれば、この水溜りはかつての野馬の水のみ場で、土手は小金牧の野馬土手だそうです。

 野馬の水飲み場だった水溜りと野馬土手

 北高津川と高津川の中間付近は高津森という名所の立て札があります。

            高津森

 高津川の支流は旧版地形図では大和田谷となっていますが、現場の立て札でも大和田谷となっていました。
 草刈された自然地形を利用して空挺団の落下傘降下訓練が行われているとのことです。降下高度はヘリコプターの場合は400m、固定翼機の場合は4000m降下もあるとのことです。
 大和田谷付近の地形を現場で確認すると、旧版地形図の地形とも一致し、大規模な地形改変はないように感じました。本来の台地上の浅い谷という自然地形がそのまま残されていることは大変貴重であると考えます。

            大和田谷

            落下傘降下訓練

 大和田谷の近くに馬頭観音があると説明を受けた塚があります。塚の上には庚申塔があります。旧版地形図にもこの塚は出ていて、塚上には墓の記号が書いてあります。

            庚申塔がある塚

 大和田谷の下流は人家も近く、降下訓練には利用されていないようです。

            大和田谷の振り子橋

 なお、見学当日にはバズーカ砲を持った隊員が、地上戦を想定したような訓練をしている現場も見かけました。
 また、案内していただいた広報幹部の方から、習志野駐屯地の「習志野」の由来についてお話を聞きました。(内容は別記事で紹介します。)
 帰りがけには「第1空挺団 –精鋭無比-」というパンフレットをもらいました。自衛隊のパンフレットは始めてで、大変興味深い内容が書いてあるものでした。

            第1空挺団のパンフレット


 現在(平成23年4月11日)、第1空挺団は約1000名の隊員を被災地に派遣し、救援物資の輸送支援や、原発から20~30km圏内にある施設(病院、養護施設)や居住者の細部状況を確認しています。(第1空挺団ホームページより)

 国民の期待に応える自衛隊の活動に感謝します。