2011年9月29日木曜日

花見川石油パイプライン

花見川河床の地下約35mに内径2.5mの頑丈なトンネルがあり、成田国際空港で使う航空燃料を運ぶパイプラインが敷設されていますので紹介します。

この施設は石油パイプライン事業法により設置された施設で、千葉埠頭石油ターミナルで荷揚げされた航空燃料を成田国際空港まで輸送する延長約47㎞のパイプラインの一部です。

トンネルが花見川を通る部分は河口から京葉道路までの約4.7㎞の区間です。

石油パイプラインルート図
成田空港給油施設株式会社提供

石油パイプラインルートのイメージ(花見川付近)

トンネルの中には口径14インチ(外径355.6㎜)のパイプ2条が配置されています。

トンネルの様子
成田国際空港株式会社パンフレットより

成田国際空港株式会社パンフレットによると、パイプ1条あたり約700kl/hの輸送能力があり、流速は約2.2m/sです。

このように花見川は、成田国際空港の存在に欠かすことのできない石油パイプラインを通すという重要な機能を、空間上果たしています。

畑川の散歩で見かけた石油パイプライン関連施設

2011年9月28日水曜日

「印旛放水路(下流部)」から「花見川」へ


恥ずかしい告白ですが、最近千葉県河川整備課で教えていただくまで、花見川の河川整備計画が利根川水系手賀沼・印旛沼・根子名川圏域河川整備計画の一部として策定済みであることを知りませんでした。

利根川水系河川整備計画が策定されていないので、利根川水系の一部である花見川も策定されていないと思い込んでいたのです。

「花見川流域を歩く」という趣味活動は焦点を現場の散歩に合わせていますので、資料や書物は二の次です。と理屈づけるにしても、不勉強のそしりは免れないと思います。

さて、その利根川水系手賀沼・印旛沼・根子名川圏域河川整備計画はWEBを見ると流域委員会を設けて策定されたようです。

流域委員会の議論の中では、河川名称に関する話題はなかったそうです。

有識者や地域を代表される方も、河川管理者も、「印旛放水路(下流部)」名称の不合理さまでは気が回らず、手賀沼や印旛沼本体の議論にエネルギーのほとんどを費やしたものと推察します。

仮に、上記流域委員会が「印旛放水路(下流部)」を、印旛沼の付録としてではなく、それ自身を抜き出し対象として考察する機会があったとします。
そうすれば、必ずや「その河川名称で住民が納得しているのか」「本当に人工河川と言えるのか」「なぜ高津川と勝田川を流域変更したのか」など、花見川の沢山の不思議が議論されたに違いありません。
そして、「確かに、花見川流域という存在があるんだ!」という再認識が深まったと思います。

*   *   *

WEBで検索すると、たまたま見つけた例ですが、県が「『河川名の変更』に対する意見募集」を行って、多数の賛成を得、地元市の賛成や名称変更要望活動を踏まえて、国交省に名称変更の要望をして正式決定した例が出ていました。(鳥取県、鳥取市の旧袋川→袋川)

地元住民が使っている河川名称に変更した例は渡川→四万十川、派川利根川→利根運河、荒川放水路→荒川など多数あると思います。

「印旛放水路(下流部)」→「花見川」という名称変更を実現させるにはどのようにしたらよいか、そのきっかけやプロセスを考えたいと思います。

2011年9月27日火曜日

河川名称「印旛放水路(下流部)」では合理的対応が困難


河川法名称「印旛放水路(下流部)」では外部要請に対して、合理的対応が困難であるという懸念を持っていますので、今後の検討のために考えたことを記録しておきます。

たとえば、治水面で利根川水系サイドから「印旛放水路(下流部)に1000トン流すから大規模開削よろしく」と言われたとします。

地元千葉の人々がこの川を「印旛放水路(下流部)」と呼び、「人工河川」と認識していて、納得してしまっていては、「堀割の自然環境が優れている」という程度の議論はできますが、花見川流域の自然的、歴史文化的価値全般についての議論は困難です。
「放水路」「人工河川」と流域の自然、歴史、文化は結びついていません。

「印旛放水路(下流部)」という名称では流域概念がほとんど無いに等しいので、外部要請を流域全体の問題として捉えるという視点も脆弱になります。

「印旛放水路(下流部)」という名称では、問題が起こったとき、流域全体の人が当事者意識を持つことはほとんど不可能です。「放水路」のすぐ近くの人しか当事者意識を持つことができないに違いありません。

第一、流域住民は「印旛放水路(下流部)」と聞いてもどこの河川だかわからない始末です。

おそらく、議論も「自然保護か工事か」といった矮小化した、貧しいものになると思います。

「印旛放水路(下流部)」ではなく、花見川(高津川、勝田川を含む)としてこの川を捉え、その流域を意識した河川管理が行われていれば、外部要請と花見川流域の自然的価値、歴史文化的価値を総合的に評価するという合理的検討を行うことができます。

花見川ならだれでも知っています。大体からして、花見川は花見川区という行政区域の名称にもなっています。

花見川名称ならば、自然環境の大切さだけではなく、河川争奪現象地形の存在、縄文時代から利用された古代人の印旛沼-東京湾回廊として利用、堀割に立地する霊的空間、土木遺構としての素掘堀割の存在など、多様な価値を、外部要請と対置して、総合検討できます。

「印旛放水路(下流部)」という名称では住民のほとんどがそっぽを向く問題も、花見川という名称なら自分たちの問題として捉えることができます。

私が危惧することは、「印旛放水路(下流部)」という名称使用(その背後には人工河川という誤った思考が存在している)により、地元千葉が本来備えているべき論理展開力の一部を放棄してしまっているということです。外部要請にたいして本来行われるべき総合的合理的議論をする能力を最初から制限しているという、一種の思考上の武装解除状態にあることを危惧します。

また、花見川名称なら実現できる豊かな住民参加が、「印旛放水路(下流部)」という名称で貧困な住民参加になってしまうことを危惧します。

こうした危惧に気がつくのが遅ければ、地元千葉は結果として後で、ほぞをかみます。

私は花見川堀割部分の自然や土木遺構としての文化財的価値を大切にしたいと思っています。
しかし、なにがなんでも外部要請は阻止したいという立場ではありません。

国策としての外部要請があれば、地元千葉はそれに対して正々堂々と受けて立ち、あるべき総合的合理的議論をつくすことを願うものです。
あるべき総合的合理的議論がつくされれば、外部要請と花見川整備との調和点をみつけることが可能になるかもしれません。少なくとも、多くの人が受け入れることができる結論を得ることができると思います。

残念ながら、「印旛放水路(下流部)」と「人工河川」ではあるべき総合的合理的議論は最初から不可能です。

2011年9月26日月曜日

河川名称「印旛放水路(下流部)」の違和感


河川法に基づく名称である「印旛放水路(下流部)」に強い違和感を覚えます。
違和感の内容がどのようなものであるか列挙してみて、今後の検討のために記録します。

1 名称が河川法の目的に対応していない
平成9年の河川法改正により、河川の目的に環境が加えられ、治水・利水・環境の3つの河川管理により河川の目的を達成することになりました。

ところが、「印旛放水路(下流部)」という名称は、治水と利水を主軸に活動を展開するという旗印を掲げたこということです。

治水・利水を主軸に活動を展開するということは、人工河川ならまだしも、自然河川である花見川(とその支流の勝田川、高津川)の健全な河川管理と相いれません。

「印旛放水路(下流部)」という名称には「この河川は治水・利水を主軸に事業活動を展開するという強い事業指向」が内在しています。まるで事業者専用の名称のようになっています。あたかも花見川を事業者が独占してしまったという印象の名称です。

事業を否定する立場から述べているのではありません。
花見川を「人工河川」と定義し、「印旛放水路(下流部)」と名付けてしまえば、その河川管理はおのずと治水、利水(の事業)に偏向していってしまうことになる、という跛行性を心配しているのです。

自然河川花見川に「印旛放水路(下流部)」という名称がふさわしいものであるのか、平成9年河川法改正の趣旨に照らして再検討する必要があると思います。

2 名称が人々の発想を貧困にしている
「印旛放水路(下流部)」という名称は、花見川の自然、歴史、流域に関する発想をとても貧困なものにしているように感じます。

「川」という言葉は「自然」「歴史」「流域」などの言葉と自然に結びついています。「川」から「自然」「歴史」「流域」の発想に移動するためにさしたるエネルギーは必要としません。

千葉を流れるこの川を「花見川」として呼べば、花見川の自然、花見川の歴史、花見川流域の出来事・地物について様々な思考の展開を図ることは容易です。

そもそも「ハナミガワ」という名称が縄文語由来であり、古代から人々の生活を支えた河川であり、珍しい河川争奪現象地形が存在し、縄文時代以来印旛沼と東京湾をつなぐ古代人の回廊であった地形があり、江戸時代の堀割普請など様々な歴史のページをめくることができます。花見川に積み重なっている自然的、文化的価値を見出すことができます。

ところが「放水路」からその「自然」「歴史」「流域」の発想に移動することは困難です。

千葉を流れるこの川を「印旛放水路(下流部)」として呼べば、放水機能の思考は大いに展開できます。事業者の仕事には好都合です。しかしその流域に積み重なっている自然的、文化的価値を見出すような発想に至ることは至難の業になります。

流域の自然的、文化的価値を見出すことが困難であるということは、流域の地域づくり、特に川を生かした地域づくりが貧困化するということに帰結します。

2011年9月25日日曜日

花見川出自記載の違和感


利根川水系手賀沼・印旛沼・根子名川圏域河川整備計画における花見川(印旛放水路[下流部])の概要記述に違和感を覚えました。

私の花見川に関する理解が不足しているのか、あるいは記述文の背後にある思考に偏りがあるのかどちらかだと思いますので、記録しておき今後検討を深めたいと思います。

利根川水系手賀沼・印旛沼・根子名川圏域河川整備計画
第1章圏域と河川の概要 第2節河川の概要 抜粋
……………………………………………………………………
【印旛放水路(下流部)】
印旛放水路(下流部)は、元々印旛沼に流入していた勝田川と高津川を東京湾側に流域変更し、上流端に設置された大和田排水機場によって印旛沼の洪水を東京湾に流すために整備された流域面積61.7km2、指定延長16.5km2(勝田川含む)の河川です。
印旛放水路(下流部)は印旛沼開発事業により下総台地を開削して作られた人工河川ですが、工事経過後40余年を経過し、斜面林などが回復した結果、圏域で最も自然の残された河川の一つとなっています。勝田川は、谷津田の中の農業用排水路で法匂配1:2の小規模な自然河道ですが、一部に矢板護岸の箇所もあります。
……………………………………………………………………
違和感は次の通りです。
1 肝心要の花見川が登場しない
「印旛放水路(下流部)」は勝田川と高津川をもともとあった花見川の流域に接続(流域変更)して整備された河川です。基幹となる河川名(花見川)を伏して記述することは極めて不自然です。

流域変更という歴史的経過を説明する文章でも花見川という言葉は使いたくないという思考が背後にあるように感じます。

2 「印旛放水路(下流部)は印旛沼開発事業により下総台地を開削して作られた人工河川です」は花見川出自の誤認識を強く誘発する表現になっている

2-1 「印旛沼開発事業により下総台地を開削して作られた」という表現が誘発する誤認識
印旛沼開発事業では下総台地開削は行っていません。天保の堀割普請の跡の形状をほとんどそのまま利用して「印旛放水路(下流部)」がつくられたものです。

「印旛沼開発事業により下総台地を開削して作られた」という表現では、専門家以外の人が読むと、印旛沼開発事業があたかも台地面を新たに開いて堀割がつくられたような誤認識を誘発すると思います。この表現では実際の印旛沼開発事業の内容と齟齬をきたします。

印旛沼開発事業では、現在の勝田川合流部から弁天橋までの400m区間の右岸では台地縁の一部を削っています。ですからその工事に焦点を当てれば、確かに印旛沼開発事業は下総台地を「開削」したと強弁することも可能です。しかし他の区間(弁天橋から花島まで約3㎞)の台地斜面はほとんど掘削していません。このような強弁は河川整備計画の文章としては不適切だと思います。

「印旛放水路(下流部)」は、下総台地にそれまでに作られていた堀割の水路と既存河川を、印旛沼開発事業により改修してつくられた河川です。

2-2 「開削」という表現が誘発する誤認識
開削という表現では、台地面を新たに開いて堀割がつくられたような誤認識を誘発すると思います。

天保の堀割普請では、それ以前の天明の普請で作られていた古堀の改修工事をしました。
天明の普請ではそれ以前の享保の普請で作られていた古堀の改修工事をしました。
享保の普請では、すでに存在していた古柏井川の谷津の改修工事をしました。

つまり、言葉の意味そのものとして「台地面を新たに開いて堀割をつくる」ということはなかったのです。自然の河川(谷津地形)を利用して、それを少しだけ改変してきたのであって、「開削」という表現は花見川出自の誤認識を誘発する言葉になっています。

台地を「開いた」のは自然です。それを普請(工事)して印旛沼の水を東京湾へとつなげたのは人です。

2-3 「人工河川」という表現が誘発する誤認識
整備計画文章を書いた人は、念頭に「40年前に台地開削の工事があり、したがって人工河川であり、その人工河川に豊かな植生が復元した」という誤ったイメージを持っているように想像します。この文は人々にそのようなメッセージを届けます。花見川の出自の誤認識を誘発します。

40年前に台地開削で作られたから人工河川であるという文脈で使われる用語「人工河川」は誤りです。

40年前に台地開削はほとんどなかったし、それ以前に時代をさかのぼれば、古柏井川とその谷津にたどりつきます。人が一からつくった川ではありません。台地堀割部分の出自は自然河川です。

「印旛放水路(下流部)」を構成する河川の出自は、堀割部分を含めて全て自然河川ですから、出自を問題にするならば、「人工河川」は誤用です。

この河川整備計画の他河川の概要記述には「人工河川」だの「自然河川」だのという表現はありません。そうしたことから、私は、「『印旛放水路(下流部)』は…『人工河川』です」という強い思考回路が事前に存在していて、この文章が生まれたものと想像します。「印旛放水路(下流部)」という名称の存在が関係者の思考を縛り、バイアスが生じているものと感じます。

3 現在の自然は40年かけて回復した自然であるという誤った記述
40年前の工事で直接失われた自然(斜面樹林)はごくわずかですから、それが回復したからといって、河川全体のこととして記述することは誤りです。読者は誤解します。

堀割部分の柏井付近の斜面植生を見る限り、大正年間の資料と現代の姿を比較して、ほとんど変化がありません。

40年前の工事で斜面林などがほとんどいじられずに残されたので、結果として「圏域で最も自然の残された河川の一つになっています。」ということだと思います。

2011年9月24日土曜日

花見川の河川整備で気がかりなこと

利根川水系河川整備方針では計画高水流量について、次のように定めています。

利根川水系河川整備方針 抜粋
……………………………………………………………………
ア利根川
計画高水流量は、八斗島において16,500m3 /sとし、それより下流の広瀬川等の支川合流量をあわせ、渡良瀬川の合流量は渡良瀬遊水地の調節により本川の計画高水流量に影響を与えないものとして、栗橋において17,500m3 /sとする。関宿においては江戸川に7,000m3 /sを分派して10,500m3 /sとし、鬼怒川及び小貝川の合流量は田中調節池等の調節により本川の計画高水流量に影響を与えないものとして、取手、布川において10,500m3 /sとする。その下流において、放水路により1,000m3 /sを分派して佐原において9,500m3 /sとし、常陸利根川の合流量は常陸川水門の操作により本川の計画高水流量に影響を与えないものとして、河口の銚子において9,500m3 /sとする。
(文章の太字は引用者による)

(図中の赤線、赤文字は引用者が付け加えたもの)
……………………………………………………………………
この資料から利根川から印旛沼に1000m3/sの水が流れ込み、さらに花見川を経由して東京湾に流すことになります。

利根川水系手賀沼・印旛沼・根子名川圏域河川整備計画で定められた花見川堀割部分の流量は270m3/sです。

したがって単純に考えると、利根川水系河川整備方針に基づく流量の1/3しか流せない河道の整備を千葉県は河川整備計画に定めたことになります。もし、1000m3/sの水を花見川に流そうとすると、大規模な掘削・河道拡幅が必要になります。

この点を千葉県河川整備課の担当官に尋ねたところ、次のような回答をいただきました。
●利根川水系河川整備方針と利根川水系手賀沼・印旛沼・根子名川圏域河川整備計画の整合は取っていない。
●利根川水系河川整備方針に基づく利根川水系河川整備計画の策定を待っていては、いつまでも千葉県管理の利根川水系河川の整備の実施ができない。そこで、利根川水系手賀沼・印旛沼・根子名川圏域河川整備計画を独自に作って、国の承認を得た。
●利根川水系河川整備方針に基づく利根川水系河川整備計画が策定され、利根川水系サイドから花見川に新たな要請があれば、その時調整することになる。
とのことでした。

利根川水系河川整備計画の策定内容によっては、利根川水系手賀沼・印旛沼・根子名川圏域河川整備計画で花見川堀割部分の保全が担保されたということは、砂上の楼閣になるのかもしれません。

気がかりなことです。

(つづく)

2011年9月23日金曜日

花見川の河川整備計画

千葉県河川整備課にて花見川にかかわる河川整備計画について教えていただきました。

平成19年7月に「利根川水系手賀沼・印旛沼・根子名川圏域河川整備計画」が策定されましたが、花見川流域はこの計画の中の印旛沼圏域にふくまれ、河川整備の内容(河川工事の施工により、設置される河川管理施設実施の概要)が次のように定められています。

利根川水系手賀沼・印旛沼・根子名川圏域河川整備計画 河川整備の内容 抜粋
……………………………………………………………………
(10)印旛放水路(下流部)・勝田川
改修断面は,法勾配1:2 の土羽河岸を基本とし,護岸は橋梁,堰等の構造物の付近など最小限にとどめるとともに,動植物の生息・生育環境に配慮し自然素材による自然な水際の回復に努めます。
印旛放水路(下流部)途中の渓谷区間では両岸に河畔林が茂り,良好な自然環境が創出されていることから,これらの改変を最小限にとどめるように配慮します。
印旛放水路(下流部)の下流区間は,川幅約80m の河道として高水敷幅を約16m 確保する計画となっており,市街化の進んでいる地域に残された貴重なオープンスペースとして,関係機関と調整を図りながら積極的な利用を図ります。
勝田川は,改修によって現在の川が大幅に拡幅される計画であり,高水敷も確保されていることから,法面をできるだけ緩傾斜とするように配慮し,水際にヨシ原の造成を行い,動植物の生息・生育環境に配慮した改修とします。

印旛放水路(下流部)
・施行区間 新幕張橋~大和田排水機場
・延 長 L=10,400m
・整備内容 掘削工,河道拡幅,築堤工,護岸工,堰,橋梁架換
勝田川
・施行区間 印旛放水路(下流部)合流点~宇那谷橋
・延 長 L=3,530m
・整備内容 河道拡幅,築堤工,護岸工,橋梁架換

……………………………………………………………………

●花見川堀割部分の保全の担保
この整備計画では花見川の改修について、土羽河岸を基本とし、渓谷区間では改変を最小限にとどめるように配慮しますという基本姿勢がうたわれており、安心しました。
これで、花見川堀割部分の斜面保全が、河川改修上からは担保されたと言えると思います。

●花見川堀割保全の次のステップ
花見川堀割部分は自然環境上の価値のみならず、土木遺構としての歴史的文化財的価値も大きなものがあります。
河川改修上その保全が担保されたので、次のステップとしてより積極的な保全策を執ることが社会に求められているような気がします。
中長期的な視点から堀割部分の自然環境価値、歴史文化財価値の保全を担保するために、何らかの法指定をするなどの措置が大切だと思います。

(つづく)

2011年9月21日水曜日

花見川流域界図の入手

このブログを開始するに際して花見川流域界図を探したのですが、その時は見つかりませんでした。仕方がないので、関係6市の資料から花見川流域界を作りました。この経緯はこのブログのページ「流域界」に書いてあります。

このたび、千葉県河川整備課にて花見川の流域界図を入手しましたので報告します。
入手した資料は印旛沼流域図(6万分の1)で、印旛沼全体の流域図です。この中に、印旛沼放水路(下流部)として、その流域界が掲載されています。

印旛沼流域図

●従属的な流域
この図を見て、花見川流域が自然地理的には印旛沼流域でもないのに、図中付録のように描かれていることの不自然さを感じます。
また、名称も花見川や花見川流域という名称がなく、流路に「印旛沼放水路(下流部)」という名称が印字されていることに対する不自然さも感じます。
花見川とその流域が河川としては全うな扱いをされていないで、ただ印旛沼の放水機能だけが求められている従属的流域であることが、この図に象徴されていると感じました。

●流域界
入手した花見川流域界とこのブログで作った(編集集成した)花見川流域界を比べてみると、6万分の1という小さな縮尺のレベルではあまり違いはありませんでした。
私はGISを用いていますから地図を拡大して、大縮尺で使用することが多いので、そうした正確な流域界図のデータの存在について河川整備課担当官にお尋ねしたのですが、存在していないとのことでした。
6万分の1地図の流域界線は、地図に掲載されている地物との関係を正確に把握することが困難な精度ですので、この入手地図により、このブログの流域界線を修正することはあきらめました。

左(印旛沼流域界図)、右(このブログの花見川流域界)

なお、流域界について、河川整備課にて次のことを教えていただきました。

ア 流域界を設定するための技術基準はない。
イ 河川行政では、河川の流域界は、自治体の排水区域界等を勘案して、図に表現することになる。
ウ 計画を作るときなどのタイミングで、流域界図を作成する。(流域界は時間とともに変化する。)
エ 宅地開発等で流域が変更となることがあるが、一定規模以上の宅地開発等を行う場合、要綱等により、開発者と河川管理者が協議することになっている。
オ 県で用いている印旛沼流域界図は資料として6万分の1縮尺のものがもっとも正確である。
カ 県で、GIS上で利用している流域界線はない。

千葉県河川行政では、6万分の1地図より正確な流域界線をデータとして用いる行政ニーズはないとのことでした。

2011年9月20日火曜日

子和清水遺跡の出土物閲覧7

13出土遺物を閲覧して

独鈷石(石英粗面岩)

今回の出土遺物閲覧は千葉市教育委員会の許可を受けてから、日程を調整し、所定の日時に遺物が保管されている千葉市埋蔵文化財調査センターに出向き2時間かけて行いました。

事前に閲覧を要望した資料が全て机の上に用意していただいていました。

実際に資料を目の前にしてみると、全てについて興味を投影しながら詳細に閲覧することは不可能であるとすぐにわかりました。そこで、資料数の多い土器類の閲覧は思い切って最少点数にし、石器類のうち代表的なものに閲覧を絞り、それをじっくり見ることにしました。

時間配分は、最初の1時間20分は資料閲覧とし、残り40分は写真撮影としました。

なお、写真撮影では、用意した方眼紙(台紙)と小型三脚が役立ちました。

資料を閲覧した感想はこれまでの記事に書いた通りですが、全体を通して次の感想も持ちました。
ア 木や草や獣骨素材の用具
遺物として出土したものは石器や土器などであり、木や草あるいは獣骨などの素材の物は一切出土していません。関東ローム層に覆われた土質のため石器や土器以外は全て溶けてしまたったようです。木や草や獣骨を素材とした生活用具がどんなものであったかしりたくなります。

イ 近隣居住者とのネットワーク
子和清水遺跡の近くには犢橋貝塚があります。直線距離にして2㎞しか離れていません。しかし、子和清水遺跡から貝殻は1枚も出土しなかったとのことです。子和清水に住んでいた縄文人も出かければ魚介類をとることは可能です。しかし1枚の貝殻も出土しなかったということは、縄文人の間に社会的な役割分担のあるネットワーク(交換、贈与関係)が発達していたことを示唆します。犢橋縄文人は干貝や干魚をつくり子和清水縄文人に贈る、子和清水縄文人は干肉をつくり犢橋縄文人に贈るという役割分担が明確にあったように感じます。

ウ 黒曜石
こうした近隣縄文人同士のネットワークが、結局全国を覆っており、黒曜石原石などもこのネットワークを伝わって、はるばる箱根から千葉まで届いたのだと思います。

エ 狩対象の増殖祈願
生活の中で、狩りが最も重要な活動ですから、狩りの対象の動物が増えていき、なくなることがない「増殖」を願ったことは間違いないと思います。
人の増殖(生殖)を祈願するための道具の一つとして石棒が位置付けられるようです。
狩りの対象の増殖を祈願するための道具として何があったか興味があるところです。

(私の妄想では、独鈷石がそれにあたるのではないかと思います。狩った動物の腹を裂いて、まだ脈打っているような心臓[命の象徴]を握って取り出す時の手の感触を独鈷石が再現しているように、独鈷石を握ってみて、感じました。)

オ 物証のないことの想像
狩りをする時の心の持ち方、狩りのあとの動物の処理の仕方、動物に対する感謝の在り方、料理の仕方、獲物の皮や骨などの利用の仕方、肉の保存の仕方、交易に使う部分のつくり方、などなどについて、想像しなければいけないと思いました。物証(証拠)がないから考えないということは、古代人に対して大変失礼(不遜)であると感じました。

最後に出土物資料閲覧を許可していただいた千葉市教育委員会に感謝します。
(おわり)

2011年9月19日月曜日

子和清水遺跡の出土物閲覧6

12 古墳時代出土物 小型甕

古墳時代出土小型甕
出土時写真(報告書図版24)
小型甕スケッチ(報告書112ページ)
小型甕観察表(報告書113ページ)

手にとった土器は使用感は感じられず、底面と胴の成す角(かど)は鋭利な状態でした。供献用の土器であることを実感できます。
出土後口縁部の一部を補修しています。

古墳時代の遺物として多数の完形小型甕が出土しています。
古墳時代の住居址は2軒で、時代を異にしています。「台地縁辺部に単独で存在している点や遺物が1点を除けば全て小型甕形土器である点から特殊な遺構と思われる。」、また「供献用の土器がその大半を占め、割合は1:9ないし1:5に及ぶ。」「集落の本体からはずれた位置に独立して単期間形成された住居であり、儀式の場とも考えられる。」(報告書)

古墳時代の建物(場所を途中移すが1軒が存在)は子和清水の泉を祀る祭祀の場であったと想像します。

子和清水は「こわ(強)い」(干天でも枯れることのない強靭な湧水力を有する)水源であり、
1 この時代の水田耕作の農業用水源として大切であり
2 水田耕作に従事する住民の飲料水水源として大切であり
3 狩猟時代以来の祖先の命を育んできた歴史的水源として大切であった
ことから、特段に重要な水源であり、その水源を守り、祀る気持ちが、そこに祭祀の場を作ることになったのだと思います。
同じような水源で、船橋市三山には二宮神社が現在もあります。

子和清水は「こわ(怖)い」(思いもよらない不思議な力がある)水源であり、
1 病気治癒のために大切な水であり
2 健康増進のために大切な水であり
3 酒にも匹敵する美味しい水である
ことから、特段に重要な水源であり、その水源を守り、祀る気持ちからそこに祭祀の場ができるとともに、民話「子和清水」が生まれたのだと思います。

古墳時代の祭祀跡の存在から、縄文時代以来、この地に住んだ人々が、子和清水の水量と水質の双方について注目して、大事にしてきたことを想像することができます。

(つづく)

2011年9月18日日曜日

子和清水遺跡の出土物閲覧5

11 縄文時代出土物 石鏃(せきぞく) つづき

子和清水遺跡出土の縄文石鏃例
左よりチャート製、チャート製、黒曜石製

●参考 さち(幸)
「さち」という言葉が、石鏃が主構成物である矢から直接発生していることを確かめましたので、そのメモを記録しておきます。

「さ」【矢・箭】矢の古称か。語源未詳。

「ち」【霊】[語素]神や自然の霊の意で、神秘的な力を表す。「みずち(水霊)」「のずち(野霊)」「おろち(大蛇)」「やふねくくぢのみこと(屋船久久遅命)」など。

「さち」【幸】①獲物を取るための道具。また、その道具のもつ霊力。②漁や狩の獲物の多いこと。また、その獲物。③(形動)都合のよいこと。さいわいであること。しあわせ。幸福。

以上国語大辞典(小学館)

元来、矢のことを「さ」と呼んでいて、矢が獲物をもたらす霊力を有していることから、矢を「さち」と呼んだ。その矢(さち)が多くの獲物をもたらすので、獲物のおおいことや獲物そのものも「さち」と呼んだ。ということだと思います。

さらに獲物を多くもたらす矢を「さちや」「さつや」(幸矢、猟矢)、獲物を多くもたらす弓を「さちゆみ」「さつゆみ」(幸弓、猟弓)、魚のよく釣れる釣り針を「さちち」(幸鉤)と呼ぶようになったのだと思います。

閲覧した縄文石鏃は、縄文人にとっては単なる道具ではなく、それに「獲物をもたらす神秘の力(霊力)」を感じていた特別の道具であったものと想像します。

(つづく)

2011年9月17日土曜日

子和清水遺跡の出土物閲覧4

11 縄文時代出土物 石鏃(せきぞく)

石鏃(チャート)
長さ2.4×幅2.1×厚さ0.6㎝

石鏃(チャート)
長さ2.7×幅2.1×厚さ0.5㎝

石鏃(黒曜石)
スケッチ(報告書101ページ)
長さ2.7×幅1.2×厚さ0.3㎝
小突起の数

●整形打撃数
この黒曜石鏃の一つの刃にある小突起を数えると30でした。この小突起は他の石で打撃した時にできたものです。スケッチをよく見ると、この刃の見えている部分は20の打撃でできていますから、両面各20回程度の打撃で30の小突起が残る刃ができたと考えました。
2枚の刃を作るために合計80回の打撃をこの長さ3センチに満たない鏃(やじり)に加えています。全体の整形にはもっと多数の打撃を加えていることになります。

●超精密作業のスキル
自分の(平均より華奢な)手の指でこの石鏃をつかんでみて、どのような道具でどのようなスキルでこれを作ったのかリアルに想像できません。自分の指が大きすぎます。

縄文時代人の手の指は、指に力を入れる機会が多く、現代人と比べてはるかに「ゴツイ」ものであったでしょうから、その指で、この小さな鏃を作る超精密作業に感嘆します。

当時この鏃をつくるために用意した台座、抑え器具、打撃器具、飛び散る破片から目や体を守る防具、作業に集中できる作業空間など高度な技術について知りたくなりました。

●鏃作成時間
また、この小さな鏃をどのくらいの時間をかけて作ったのかということも興味がわきます。原石から元となる小塊をつくる工程があり、その後、小塊から鏃をつくる時間だけで、200打撃が必要であるとすると、熟練者で1時間~2時間といったところでしょうか?1日に1人が生産できる鏃はどんなに多くても10個に満たないと想像します。

●兵站活動比
さらに、鏃の他に、矢柄の竹(?)と矢羽を採取加工して装着しなければ矢ができません。

1回の狩猟で捕獲する動物の量とそこで消費する矢の量などの関係から、動物を追う狩猟そのもの時間と、狩猟を行うための兵站活動(消費財としての矢の作成活動、そのほか耐久消費財としての弓、矢筒、捕獲動物運搬具等の作成活動)の時間の関係などにも興味が湧きます。

●縄文人の気持ち
鏃を実際に手に取ってみると、この鏃を作っていた縄文人の心に浮かんでいた気持ちがどのようなものであったのか、興味が湧いてきます。

当時のハイテク素材(黒曜石)を交換等により何とか入手し、ハイテク加工技術(黒曜石の整形技術)で鏃を作ったときの気持ちは、ものづくり技術という点では、現代のハイテク産業起業者と類似していた面があったと想像します。

黒曜石製鏃はおそらくチャートなどの素材の鏃とくらべて高性能であり、狩りでの成績を上げたものと想像します。そうした鏃を備えた矢をつくるためには縄文人は交易や贈与で関係する人々との友好関係を増大させ、黒曜石原石の入手に努めたことと思います。同時にハイテク技術の習得に特段の熱心さをもっていたものと想像します。

●ものづくりの目的
しかし、ものづくりの目的は全く異なります。縄文人にとって狩猟能力は生活していく上で最も重要な能力だと思います。その能力が劣れば生命の維持が困難になります。縄文人は自ら作った矢で自ら動物を狩り、自らの食糧を得、生命を維持し、子孫を残す増殖を可能としました。
現代のハイテク産業起業者は生活のためではありますが、社会の仕組みからして「利潤追求が目的」とすることにならざるをえません。
利潤という概念も実態もゼロの縄文人と、利潤追求が支配している社会の現代人の気持ちのとの落差についても大いに興味が湧きます。

一つの鏃を手にして、とめども尽きない発想が流出してきますが、切りがないので、一旦止めます。

●参考 幸矢・幸弓
さちや【幸矢】幸(獲物)を得る矢。狩猟用の矢。さつや。
さつや【猟矢・幸矢】狩猟に用いる矢。さちや。
さちゆみ【幸弓】幸(獲物)を得る弓。狩猟用の弓。幸矢と合わせて用いる。さつゆみ。
さつゆみ【猟弓・幸弓】狩猟に用いる弓。さちゆみ。
以上「国語大辞典」(小学館)による。

このように「さち(幸)」という日本語と狩猟との間に強い関係があります。

折口信夫は次のように述べています。
未開野蛮の時代に於て、最幸福な、或は、或種の君たるべき資格ともなる筈の、祝福せられた威力の根元は、狩猟の能力であると考へられて居た。私は、此威力の源になって居る外来魂は、さちと言ふ名であった事を主張して居るものである。即、古くから用ゐられた語に、さつ矢・さつ弓・さち夫など言ふのがある。此さちは、只今も残って居る方言、又は其背景をなして居る信仰に於ては、明らかに抽象的な能力、或はその能力の出所となるものを意味して居る様である。普通、山ノ幸・海ノ幸といふ事は、山の猟・海の猟、或はそれに、祝福せられた、といふ形容がついた位に説かれて居るが、実は、山海の漁猟の、能力を意味する威力を表すのが、此語の古義であったと思ふ。だから、その威力を享けた人が、山幸彦・海幸彦であったのだ。」(「原始信仰」)(ただし、中沢新一「モノとの同盟」からの孫引きです。)

縄文時代において、(弓矢による)狩猟で獲物を得た体験から、「さち(幸)」という言葉がうまれたということです。

(つづく)

2011年9月15日木曜日

子和清水遺跡の出土物閲覧3

9 縄文時代出土物 石棒、独鈷石

石棒(粘板岩)
スケッチ(報告書107ページ)
報告書では「粘板岩製で基部側が折れている。敲打によって成形した後、部分的な研磨によって仕上げられている。出土地点から晩期のものと考えられる。」としています。
19.5cmあります。
リアルな男根の様子はうかがえませんが、増殖にかかわる祭祀の道具であると考えられます。
人々の思考の中で増殖に対する思いがどのようなものであったのか、興味がわきます。

独鈷石(石英粗面岩)
スケッチ(報告書107ページ)
報告書では「石英粗面岩であるが、軽石に近い石材で軟質である。片側は折れている。先端部分には敲打痕が認められる。出土地点から晩期のものと考えられる。」としています。
密教法具の独鈷杵(とっこしょ)と形がにているので、類似出土物を独鈷(とっこ)石と呼んでいるそうです。祭祀に使われたと想像される非実用石器としてくらいしかわかっていないようです。
よく見ると独鈷杵を握るときのように、握りやすいようなくぼみが石の真ん中に削られています。どんな目的の祈りに使ったのか、興味がわきます。

10 縄文時代出土物 玉類

三角形の玉(半欠 滑石)
スケッチ(報告書108ページ)
報告書では玦状耳飾りの半欠品で薄緑色を呈し、完形状態では平面形が三角形になるとしています。

円環状の玉(破損 滑石)
スケッチ(報告書108ページ)
報告書では玦状耳飾りの半欠品で、断面が円形に近くm、完形なら円環状になるものであり、破損後に穴を2孔穿っていて、両側から穿孔されているとしています。

これ以外に勾玉の製作の各段階を示す資料が多数見つかっており、報告書ではこの遺跡が縄文時代の玉製作跡として、小規模ではあるが、千葉県レベルで珍しいとしています。

二つ玉の例をみて、装身具に対する縄文人のセンス(この場合たぶん女性)は現代人と全く変わらないと思います。
近くの検見川の沖積層から出土した木製の櫂に施されていた彫刻をみても、その装飾に対する縄文人のセンス(この場合たぶん男性)は現代人と変わらないと感じていました。

検見川で丸木舟と一緒に出土した櫂の柄の彫刻
「加茂遺跡」三田史学会(1952)収録図版第21

(つづく)

2011年9月14日水曜日

子和清水遺跡の出土物閲覧2

4 縄文時代出土物 土器

縄文のある土器片

素材の土に砂や他の混入物(軽石片?)が思いのほか沢山入っています。
縄状の物で付けたと思われる模様の突起部分が、柔らかい時に扱われて扁平になって失われた様子や、ヘラ状の物でその上から模様を描き直した部分も確認できます。
調査者が小片を接合しています。

大型波状口縁を有する土器片

報告書では写真土器片を含む一群について、「前期後半の諸磯式・浮島式土器」に区分し、「大型波状口縁を有する土器で、口縁下には連続爪形文を施す。短沈線か撚糸文を配した隆帯を伴い、胴部文様は木葉文か肋骨文となる。」と説明しています。

浅鉢型土器片
土器復元図(報告書94ページ)

報告書では写真土器片を含む一群について、「晩期後半の千網式・荒海式土器」に区分し、「浮線文を有する土器。肩部文様帯に連続浮線楕円文やレンズ状付帯文を有する土器。」と説明しています。

今回の子和清水遺跡出土物閲覧は欲張りすぎるのもよくないと思い、土器の閲覧は最小限にとどめました。報告書では、出土した縄文土器について10の時代区分をしているようです。それらについて模様の違いなどを観察したかったのですが、次の機会に土器類の閲覧をじっくりしたいと思っています。

5 縄文時代出土物 石斧

石斧(砂岩)

報告書では分銅形としています。

6 縄文時代出土物 凹石

凹石(安山岩)
スケッチ(報告書103ページ)

報告書では「敲打による凹みが両面にあり、磨痕と敲打痕を共有している。」と説明しています。
WEBで凹石を調べると、「凹石(くぼみいし)とは、こぶし大の円礫・楕円礫のほぼ中央に浅い凹みをもつ礫石器。凹みは打撃を加えたものと回転摩擦痕跡によるものがあり、前者はクルミの殻割りや石器製作に使われたと考えられ、後者は火を起こすための火きり杵を上から押さえたものではないかと考えられている。」(ウィキペディア)と出ていました。

7 縄文時代出土物 磨石

磨石(安山岩)
スケッチ(報告書104ページ)

報告書では「磨痕と敲打痕を共有している。」と書いてあります。植物などを磨り潰す道具のようです。

8 縄文時代出土物 石皿

石皿片(安山岩)
スケッチ(報告書106ページ)

WEBに「凹みを多数もつ石器として蜂の巣石(はちのすいし)がある。凹石とは異なり、板状の石材が選ばれることが多く、凹みは主に回転摩擦痕跡によるものであることから、火きり臼であると考えられている。雨垂れ石(あまだれいし)との呼称もある。」(ウィキペディア)という情報が出ており、この石皿片がこれに相当するものと考えます。
(つづく)

2011年9月13日火曜日

子和清水遺跡の出土物閲覧1

子和清水遺跡の位置

1出土物を手に取って観察したくなる
花見川流域の散歩の中で古代遺跡に興味を持ち出しています。
近々花見川流域全体の古代遺跡の分布特性について学習したいと思っていますが、まだしていません。
しかし、子和清水遺跡については、その報告書を読んでみました。また子和清水の由来について考えたことがあります(2011年7月29日記事「子和清水遺跡」)。そこで、古代遺跡について深く考える一つのきっかけとして、子和清水遺跡について、その出土物を自分の手で触って観察してみたいと思いました。
実際の出土物を間近で見ると、書物からの情報では得られない「豊かな発想の展開」が期待できるであろうことは、検見川出土の縄文丸木舟の閲覧で体験しています(2011年8月9日記事「縄文丸木舟と大賀ハス7」)。
思い切って千葉市教育委員会に閲覧を申請したところ、許可していただきました。

子和清水遺跡の報告書

2 出土物の保管状況
8月下旬に千葉市埋蔵文化財調査センターにて出土物を閲覧させていただきました。
閲覧に先立ち出土物の整理保管状況について教えていただきました。
出土物は箱、コンテナに整理され保管されています。報告書が出土物の台帳を兼ねているとの説明でした。調査は4半世紀前に実施されたものであり、デジタルカメラやパソコンを使うことなく実施されたものです。

出土物の保管状況

3 旧石器時代出土物
報告書で尖頭器と記載されている先の尖った石器をいくつか手に取ってみました。
材質はチャート、砂岩などです。出土物は水洗いし陰干しするという処理がされたそうです。出土物は表面が風化しており、手から離した後、皮膚にかすかに残留物を感じました。

旧石器時代尖頭器(チャート)

旧石器時代尖頭器(砂岩)

旧石器時代尖頭器(砂岩)

これらの尖頭器は、木の柄につけて投げ槍として、動物の狩りに用いられたものと想像しました。
これが無い時代は石を投げたり、手に持った石で動物に立ち向かったり、石に弦や木を括り付け投げ打った時代もあったと想像します。尖頭器による投げ槍が生まれた時の狩猟効率の向上は、大きなものがあったと思います。
しかし、この尖頭器では一撃で動物を絶命させることは困難です。長時間に及ぶ闘争、追跡が必須であり、まだ人と動物の関係に非対称が殆どないと感じます。
この時代には弓矢はまだ発明されていなかったようです。

この尖頭器を作るスキルに関心しました。別の石を使って端から欠いていったのだと思いますが、その時使った道具(台座、ハンマー用石、怪我を避ける防具など)や工作場所(工作に集中できる場所)に思いが馳せます。何しろ力いっぱいひっぱたけば完成するものではありません。石の割れ方特性の知識と力の入れ方加減が大事な精密加工スキルです。

また、尖頭器の材料となる石の入手方法についても興味がわきます。自ら遠征して石を求めたのか、交易(交換、贈与)により得たのか、近くで手に入るのか(堆積地層中の礫層や海川の漂着物)。旧石器時代の交易ネットワークの広がりは想像以上だったと思います。この付近で出土する黒曜石については箱根由来のものが多いようです。


旧石器時代黒曜石出土物
この出土物は動物の皮や筋を裂いたり、切ったりする時に使えると感じました。あるいは皮から脂肪を削ぐときにも使えるように感じました。植物についても裂いたり、削ぐことができます。


石核(玄武岩)
報告書では「打面が周囲に設定されている円盤状の石核である」と説明されています。石核をWEBで調べると「石核(せっかく、core)とは、一般に打製石器の素材とされる剥片(flake)をはがし取った際に残った原石のことをいう。」(ウィキペディア)と出ています。
(つづく)