2011年11月30日水曜日

柏井付近の地形地質 上

花見川現地調査報告3

柏井付近の現地調査結果のうち、北側の部分を報告します。

 1 調査地点情報
次に調査地点の位置図を示しました。
調査地点位置図
基図は千葉市提供DMデータを使用しました。

調査地点のプロットはGPSデータをパソコンが機械的にプロットしていますから正確です。

この調査位置図に対応した地形分類図(予察図)を次に示します。
昭和24年撮影米軍空中写真実体視により作成しました。
事前に作成した地形分類図(予察図)

 また地形断面を次に示します

断面1
 千葉市提供DMデータ等高線情報から作成しました。

断面2
 千葉市提供DMデータ等高線情報から作成しました。

 2 緩斜面と凹地
 北柏井集落の乗る河岸段丘の北に広がる台地は、標高28m等高線より西側が平坦な地形面、東側が緩斜面になっています。
その緩斜面の中に、18.4mの測量ポイントのある大きな凹地があります。
断面1でもその縁が表現されています。
写真1は緩斜面上から東側(花見川方向)を見た時の風景です。
写真1
 緩斜面上から東側の風景 中心部から外れていますが、凹地形が確認できます。
凹地中央部は藪(雑木林)になっていてその内部の巨大すり鉢状地形は肉眼では観察できますが写真では表現できません。
普請盛土で出口を失った凹地です。

耕作されている方にヒアリングすると、雨が降ると水がたまるため戦後底の部分で水抜きの工事をしたことがあるとのことです。

 緩斜面を構成する地層を見ることのできる露頭の存在は見つけることができませんでした。
川表の崖は竹林となっていますが危険で近寄れません。
北柏井集落の乗る段丘面背後の崖は私有地で今回は入れませんでした。

 調査位置図に示した「地表面観察」場所では耕地の土質は褐色ローム質細砂か灰色中砂でした。
ローム層起源の土壌とは異なるので普請盛土起源であることが示唆されます。

崖下人家の住民からヒアリングしたところ、「崖から凹地までの一帯は全て普請盛土であり、だから土地が肥えていると先祖から伝わってきている」との話を聞くことができました。
水はけのよい砂地の土壌の特性を生かした畑作が行われているものと想像しました。

写真2
 北柏井集落の乗る段丘面上から背後の崖を望む。

この崖を調査すれば背後の緩斜面を構成する地層を確認できる可能性があります。

 現場観察から、北柏井集落の乗る段丘面が北方向に連続していてそこに普請盛土が行われ、一見台地のような緩斜面が作られ、一部が埋め残されて大きな凹地ができたと考えました。

 3 北柏井集落の乗る河岸段丘
北柏井集落の乗る河岸段丘の構成地層を観察するために露頭を探しましたが、見つかりませんでした。
路傍や人家の庭の土質はローム、褐色細砂、褐色シルトなどでしたが、地層に由来するのか、人工的なものなのか不明です。(おそらく地層由来ではあるが、人工的に撹拌されたものと現場では感じました。)

4 後谷津北側の河岸段丘
写真3は後谷津北側の河岸段丘の全景写真です。
写真3
後谷津北側の河岸段丘

 段丘端から北側を見た風景です。画面左側が花見川です。
地形面としての高さは花見川対岸の北柏井集落の乗る河岸段丘より2mほど高く、高位の段丘として捉えることができます。
段丘上の耕地の土質は手前から細砂やシルト、ローム、ロームと砂の混合と帯状に変化するので、段丘面の構成地層とその上の普請盛土の存在を推測できます。

 この段丘の構成地層を観察できる可能性のある場所が露頭2です。
露頭2

露頭2では、露頭下の地面に上層より固結した砂層があり、露頭崖には固結していない褐色の細砂・シルトが観察でき、その上にロームがあります。
ただ、露頭は笹などの植物に覆われ、私有地で植物を剥ぐわけにもいきませんので、最初の観察ですから無理はしませんでした。
土地関係者の了解を得てから、本式調査をしたいと思います。

柏井付近の河岸段丘地形面を構成する堆積物を直接観察できる貴重な露頭だと判断しました。

褐色の未固結細砂・シルトが段丘堆積物であると考えました。

露頭断面で堆積状況を観察できれば、段丘堆積物の特性情報が入手できると思います。

露頭1

 露頭1は川表の崖で段丘堆積物を観察できる位置にあります。
実際に観察できたものは上から崩落してきたと思われる砂質ロームです。崖の観察を子細に行えば段丘堆積物を観察できるかもしれません。

 5 後谷津北側の河岸段丘の東の台地
後谷津北側の河岸段丘と南柏井共同墓地に挟まれた台地は、その標高が24~26mで付近より低くなっています。
この台地の露頭付近の状況を次に示しました。

露頭3

 この露頭ではローム質砂などが観察できますが、層構造を確認できません。逆に近くに貝混じりの砂などがあり、露頭全体が普請盛土であるという感じを強く受けます。
露頭が急崖であるため最初の調査でそれ以上の十分な観察ができませんでした。
今後の調査で正確な情報を得たいと思います。

地形分類図(予察図)と異なり、現地調査では、この露頭から、台地の一部が河岸段丘上に築かれた普請盛土であるかもしれないという考えを持つに至りました。

 6 現地調査結果により想定した河岸段丘面の分布
現地調査の結果、次に示す河岸段丘の分布を作業仮説として考えるようになりました。
露頭観察調査を繰り返し行い、正確性と情報の増大を図ることにより、この作業仮説を検証したいと思います。
河岸段丘面の分布(一部)(仮説)

普請盛土に覆われて隠れてしまった部分を想定復元して作成した古柏井川河岸段丘面の分布図(一部)です。

2011年11月29日火曜日

横戸付近の今後の地形地質調査について

花見川現地調査報告2

1 東岸の古柏井川河岸段丘の地形
東岸の古柏井川河岸段丘と考えられる地形面(平坦面)とその背後の崖(侵食斜面)の存在、分布は米軍空中写真で事実を把握できました。
この上に乗る普請盛土の分布も同じく米軍空中写真と現場踏査から把握することができます。
地形分類図(予察図)は精度が荒いので、GIS上で目一杯拡大しても不都合の少ない本図を作成したいと思っています。

2 東岸の古柏井川河岸段丘の地質
問題はその地形面を構成する地層をいかに観察するかです。
幸い東岸のサイクリング道路沿いには小露頭がいくつかあるので、小露頭の情報を横に連続させていけば、最後には崩落土や植生に邪魔されないで、地層全ての情報を得られる可能性がありそうです。
難渋することは必至ですが、幸い植物も枯れだしたので調査は実施できそうです。
もし情報が得られれば、それは得難い重要情報になると思います。
東岸の露頭で古柏井川河岸段丘の構成地層を観察できれば、地形で明らかになったことを、地質においても証明することになり、さらに勝田川河岸段丘との対比も確実に行うことができる可能性があります。

現時点では次のような地形面分布と地層断面を想定していますが、予断を持たずに露頭調査にチャレンジしてみたいと思っています。
想定する古柏井川河岸段丘面分布
想定する地層断面

普請盛土の下に段丘面を構成するローム層やその下の堆積層を見つけるだけ程度の観察スキルは、40年ぶりの露頭観察であってもありそうです。
問題は斜面で崩落土と植生に勝てるだけの体力があるかどうかです。

3 西岸ゴルフ場の凹地地形
西岸ゴルフ場の凹地地形も古柏井川段丘面の川側に普請盛土が乗っているものと考えています。
戦前の地形図を見るとこの凹地地形は南に続いており、大胆に考えれば北柏井の集落の乗る河岸段丘まで連続しているのではないかと考えています。

現在は地形情報(普請絵図、旧版1万分の1地形図、米軍空中写真)と1つのボーリングデータしか情報がありません。

西岸川表の崖の調査はそこに到達する公の通路がなく、切り立っていて下が水面であるため危険であり、植生に覆われているため個人では到底無理です。
しかし、もし調査ができれば貴重な情報が得られる可能性が濃厚です。

[思考実験]
崖の地質調査を、ロープを使った高所調査技術等を活用して、また土地関係者の協力を得て最小限の植生を抜開して、プロ地質調査者が実施するということも、一つの夢としてあり得ます。
そのような特殊調査の企画(予算と効果)について検討しておくことも意義があると思います。
もしそのような特殊調査が実現するとしたら、地形地質に興味を持つ人、堀割普請に興味を持つ人、地域の歴史に興味を持つ人、ゴルフ場や柏井高校の関係者、近隣住民が、何らかの取り組みの中で花見川の成り立ちを解き明かす興味を共有している状況があるにちがいありません。

2011年11月28日月曜日

横戸付近の地形地質

花見川現地調査報告1

花見川の地形地質現地調査を行いました。とりあえずわかったことをいくつかの記事に分けて報告します。
最初に、下横戸付近(弁天橋から軍用軌道鉄橋跡)について報告します。

1 調査地点情報
調査地点の位置図を次に示しました。
調査地点位置図
基図は千葉市提供DMデータを使用しました。

この調査ではGPSを利用したので位置(風景や露頭を撮影したカメラの平面位置)は正確です。

この調査位置図に対応した地形分類図を示します。昭和24年撮影米軍空中写真の実体視により作成した予察図です。
事前に作成した地形分類図(予察図)

また、地形断面を示します。
断面1 千葉市提供DMデータの等高線情報から作成しました。

断面2 千葉市提供DMデータの等高線情報から作成しました。

2電波塔付近の地形(古柏井川河岸段丘と考えられる地形面)
電波塔は地形分類図の平坦面と普請盛土の境付近にあります。
写真1は、ここから普請盛土方向を見たものです。
写真1
地形図等高線の表現は不十分で、実際は普請盛土の川裏が比高7m程度の急崖になっています。
普請盛土であることは地形分布と急崖の露頭から確認できます。
電波塔の敷地は付近の最も低い場所と比べると1m程度盛土されています。

電波塔から東をみた風景が写真2です。
写真2
だらだら坂になって台地面(標高22m程度)に続いています。
昭和24年の空中写真ではここに切り立った急崖が確認できますから、その後埋立が進んだことが確認できます。
以上の情報から、台地面を切る地形面(分布から古柏井川の河岸段丘と考えられる)の川側寄りに普請盛土の山が築かれたことが確認できます。

3 花見川東岸の露頭(河岸段丘の構成地層)
露頭1、露頭2は花見川東岸川表の標高12mから14mに在ります。

露頭1
ロームです。直感的には上から崩れてきた普請盛土のように思われます。

露頭2
露頭の上はロームと砂層の塊が混じっていて、明らかに普請盛土で、下は地の砂層のようです。

この付近には上から崩れてきた普請盛土が多く本来の地層断面を、今回の現地調査では確認で出来ませんでした。
しかし、露頭が連続しているので、根気よく調べれば電波塔の乗る地形面(古柏井川河岸段丘と想定)の構成地層を明らかに出来る可能性の存在を知ることができました。

次に露頭の地形断面図上の概略位置を示しました。
露頭の地形断面図の位置

露頭1、2付近から、今後、貴重な地質情報が得られる可能性を感じます。

4 花見川西岸の露頭(普請盛土)
露頭3、露頭4は普請盛土の露頭です。
露頭3
砂の中にローム塊が混じっています。標高22mほどの盛土面を1.5mほど切った道路脇の露頭です。

露頭4
砂の中にローム塊が混じっています。標高26mほどの盛土面を1.5mほど切った道路脇の露頭です。

この付近では川表の崖斜面の露頭を観察することはできません。 幸いoryzasan氏に教えていただいたボーリング柱状図があります。
ボーリング柱状図
12175地点と12176地点では概略標高22mから上4mほどが普請盛土になっていて、本来の地層はそれより下に位置しています。
このボーリング柱状図について、oryzasan氏から概略標高22mから18mがローム層、それより下が常総粘土層、木下層などの洪積層であることを教えていただきました。

この付近の花見川西岸は古柏井川の河岸段丘はなく、台地面の上に直接普請盛土を乗せたことが確認できます。

5 ゴルフ場の凹地地形
ゴルフ場の凹地地形の現在の姿を写真で示します。
写真3
この凹地は迅速図、大正6年測量旧版1万分の1地形図にも表現されています。
地形がゴルフ場の恰好のアンジュレーションとして利用されています。
この凹地の露頭は花見川西岸川表の崖で見ることが理論上はできますが、現実にはできません。

しかし幸いにもボーリング柱状図(12177)でその地層を知るとこができると考えられます。
標高16mほどのところに本来の地形面があり、薄いロームと上部が削られた洪積層があるように解釈できます。

このボーリング柱状図の情報から、ゴルフ場の凹地地形は河岸段丘面の川寄りに普請盛土が乗っているように理解することが可能です。

決めてとなる情報を今後収集することが必要です。

6 横戸付近でわかったこと
ア 横戸付近花見川東岸に古柏井川河岸段丘と考えられる地形面が存在すること。
イ その地形面の地層断面は今後の調査で明らかにできる可能性があること。
ウ 横戸付近花見川西岸には古柏井川河岸段丘は存在しないこと。
エ 軍用軌道鉄橋付近の花見川西岸ゴルフ場内の凹地に、古柏井川河岸段丘の可能性があること。
オ 一部の戦後盛土、掘削を除き、地形分類図(予察図)はほぼそのまま現場で確認できた。

(つづく)

2011年11月25日金曜日

鮮血が出た

oryzasan氏が現地調査を行い、その結果を含めて11月21日にこのブログにコメントとして投稿していただきました。
その熱情に感謝します。

そして、oryzasan氏の調査結果(古柏井川は現花見川河道内に収まる規模だった)と私の想定するそれ(古柏井川は現花見川河道の外に広がっていた)は明白に異なります。
こうした展開になった以上、結論はともあれ、oryzasan氏の熱情の答えるためにも、現場で明白な事実を見つけるように私自身の調査が要請されます。

そして、本日その調査第1日を実施しました。
その結果の地形・地質的事実把握の報告は別記事で行います。

ここでは、私の心理状況を報告します。

1 これは散歩ではない
まず、現場に足を踏み入れた私に生起した心理状況は、「これは散歩ではない」「これは調査研究である」ということです。
私は、花見川流域を散歩して、受身的観察を行い、流域の地物などに興味を持ち、それをブログで情報発信することを趣味としています。
そうしたブログ方針に照らすと、この「現地調査」は能動的で目的意識を絞った「調査研究」です。
散歩ではありません。
散歩では行儀よく行動します。自身の安全やマナーにも十分配慮します。
能動的な調査研究では、そうは言っていられません。藪漕ぎや斜面の上り下りもしますし、結果としてゴルフ場内や学校敷地にも入ってしまいました。番犬にも吠えられました。

河川争奪というテーマは散歩というより、調査研究として興味が増しています。
柏井ゴルフ場内の凹地
普請盛土の外側に古柏井川の谷壁斜面が広がり、そのアンジュレーションがゴルフコースとして利用されています

2 40年ぶりの露頭観察で思う時代の変化
40数年前から40年ほど前までの数年間露頭観察に精を出したことがあります。
東名高速道路建設現場の大露頭などの観察を思い出します。
その当時は経済の高度成長期で、いたるところでブルドーザーがうなりをあげ、大小の露頭が無数にありました。
無数の露頭観察で地層を調べることになんら不思議を感じませんでした。

今朝、「露頭観察するぞ!」と意気込んで現場に出たのはいいのですが、結局私のイメージするような露頭らしい露頭にはほとんど出会えませんでした。
そして、経済の低成長時代の現代、そこかしこに露頭があるはずがないと、現実を思い知らされました。
露頭の多出という時代の用意した条件を活用して、火山灰を同定キーとして地形面対比するという時代は過ぎ去ってしまったに違いないと感じました。
露頭が少なければ、ボーリングやハンドオーガーにより調査することの重要性が高まると思いました。
地形の詳細な検討の意義も増します。

3 鮮血が出た
「鮮血が出た」と言っても、本当に血が出たわけではありません。比喩です。
露頭(現場)の前に出て、40年前の調査感覚(不明を解き明かす現場感覚)を感じることができれば、皮膚をナイフで切った時「鮮血が出る」と喩えていました。
調査感覚も戻らず、気持ちが萎えてしまえば、皮膚の切り口から「膿が出る」と喩えていました。
今日の現場で「鮮血が出た」のです。「現場感覚」は生きていました。まだ血液の循環が続いていたのです。
露頭は無かったり、小さかったけれど、その意味するところは理解できたし、空中写真実体視では分からない地形の対比や意味解釈ができました。
散歩ではあまりしない出会った人からのヒアリングも、今日は多くの人にしました。そこから貴重なヒントも得られました。
自分なりに先々の展望を感じることのできる現地調査でした。
砂の中にローム塊が混ざる盛土の露頭

2011年11月24日木曜日

花見川河川争奪仮説の要点

花見川河川争奪を知る48 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説23
成因仮説6

花見川河川争奪の地理的位置仮説は2011年11月16日にひらめき、まだ誕生8日目です。
自分レベルではこれまでの各種疑問を体系的に解消できる可能性を感じています。
しかし、単なる「思いつき」から本当の仮説にするには、これからいろいろな専門分野の学習や証拠収集が不可欠であるように感じています。
そこで、この記事ではこの仮説の要点を整理してみました。そして、この要点をベースにして、人に納得していただくための真の仮説(モデル)にしていく上で、私が学習・認識あるいは調査すべき事項をピックアップしてみました。

花見川河川争奪仮説(地理的位置仮説)(2011.11.23)


1 仮説の要点
①必従河川水系網の成立
下総台地が陸化を始めたころ印旛沼水系は台地面の最大傾斜に従って流れる必従河川として形成された。その頃の谷は現在「浅い谷」として残っている。

②V字谷の形成
その後印旛沼水系にV字谷形成の時代があり、古柏井川は花島付近までは少なくともV字谷が形成された。

③水系帰属変更地帯の発生
下総下位面の北側に隣接する幅2キロほどのゾーンは地殻変動で沈下し、印旛沼水系の谷中に分水界が生じ、それまで印旛沼水系の上流部であった谷の流域帰属が東京湾側水系に変更(移行)した。

④東京湾側水系の谷頭侵食前線の北上
最終氷期の侵食基準面低下期には東京湾側水系の谷頭侵食前線が北上し、その前線は水系帰属変更地帯に至った。

⑤谷頭侵食前線のV字谷区間到達による河川争奪発生
東京湾側水系の谷頭侵食前線が古柏井川のV字谷部分に達し、V字谷の谷底を掘り下げる形での谷頭侵食が河道下流に向かって一気に加速し、柏井付近の前谷津、後谷津を取り込み、さらに「高台」付近(柏井高校付近)までの古柏井川の河道を東京湾側水系が争奪した。

⑥古柏井川下流区間の無能谷化
流域の大半を争奪されたため、古柏井川の「高台」付近から下流(北側)が無能谷(截頭川)となった。

参考
⑦無能谷の隠蔽
台地における古柏井川の無能谷(截頭川)存在を利用して、印旛沼と東京湾を結ぶ構想が江戸時代に持ち上がり、3回の普請が行われた。
さらに戦後印旛沼開発工事が行われ、印旛沼と東京湾が結ばれた。
普請と戦後工事の結果、古柏井川の無能谷(截頭川)区間の谷壁斜面等の掘削・盛土が大規模に行われ、無能谷(截頭川)の姿を現場でイメージすることは不可能となった。
普請のきっかけが台地に無能谷があったことによるにも関わらず、普請が3回にわたって繰り返される中で前の普請の結果(古堀)のみを見つめることになったため、当初の無能谷存在という事実は忘れ去られた。
結果、無能谷は社会から隠蔽された。

2 私が学習・認識あるいは調査すべき事項
①必従河川水系網の成立について
ア 東京湾側の下総下位面(海岸段丘)という地形区分の考え(杉原1970をベースに「千葉県の自然誌」など)がオーソライズされているのか?下総台地研究グループの論文では認めていないようであるが? 下総下位面(海岸段丘)を前提とするのかどうかで、必従河川水系網の生い立ち部分の想定が異なってくる。

イ 必従河川水系網の上流部の谷は「浅い谷」となっている。なぜ「浅い谷」なのか?緩斜面における谷発達は一般的に「浅い谷」になるのか?それとも、一旦できたV字谷がその後の火山灰降灰や他の要因による二次的作用で「浅い谷」に変化したのか?

ウ 古柏井川の前谷津、後谷津やその延長方向の芦太川流入支川は、東西方向に直線的に連続することから、構造的な弱線に沿って生まれた適従河川のように感じることができる。それを証明する方法があるか?

②V字谷の形成について
ア 勝田川や高津川を対象とした河岸段丘調査研究成果を学習する。(千葉第Ⅰ段丘、千葉第Ⅱ段丘に対比される河岸段丘がどの程度調査研究されているのか?)この地域における河川地形発達について論じた調査研究成果を学習する。

イ 「浅い谷」とV字谷の変換点が存在する理由を知る。「浅い谷」、V字谷の形状(埋没部分を含む)を定量的に調べ、その縦断方向の変化を知る。V字谷の堆積物を知る。「侵食基準面低下による下刻作用の上流方向への波及」理論を理解する。

ウ 古柏井川において、少なくとも花島付近まではV字谷が発達したことを証明する。(古柏井川由来地形[古柏井川形成の谷底・段丘・斜面等]の把握を地質学的事実を添えて行い、それを証拠にしてV字谷形成を証明する。)

③水系帰属変更地帯の発生について
ア 横戸川、宇那谷川が東京湾側水系(犢橋川)と関わる地域の旧版地形図等を証拠に、水系帰属変更地帯発生を説明する。

④東京湾側水系の谷頭侵食前線の北上について
ア 東京湾側水系の谷頭侵食の地形的特徴を旧版地形図から把握し、印旛沼水系由来のV字谷と形態的に差別化できるか検討する。

⑤谷頭侵食前線のV字谷区間到達による河川争奪発生について
ア 古柏井川のV字谷が河川争奪によって河道下刻された部分区間について、河川争奪によっても改変されないで残った地形・地質要素を知る。

⑥古柏井川下流区間の無能谷化について
ア 古柏井川の無能谷区間の存在を伝える古文書がないか、調べる。

イ 古柏井川の無能谷区間の古地理復元(地形復元)を行う。地形復元を行うための地形的・地質的証拠を集める。


以上の学習・認識・調査を、一定の期間限定のもとに、自分なりに最大限愉しみたいと思います。

oryzasan氏から厳しく指摘されているように、現場調査を大切にして、全体の取組を組み立てたいと思っています。

露頭観察は40年ぶりになります。昔の感覚が戻る可能性を感じることができるのか、もう感覚がなまっていて使い物にならないとあきらめの気持ちが生まれるのか、露頭の前で生じるその時の自分自身の感情をはやく知りたくてうずうずしています。

この際、露頭観察スキルを再獲得して、私の散歩技術の一つとして組み込みたいと希望しています。

2011年11月23日水曜日

昭和15年発行国立公園切手

昭和7年発行の上下2冊になる立派な専門書を、WEBで購入しました。

いつもの通り最安値品ですが書き込みや使用感はなく、本当に良かったと思いました。
購入目的は魅力的な挿絵が沢山掲載されている本であり、それを楽しみたかったからです。

ふと気がつくと表紙裏に次の未使用切手が貼ってありました。

昭和15年4月発行 大雪山国立公園記念切手 2銭 北鎮岳
昭和15年8月発行 霧島国立公園記念切手 2銭 新燃岳火口と韓国岳
の2枚です。

この古書がどのような経緯を辿って私のところに届いたのかうかがいしれませんが、70年前の出来事(専門書に記念切手を貼ることによって、知的好奇心を自ら鼓舞し定着させようとする個人的行為)がとても身近に感じられました。

2011年11月22日火曜日

流域の谷形状を俯瞰してみる-地理的位置仮説の検討

花見川河川争奪を知る47 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説22
成因仮説5

2011.11.20記事で説明した花見川河川争奪の成因仮説である地理的位置仮説の確からしさを検討するために、印旛沼水系(勝田川、古柏井川、高津川)の谷地形を俯瞰してみました。

下の図にあるように、古柏井川の上流付近にE地点を設定し、(任意に設定した)A地点からの河川距離を求めると、5.4㎞でした。
そこで、A地点から5.4㎞の距離にある、B、C、D(*)、F、G、Hの各地点を設定し、その地点における谷形状の概略を把握しました。
*D地点のみ5.0㎞地点(芦太川の延長がA地点から5.2㎞しかないため)
検討ポイントの設定


この結果を見ると、北高津川、芦太川、横戸川は河川の規模が貧弱で、A地点から5.4㎞の地点で浅い谷になっています。
最終氷期の海面低下(侵食基準面の低下)に起因する下刻作用(V字谷形成)の下流からの波及は及んでいません。
高津川、古柏井川、宇那谷川、小深川の4河川がV字谷になっており、谷幅(谷壁上端線間の幅)は宇那谷川>古柏井川>小深川>高津川の順になっています。
この順に河川の侵食力の強さを表しているものと考えられます。
宇那谷川がこの流域では本流筋で、ナンバー2が古柏井川であることが確認できます。
そして、V字谷の部分が東京湾側水系に一番近いのが古柏井川です。

このような情報から河川争奪成因仮説としての地理的位置仮説の確からしさを感じました。

なお、古柏井川の谷幅(谷壁上端線間の幅)として計測した値は、実際は大正6年測量地図から現在の花見川の谷幅を計測しています。
現在の花見川の谷幅が、争奪される前の古柏井川と異なるならば、この計測は意味がありません。
しかし、現在の花見川の谷幅は、古柏井川の谷幅を基本的に踏襲していると考えるので、このような計測をしました。
現在の花見川の谷幅の値は犢橋川合流付近で210m、花島付近で250m、柏井付近で270mであり、北に向かって広がることから、争奪される前の谷幅が争奪後も基本的には維持されているという仮説を支持しています。

柏井から犢橋川合流部までの花見川河道の基本形(特に谷幅)が古柏井川によってつくられたという考えについては改めて検討します。

また、古柏井川が河川争奪されたとき、そこがV字谷だったからというのが地理的位置仮説ですが、そうならば、河川争奪ポイントのさらに上流にあったはずの浅い谷である古柏井川の本当の源流はどこにあったのか、どうなったのか、という問題も当然生じます。
この問題も改めて検討します。


河川争奪を考える上で、この地域が陸化した後の谷の発達を、第1に、何度か繰り返された侵食基準面の低下による下刻作用の上流方向への波及と関連付け、第2に、印旛沼側と東京湾側の波及のタイムラグについて考えることが求められているようです。

2011年11月21日月曜日

oryzasan氏に返答します

oryzasan氏から2011.11.19にいただいたコメントに返答します。

Oryzasanです。議論の進み方が早く、なかなかついて行けず、申し訳ありません。「3期(河川争奪後~普請前)の地形」の図、「印旛沼開発工事前の地形横断」についていくつか思うことがあるのですが、とりあえず質問させてください。

①この図は右が西、左が東でいいのですね。

図に東西を入れ忘れて、申し訳ございません。
右が西、左が東です。
混乱を避けるためこのブログでは、現在の花見川の流向(北→南)を基準にして、下流方向を向いて断面図を作成します。

②右側の。印旛沼開発工事前の地形横断現在の地形横断よりも上に出ている部分は現在は無いということですか。
その根拠(どこかで述べられているのかもしれませんが探せませんでした)を示して下さい。

断面線右端の高度差は図に書き込んだ高度から0.88mになります。
この差分の意味は不明です。

解釈例として
1 掘削等土地改変の結果による
2 測量精度誤差
例 大正時代測量の精度誤差による影響
3 断面図作成方法上の精度誤差
例 等高線高度を比較するという方法が内包する精度誤差による影響


③印旛沼開発工事前の地形横断の断面の下の地層、武蔵野ローム層と立川ローム層は段丘面まで、立川ローム層は古柏井川の川底まで地表面と平行に続いているのでしょうか。
④常総粘土層はどうなっていると考えられますか。

3期(河川争奪後~普請前)の地形横断の地層について、無理矢理につじつま合わせ的に空想すれば、私は次の絵のように考えていることになるかと、結果的に思います。


⑤武蔵野ローム層降灰以前の地表面の地形断面はどうなっていたのですか。

次の図のように空想します。


⑥⑤のような谷状の凹地は、古柏井川の浸食によって生じたのでしょうか。

そう考えます。

以上よろしくお願いします。

oryzasan氏の論文でいろいろ勉強させていただき、その結果を勝手に当てはめているだけです。
希望的空想にすぎないのですが、何も考えないよりはましだと思い、強引に絵をかきました。

現場での地質学的証拠集めの必要性を痛感します。
特に、段丘面の対比が正確になされなければ何も始まらないと思っています。

2011年11月20日日曜日

地理的位置仮説

花見川河川争奪を知る46 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説21
成因仮説4

いよいよ真打登場です。 11月16日に思い浮かんだ、まだ孵化直後のアイディアですが、自分としてはクリーンヒットになりそうだと予感しています。(単なる外野フライに終わったらごめんなさいです。)
最初に原理的説明をします。次いで、室内の手作業を順次しながら思考を重ね、説明的記事を書き、その後野外調査をどうするか考えるつもりです。

*     *     *

花見川河川争奪成因
地理的位置仮説の原理的説明

前提
千葉第Ⅱ段丘(立川面)が谷底であった、V字谷が形成されていた時代、そのV字谷の河川縦断における発達は、下流から上流に向かって下方侵食(下刻)が波及していたと考えます。
その時代(立川面が形成された最終氷期)に、二つの河川があり、その流量(流域面積)や縦断勾配等が同じで下流で合流している場合、谷形状は次のようにモデル的にとらえることができると考えます。
谷形状分布モデル

印旛沼水系の谷形状分布モデル
このような考えを印旛沼水系に単純に適用して谷の形状が次のように分布する思考のためのモデルを作りました。
印旛沼水系の谷形状分布モデル

古柏井川ア地点と高津川イ地点、勝田川ウ地点の谷形状が下流のある地点(例高津川と勝田川合流点)から同じ距離aにあり、そのため最終氷期の侵食基準面低下の影響を同等に受け、谷形状が同じであると考えるモデルです。
また、ア、イ、ウ地点よりエ、オ地点の方が上流域に位置しますから、エ、オ地点はそれだけ谷形状が未発達になります。

このモデルはあまりにも現実の諸条件を抽象しすぎていますから、できるだけ現実の状況を説明できるように精緻化する必要があることは言うまでもありません。
しかし、原理を説明するためのモデルとして、地形分布を最単純化しました。

河川争奪の原理
この時代には東京湾側水系の方が印旛沼水系より侵食基準面に近いため、東京湾側水系の方がより下刻作用が盛んだった思います。
その下刻作用の前線が北上する様子をモデル図に書き込みました。
谷形状分布モデルと東京湾側水系下刻作用前線

この時、古柏井川のア地点と高津川エ地点、勝田川オ地点は東京湾側水系下刻作用前線の影響をある時点で一斉に受けます。
その時の南北方向の縦断面図を描くと次のようになります。
ア地点付近縦断面図
エ、オ地点付近縦断面図

東京湾側水系の盛んな下刻作用に対して、ア地点とエ、オ地点で生起する事象は次のように分かれます。
東京湾側水系の下刻作用で生起するア地点付近の事象
河川争奪発生

東京湾側水系の下刻作用で生起するにエ、オ地点付近の事象
河川争奪未発生

古柏井川ア地点では河川争奪が生じますが、高津川エ地点、勝田川オ地点では河川争奪は生じません。

以上の説明が、古柏井川が花見川によって河川争奪された原理です。
同時に古柏井川以外で規模の大きな河川争奪が発生しない原理でもあります。

なお、小さな河川争奪及び予兆現象は東隣地域(勝田川流域)に数か所以上あります。

2011年11月19日土曜日

埋没谷洗い出し仮説

花見川河川争奪を知る45 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説20
成因仮説3

以前の記事(「花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想4」)で次の感想を書きました。

「三谷豊・下総台地研究グループ(1996):下総台地北西部における後期更新世の地殻変動、地団研専報45」で次のような記述があることを思い出しました。
「木下層は、下末吉海進期の堆積物(菊池、1974)であり、上岩橋層を不整合におおって本地域のほぼ全域に分布する。基底面は一般に平坦であるが、しばしば深さ10mを越す埋積谷を基底に伴う」
もし、上岩橋層を削る深さ10m以上の埋没谷があり、その谷を埋める木下層の層相が泥層であれば、そのような場所が水蝕にさらされたとき、埋没谷が無い場所と比べて浸食が激しいという現象がおこるのではないかと想像しました。
自分としては花見川河川争奪の成因検討対象の一つになるのではないかと思いました。

これが私の埋没谷洗い出し仮説です。現場での裏付けはありません。一方的な希望的空想です。

このような考えを断層仮説に次いで考えた理由は、記事「花見川河川争奪 成因検討前の予感」で書いたように、「極端な浸食力増大をもたらした要因」=「花見川河川争奪の成因」という直感に基づくからです。
この記事では次のように書きました。

花見川近隣の河川も強い浸食力を示す谷地形を示しています。しかし河川争奪に至っていません。
花見川は近隣河川の強い浸食力とは比べものにならない極端に強い浸食力をもって争奪対象河川を一気に浸食しているように、私の感情レベルでは感じます。
したがって、近隣河川が持つことができない、特殊的に極端な浸食力増大が花見川にもたらされたと考えます。
その特殊的に極端な浸食力増大をもたらした要因を見つけることができれば、それが即ち、花見川河川争奪の成因であると考えます。

断層仮説も、埋没谷洗い出し仮説も「極端な浸食力増大をもたらした要因」を地質(の水蝕に対する脆弱性)に求めました。

断層仮説と埋没谷洗い出し仮説のイメージを図解すると次のようになります。


さて、現在の私の本命第3仮説である地理的位置仮説を同じ図解で示すと次のようになります。


「極端な浸食力増大」は特段必要がなく、すでに出来上がったV字谷をいわばそのまま頂戴してしまい、「なんなく」争奪できてしまったという発想の仮説です。

地質ではなく地形の地理的位置(関係)に河川争奪の主因を求めました。

詳しい説明を次の記事からはじめます。

2011年11月18日金曜日

断層仮説

花見川河川争奪を知る44 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説19
成因仮説2

巨智部忠承の断層論文や千葉図幅地質説明書(ともにこのブログのページ「断層論文」に掲載)で述べられている「印旛沼堀割線路中の活断層」が事実ならば、それに起因して河川争奪が発生したのではないかと考えました。

つまり、断層に起因する陥没や軟弱な破砕帯の発生により、近隣河川と比べて、古柏井川が東京湾側水系の浸食を受けやすい状況が発生したという考えです。

そこで、明治時代の、活断層かもしれないというこの情報について、専門家に評価していただき、それに基づいて断層仮説を構築しようと考えていました。

幾つかの経緯を経て、WEBで産業技術総合研究所に地質標本館地質相談所があり、地域の地質に関する質問ができることを知りました。
早速、巨智部忠承の「印旛沼堀割線路中の活断層」説についてその真偽を問い合わせてみました。

その問い合わせに対して、産業技術総合研究所活断層・地震研究センターの担当官より次の回答をいただきましたので紹介します。

お問い合わせの件ですが,ご指摘の千葉市花見川沿いの断層につきましては,おそらくそれ以降に本格的な調査はなされていないと思われます.
また,この報告を引用あるいは検討した論文も確認しておりません.
そもそも,巨智部忠承の報告を見ましても,安政地震時における亀裂や地層の傾斜などから断層の存在を推定したもので,現在の学術レベルでは必ずしも断層を推定するに足る十分な根拠ではありません.
また,この地域に広く分布する段丘面には,花見川を挟んで高さの違いは認められませんので,少なくとも活断層であるとは考えにくいと思われます.
巨智部氏の論文にもありますように,花見川の谷に沿っては非常に軟弱な地層が堆積しており,そのために3月の地震の際にも地表に亀裂等が現れたということは十分に考えられます.

産業技術総合研究所には丁寧な回答をしていただきお礼申し上げます。

活断層の存在そのものは、この論文をもって推定できないという専門家の評価を受け止めたいと思います。

忘れ去られていた明治時代の地質論文をきっかけにして、河川争奪成因の断層仮説を構築できないだろうかというロマンは、とりあえず矛を収めざるを得ないようです。

*    *    *

河川争奪成因としての巨智部忠承活断層説は一旦捨てたいと思います。
吉田東伍著「大日本地名辞書 坂東」を通して初めて巨智部忠承の断層説を知ったことや、「全部日本人の手になる」と強調される明治時代中期の地質調査成果を現物で検討したことは、私の知的体験としてとても有意義であったと感じています。
吉田東伍著「大日本地名辞書 坂東」(明治40年、冨山房)(影印復刻版)の「柏井」の項

2011年11月17日木曜日

花見川河川争奪の3つの成因仮説

花見川河川争奪を知る43 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説18
成因仮説1

これまで花見川河川争奪の成因について白鳥氏の説について検討させていただき、ついでoryzasan氏の考えについて検討させていただきました。
oryzasan氏からは3回にわたってコメントをいただき、成因検討以前の問題として河川争奪の事実そのものについての議論を行いました。
その中で私は多くの仮定を前提とはしていますが、堀割普請前の地形復元を試み、古柏井川(河川争奪によって生じた空川)の存在を浮き彫りにしました。
地質学的証拠の裏打ちはまだありませんが、地形等の情報により、概念的・原理的には古柏井川の存在(つまり河川争奪現象生起という事実)は間違いないところまできたと思います。

古柏井川の実態をさらに詳しく調査し、地質学的証拠を集めることは今後引き続き追究することとします。

さて、当初のテーマである河川争奪現象の成因に戻り、私の考えを述べます。
私の思考の実況中継みたいになりますが、お許しください。

これまで、河川争奪の成因として断層仮説と埋没谷洗い出し仮説の2つを考えてきています。
2つの仮説とも私にとっては魅力的であり、断層仮説については巨智部忠承の論文を見つけ、「たとえ断層が実証的に把握できなくても、この論文を契機に地殻変動について学習を深めたい」というような感情が強くあります。

2つの仮説は、それで説明できる真の証拠は特段ありませんので、このブログでは、結局「成因検討は今後の課題です。」と締めくくるしかないのかと、密かに考えていました。

ところが、昨日(2011.11.16)になって、花島付近の河岸段丘について考えているときに、突然ひらめきがあり、自分レベルでは河川争奪の成因を論理的に説明できる仮説を得ました。

花見川にだけ規模の大きな河川争奪が発生した理由を説明することができそうです。

この3番目の仮説を地理的位置仮説と名付けます。


以下3つの仮説について検討します。
(つづく)

2011年11月16日水曜日

成田山参詣記

成田山参詣記に収録されている絵図「印旛沼鑿開趾(いんばぬまほりわりあと)」を紹介します。

河川争奪に直接関係するものではありませんが、地形がある程度写実的に表現されているので取り上げました。
成田山参詣記は成田山名所図会ともいわれ、江戸時代末期に成田山の寺侍の中路定俊、定得父子によってまとめられたものとされています。このなかに「印旛沼鑿開趾(いんばぬまほりわりあと)」の絵図2葉が収録されていて、つなげるとパノラマ絵図になります。
パノラマ絵図「印旛沼鑿開趾(いんばぬまほりわりあと)」
現代語訳成田山参詣記(大本山成田山新勝寺成田山仏教研究所発行、平成10年)より引用

このパノラマ絵図で眺望している概略範囲を地形分類図に示してみました。
パノラマ絵図「印旛沼鑿開趾」の視点場と眺望範囲

この眺望範囲の地形分類と絵図を比べると、絵図には西岸台地とその上の盛土地形が、描かれています。また、勝田川の河岸段丘と考えられる平坦面のスカイラインが意識されて(他の地形線と区分されて)描かれているように推察できます。
次にその推察を絵図に書き込んでみました。

パノラマ絵図「印旛沼鑿開趾」における地形表現

この絵図から、地形以外に次のような興味深い情報を得ることができます。
ア 弁天社の様子
イ 弁天池を渡る土橋の様子
ウ 解説文にある埋木の件
解説文には、天明普請の際に高台では巨木が出土することも多く、そのうちよさそうなものは碁盤にして、惣深新田(現印西市草深)の某家にあり、材質は欅のようであるという趣旨のことが書いてあります。

追記 2011.12.10 記事の一部を訂正しました。