2012年3月31日土曜日

小崖から花見川流域地形を見る

花見川流域を歩いて小崖地形を3つ見つけ、見つけた順番に小崖1、小崖2、小崖3と仮称をつけました。
その分布は次の通りです。

小崖の分布
平面図

この分布図をカシミール3Dを使って、3D表示しました。

小崖分布の3D表示 その1
カシミール3Dにより「高度110mより撮影」
高さ強調20倍

小崖分布の3D表示 その2
カシミール3Dにより「高度178mより撮影」
高さ強調20倍

高さ強調を20倍にすると、小崖により花見川流域の地形の概形が作られたことがよくわかります。まるでケスタ地形の絵のようです。(ケスタ地形ではありません。)

この花見川流域の成り立ちを小崖との関連で見て、次の模式図で示しました。

花見川流域の地形模式図

東京湾央が沈降し周辺の台地が隆起する地殻変動の姿を地形において視覚的に捉えることができました。

2012年3月30日金曜日

古長沼の成因

古長沼の成因について、これまで考えてきたことをまとめてみました。

1 古長沼、長沼池の定義
このブログでは長沼池と古長沼を次のように定義して使います。

長沼池…人は、存在していた湖沼を長沼と呼んだのですが、それがこの地域の地名になり、地名の長沼と湖沼の長沼の区別をつけるために長沼池という言葉が生まれたものと考えます。 このブログでは新田開発で人が関わった以降の湖沼を長沼池と呼びます。

古長沼…下総上位面形成後、地殻変動によってこの地域に湖沼が生まれました。その湖沼を古長沼とよぶことにします。古長沼の最後の姿が長沼池です。

参考記事
2012.3.2記事「水田開発前の長沼池復元
2012.3.3記事「古長沼の復元 その1

2 古長沼周辺の谷津分布
現在の地形から読み取れる谷津(一部想定を含む)の分布図を次に示しました。

古長沼付近の谷津分布

古長沼跡で谷津筋線がクロスしてしまい不思議です。この解釈をしたいという問題意識から出発して古長沼の成因について考えてみました。

3 古長沼の成因
STEP 1 必従谷津の形成
下総上位面形成後必従谷津が形成されたと考えます。

*必従谷津(地表の一般傾斜の方向に流下する河川が作った谷津。隆起海岸平野などに最初に形成される。)

STEP 1 模式図

STEP 2 小崖3発生による谷津分断と河川争奪発生
小崖3を伴う地殻変動が発生し、小崖の南側が沈下します。この地殻変動のために谷津は宇那谷川以外は分断され、宇那谷川に吸収されます。宇那谷川は地殻変動に抗した浸食力を持っていたため、先行谷津として残ったと考えます。

STEP 2 模式図

類似の現象が小崖2で沢山みられます。

参考記事
2012.2.29記事「小崖2に起因する谷津パターン

STEP 3 小崖1発生による谷津分断
小崖1を伴う地殻変動が発生し、小崖の南側の高度が沈下しかつ南側の土地の勾配が減じ、さらには逆勾配になるように傾動します。このため谷津は分断されるだけでなく、小崖の南側では谷津における水の流れは逆流するようになります。宇那谷川も小崖1を貫通できません。

STEP 3 模式図

STEP 4 小崖1発生による古長沼形成
小崖1より上流では、宇那谷川では谷津の流れ込む水が吐けないため溜まり、湖沼が生じます。一旦生じた湖沼は湖岸を浸食して大きくなります。湖沼の排水は宇那谷川に流れていたと考えます。
なお、現在は東京湾側水系の浸食により失われているので確認できませんが、古長沼は現在の犢橋川に沿って花見川合流点を越え西に広がっていた大きな湖沼であったと想像します。

STEP 4 模式図

古長沼の拡大プロセスは次の記事で検討しました。
2012.2.26記事「宇那谷川谷津の拡大プロセス仮説
関連
2012.2.25「宇那谷川谷津が特段に幅広い事実の確認
2012.2.24「宇那谷川谷津に関する新たな疑問

STEP 5 古長沼退縮
古長沼が東京湾側に大決壊してその範囲を縮小したかもれないと、ボーリングデータから想像しています。(2012.3.5記事「湖沼堆積物データの発見」)
古長沼は退縮して歴史時代に長沼(=長い沼)と呼ばれる姿になったと考えます。

STEP 5 模式図

以上のようなステップで地形の変化を考えると、最初疑問であった谷津筋線がクロスする不思議も、解明されたと考えることができました。

2012年3月28日水曜日

花見川の川霧

この1週間くらい花見川の堀割のところで毎日川霧が出ています。

横戸緑地から見ると堀割が川霧で埋め尽くされ、そのうち土手をこえて団地の方に霧が流れ出すのがよくわかります。

川霧が充満した花見川堀割
2012.3.28

2012年3月27日火曜日

古長沼跡の現況

米軍撮影空中写真で黒い影として写った水分を多く含む土質地区の現況を見てみました。

写真1

写真2

写真位置図
米軍撮影空中写真に現在のDM図(千葉市提供)をオーバーレイ

いたるところで小さな宅地開発が進んでいますが、この地域全体としてみると、黒い影に相当する低湿地が空中写真の通りに分布していたことを確認できました。
写真2に見るとおり、住宅等の建物に視界を阻まれて、尾根筋、谷津筋という地形分布を風景視覚的に捉えることはなかなか困難です。
しかし、付近を歩き回ると、黒い影の蛇行が尾根筋、谷津筋の平面形状に対応していることが判ります。
なお、尾根、谷津といっても、その最大比高はこの付近で2m程度です。

メモ 竹林分布の理由

前後の記事と関係ありませんが、散歩中気がついたことがありますので、メモとして記録しておきます。

2012.3.27早朝の花見川堀割

写真にあるように花見川堀割にはマダケを主とした竹林が集中的に分布しています。
地図で確認すると柏井付近に偏在していて、堀割普請との関係が暗示され、幾つかの記事にしました。
しかし、竹林偏在分布の真の理由として自分自身が納得できるものは見つかりませんでした。

今朝の散歩中、突然、自分自身が納得できる竹林分布の理由が思い浮かびました。

堀割普請は3回行われましたので、付近の住民は「堀割普請が近々始まり、竹木等の資材の調達があるから、斜面など利用されていない土地に竹林を造成しておき、現金収入の途を作っておこう。普請が終わってもその維持管理で竹が必要なので、コンスタントに売れる。」と思案した時期が3回あったことになります。
3回のうち後2回は普請で竹が大量に使われたという体験をした後のことです。

柏井の人々が土木用材料として、あるいは土木用器具(ざる、かご、鋤簾等)の材料として、竹を売るために竹林を造成したと考えると、私は、竹林偏在分布の第1番の理由がそこにあると、深く納得しました。

なぜ、これまで、このような基本的なことに着眼できなかったのか、自分でも不思議です。

「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)をめくると、竹が工事で多量に使われていたことがしのばれる現場や道具・仕掛けの絵図が沢山あります。それらの絵図の竹は細いマダケとみられるものばかりです。
また、幕府側の竹購入や工事終了後の払い下げ記録もあります。

*  *  *

資材の納入や払い下げの、近隣地域における窓口は柏井村名主川口真右衛門が担っていたようです。柏井村名主に経済的才覚があったので竹林が出来たと考えます。


過去の関連記事
2011.2.4記事「花見川上流紀行17竹林その1
2011.2.5記事「花見川上流紀行19竹林その2
2011.2.6記事「花見川上流紀行20竹林その3
2011.6.12記事「タケノコ採り
2012.1.19記事「高津新田の竹林

2012年3月26日月曜日

古長沼跡と地形との関係

米軍空中写真(昭和21年撮影)で見つかった蛇行する黒い影(水分を多く含む土質)と地形との関係を見てみました。
モノクロ空中写真を半透明にして地形段彩図のカラーが少し浮かび上がるようにし、高さの強調を20倍にして3D図を作成すると否が応でも直感的に理解できる資料になります。

次の3D図は北から南方向を見たものです。右が西になります。

米軍空中写真の3D表現 1
米軍空中写真は半透明
高さ強調倍率20倍

東西に延びる古長沼の浅い谷の南岸に、それと直交する尾根と谷の地形がありその地形に沿って黒い影が分布していることが判ります。
蛇行と表現した形状は、流れによる蛇行ではなく、尾根と谷の地形による平面的凹凸を表現していることであると判明しました。

次の3D図は南から北方向を見たものです。右が東になります。

米軍空中写真の3D表現 2
米軍空中写真は半透明
高さ強調倍率20倍

東西に延びる古長沼の浅い谷の南岸よりに黒い影が分布していることは、北岸側より南岸側の方が低いことを示していると考えます。
なお、黒い影のうち、長沼交差点近くの場所は地形的に一段高くなっていますが、これは最近の盛土(旧イトーヨーカ堂長沼店の開発)によるものです。

3D図と元の空中写真との関係を示すと次のようになります。

3D図と空中写真との関係

次の記事で古長沼の浅い谷と、それに直交する尾根、谷津の現在の姿を現場写真で示します。
また、なぜ古長沼の浅い谷とそれに直交する谷津があるのか、その理由も記事にします。

朝霧

3月25日の朝は花見川に川霧が立ち込め、堀割からあふれ出し、斜面上部の堀割普請捨土の土手を乗り越えていました。

横戸緑地南の最近開発工事が始まった場所でも土手に川霧が立ち込めていました。

樹木が伐採された工事場所の川霧

この開発工事は、土工事をして土地を造成し、資材置き場等として販売するものです。建物を建てる計画はないため、市の開発許可は不要とのことです。

横戸緑地は土手をメインとした施設ですが、土手下の園地は川霧が充満していました。

横戸緑地の川霧

2012年3月25日日曜日

古長沼跡の3D表示

古長沼の名残と考えられる蛇行する黒い影(水分を多く含む土質)が米軍空中写真(昭和21年撮影)に見つかりました。
この写真の簡易幾何補正をしてGISに組み込み、0.5m間隔の地形段彩図にオーバーレイしました。

地形段彩図にオーバーレイした米軍空中写真

この図をカシミール3Dを使って3D表現してみました。

米軍空中写真の3D表現

蛇行する黒い影と地形(昭和21年の地形ではなく、現代の地形)との関係はあまり明瞭ではないので、米軍空中写真を半透明にして地形段彩図の色がある程度わかるようにしてみました。

地形段彩図にオーバーレイした米軍空中写真(半透明)

この図をカシミール3Dを使って3D表現してみました。

米軍空中写真の3D表現
米軍空中写真は半透明
高さ強調倍率10倍

地形との関係が判ってきました。
さらに理解を深めるために、3D表現の高さ強調倍率を10倍から20倍に変更してみました。

米軍空中写真の3D表現
米軍空中写真は半透明
高さ強調倍率20倍

古長沼の名残と考える多湿土質の分布と地形(ただし現代の地形)との関係が直感的にわかるようになりました。

作図上の工夫はさらに出来ると思いますが、ここまでくれば、いろいろな発想を刺激する資料になりましたので、ひとまず立ち止まって考察します。

考察は次の記事で述べます。

2012年3月24日土曜日

米軍空中写真の簡易幾何補正

米軍空中写真に古長沼の名残と考えられる湿地の情報を発見しましたので、この写真をGIS(地図太郎PLUS)で簡易幾何補正して、別のソフトで3D表現して分析することにしました。
空中写真の簡易幾何補正は初めてですが、GISソフトの機能を利用して、見よう見まねで、「だいたい地図と合っていればよい」ところまで持って行きました。
終戦直後の昭和21年の長沼付近は下志津演習場が開拓地に変わったばかりで、現在の地図と直接対比できる地物が少ないので、現在のオルソ化された空中写真を補助線のように使って、次のようなステップで簡易幾何補正しました。

1 最近のオルソ補正された空中写真を国土地理院ホームページからダウンロードして、GIS上に配置する。
・オルソ化されていますので、GIS上のマップに位置合わせすることは容易です。

2 GIS上で最近の空中写真に合わせて米軍空中写真を配置する。
・空中写真どうし比較することによって、地形や古い民家など対比できるものが多く、米軍空中写真がどのように歪んでいるかわかります。同時に米軍空中写真と現代地図で対比できる地物もおおよそわかってきます。

GIS上に補助線的に使う最近空中写真と米軍空中写真を並べた画面

3 GIS上で米軍空中写真の4隅をつまんで変形して現代地図と合うようにする。
・GIS上から補助線的に利用した最近空中写真は外します。米軍空中写真をゆがませることで地図に合わせて、補正します。

GIS上での補正作業が済んだ画面

地形の起伏が少ない土地であるためか、思っていた以上に精度の高い幾何補正ができたように思いました。

次の記事で、米軍空中写真を3D表現するところまで持って行きたいと思います。

2012年3月23日金曜日

古長沼跡にその存在証拠を発見する

古長沼の範囲は2012.3.3記事「古長沼の復元その1」で説明しました。

古長沼の範囲
旧版1万分の1地形図投影

この古長沼跡にその存在を示す証拠を発見しました。
昭和21年撮影米軍空中写真を見ると古長沼の範囲と考えた地域に低湿地を確認できます。

古長沼跡に分布する低湿地
昭和21年撮影米軍空中写真

最近までこの場所に低湿地があったということは、この場所がかつて湖沼であった動かぬ証拠であると考えます。

昭和30年撮影米軍空中写真でも、同じ蛇行するような黒い影を確認できます。

昭和24年撮影米軍空中写真(2012.3.2記事「水田開発前の長沼池復元」に掲載)では低湿地を表す黒い影が明瞭ではなかったので、これまで見過ごしてきました。

次の記事で、この低湿地情報を分析してみたいと思います。

ウグイスのさえずり

今日の早朝散歩で、沢山のウグイスのさえずり(合唱)を聞き、季節が転換したことを思い知らされました。
ずっと前から、そして昨日も、一昨日もウグイスのさえずりは聞いていますが、このような合唱みたいなさえずりとしては感じませんでした。
ウグイスのさえずりが最高潮になってからしばらくたって、今度はコジュケイのけたたましい鳴き声があちこちで始まりました。
これまで聞いたことがない小鳥のさえずりもいくつか聞きました。


早朝の花見川サイクリング道路

2012年3月22日木曜日

長沼の既往記述

長沼がどのように認識され記述されてきたか、手持ちの地名辞典・地誌等の記述を並べてみました。

長沼に関する記述

地名辞典・地誌等
長沼の記述
大日本地名辞書坂東(吉田東伍著)
記述なし
千葉県千葉郡誌(千葉県千葉郡教育会)
池沼亦大なるものなく、其の成因も人工の用水池にして、自然力によるもの少なし。左に稍大なるもの二三を記さん。
(大百池、弁天池に続いて次の記述)
永沼池 犢橋村永沼にありて、新川の水源をなす。水浅くして旱天打ち続く時は沢地の如し。
千葉県の地名(平凡社)
記述なし
千葉県地名大辞典(角川書店)
地名「長沼」の項で「地名は、江戸期に開発された長沼新田近くにあった長沼という湖沼名による」と記述
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市)
長沼町の記述の中で長沼池の新開をめぐる長沼新田と宇那谷村の争論を説明し関連絵図を掲載。
戦後開拓における長沼池の農地造成を地図で説明。等


このブログでは長沼の成因が下総上位面形成後の地殻変動に起因して発生した自然湖沼として追究しています。

ふりかえって、一般の人は長沼を自然湖沼として認識していたのか、人工の溜池として認識していたのか知りたかったので、過去の資料における記述を調べてみたのです。

大正15年発行千葉県千葉郡誌の記述内容から、私は当時の人は長沼をうすうす自然湖沼と考えていたと推察しました。
しかし、当時も今も長沼池の出自(成因)を調べた人はいなかったので、もし当時の人に「長沼池は自然湖沼ですか?」と聞けば、「自然湖沼とは思うが、溜池かもしれない」というあいまいな答えが返ってきたに違いないと思います。

平凡社と角川の2つの地名辞典に湖沼名としての「長沼」が無いことは、この湖沼が既に埋め立てられてしまったためであると思います。

「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」では長沼池をめぐる争論の内容と絵図を紹介して、長沼池の姿・歴史が詳しくわかるようになっています。しかし、自然湖沼か溜池かという出自(成因)についての記述は一切ありません。

以上の情報から、これまでの社会では長沼の出自(成因)について問題意識を持った人はいなかったと推察しました。

長沼池が地理・地形地質等の専門的視点からの検討対象となったことはないようです。

千葉県千葉郡誌の表紙

2012年3月21日水曜日

天保期印旛沼堀割普請の土木遺構

天保期印旛沼堀割普請の土木遺構である土捨て場跡の土手が目の前に現れました。
雑木林が抜開されたためです。
横戸緑地の南端に接したところです。
これから宅地造成工事が進み、資材置き場等の用途に使われるようです。
土手は残念ですが、取り払われ整地されてしまうようです。

昔の単なる「土捨て場跡」と言えばそこが宅地開発されることは問題がないようにも感じますが、そうではないと思います。
昔の単なる「ゴミ捨て場跡」でも、後世に「貝塚」と表現して貴重な文化財として保護します。
「土捨て場跡」ではありますが、天保期印旛沼堀割普請の貴重な土木遺構であり、文化的・学術的価値を有するものです。
特に普請の施工や技術の詳細が続保定記などの資料として現在まで伝わってきており、現物遺構と対比が可能であり、そうした資料とセットで現物遺構が存在しているという意味で、価値を一層高めています。

以前千葉市教育委員会に問い合わせたところ、「印旛沼堀割普請跡は文化的価値があるが、範囲をどこまで指定してよいかわからないから文化財指定はしていない」という趣旨の回答をいただきました。(2011年3月21日記事「花見川の文化的価値評価の現状」参照)

行政も市民も傍観者的になっていると、そのうちに貴重な土木遺構が無くなっていってしまいます。
文化的価値があるのに、その破壊を手をこまねいて見ているという状況をなんとかしたいものです。

*   *   *

工事現場の人に聞くと、この雑木林の下草を刈っているときに、死体が出てきて大騒ぎになったそうです。
結果としてわかったことは、近くの人が行方不明になって、この附近も捜索はしたのだけれども発見できなかった人がいて、その人がこの場所で行き倒れになって死亡していたとのことでした。

梅の見ごろ




横戸緑地の梅林の紅梅、白梅が満開になり、散歩がいつもより楽しいものになっています。


ヒヨドリが身をよじって白梅の蜜を吸っていました。


なぜか、子どもの頃「紅梅キャラメル」を食べたことを思い出しました。

2012年3月7日水曜日

湖沼堆積物地点の谷津地形3D表現

湖沼堆積物地点付近を拡大して谷津地形を3D表示してみました。

湖沼堆積物地点の谷津地形の平面拡大図

湖沼堆積物地点の谷津地形3D表現 1

湖沼堆積物地点の谷津地形3D表現 2

湖沼堆積物地点の谷津地形3D表現 3

点線で表現した谷津筋の微妙な修正は必要かもしれませんが、大局には関係ないことです。

3D表現してみると宇那谷2谷津の筋を古長沼を横断して南に連続したことの確からしさが、私は、大いに増したと感じました。

2012年3月6日火曜日

湖沼堆積物地点の谷津地形

湖沼堆積物の存在を示すボーリングデータ地点の谷津地形復元図を示します。

ボーリング地点の谷津地形 1
0.5m間隔地形段彩図プロット

ボーリング地点の谷津地形 2
旧版1万分の1地形図プロット

ボーリング地点の谷津地形 3
DMデータプロット

宇那谷2谷津の縦断形は2012.2.21記事「宇那谷2谷津の縦断形」で検討しました。
その検討時点では、上記「ボーリング地点の谷津地形2」で示すように、旧版図で25m等高線で示される尾根部を突っ切って谷津地形を連続させることに躊躇していました。
しかし、ボーリングデータで湖沼堆積物の存在を確認できて、上図のような宇那谷2谷津筋の復元を行うこととします。

宇那谷2谷津がボーリングデータ付近で尾根のようになり谷津地形が不明瞭になる理由は地殻変動によるものと考えますが、その論拠については追って説明します。

また、古長沼の中央部で宇那谷2谷津と宇那谷川の筋が交差するような関係になる理由は小崖3にかかわる地殻変動によるものと考えますが、これも詳細は追って説明します。

2012年3月5日月曜日

湖沼堆積物データの発見

古長沼の復元 その2

古長沼の湖沼堆積物の存在を示すと考えられるボーリングデータを見つけましたので報告します。
千葉県地質環境インフォメーションバンクを検索したところ、千葉県立千葉北高校敷地内に8本のボーリングデータがありました。

次にそのデータと位置を示します。

ボーリングデータ

ボーリング位置図
千葉県地質環境インフォメーションバンク検索画面

ボーリング位置図
0.5m間隔地形段彩図プロット(GIS上でジオリファレンス)

ボーリングデータのうち1~7地点は類似した層順になっています。
下から(凝灰質)細砂層、凝灰質粘土層、ローム層、表土になっていて、台地(下総上位面)の一般的な地層堆積状況を示しているものと考えられます。

ところがボーリングデータ8地点は7地点と50mしか離れていないにもかかわらず全くことなった層順になっています。
下から(凝灰質)細砂層、ローム層、粘土層、細砂層、ローム層、表土になっています。

私はボーリンデータ8地点を7地点と対比して次のように解釈しました。

ボーリングデータ8地点も、7地点と同じく(凝灰質)細砂層の上に凝灰質粘土層の堆積があったと考えます。
木下層の上に常総粘土層が堆積したものであると考えます。
凝灰質粘土層(常総粘土層)の堆積後陸化があり下総上位面の台地が形成されました。
その後、ボーリングデータ8地点では谷津形成により凝灰質粘土層が浸食され欠落したと考えます。
そして、8地点は谷津斜面近くであったため、その後降灰した火山灰が流水で流されることなくローム層として堆積したと考えます。
その後、谷津が湖沼化し止水環境下になり、8地点ではローム層の上に粘土層が堆積しました。

ある時点で8地点に流水環境が生まれ、「分級良好で浮石を縞状にはさむ」細砂層が堆積しました。
湖沼の一部が決壊し、水が抜けていく時に生まれた流水環境であると考えられます。
水が抜けて湖沼で無くなった8地点には火山灰が堆積し、ローム層30㎝、表土・ローム層20㎝が堆積しました。

湖沼堆積物を示すボーリンデータ

このボーリングデータの存在から、次のような様々な事柄を考えるきっかけを得ることができます。

1 ボーリングデータ8地点の谷津素性
・古長沼とはどこでつながっていたか。
・宇那谷2谷津の上流部であるのか。
2 湖沼化していた谷津の範囲
3 なぜ流水環境が生まれたか
・湖沼が決壊した場所は。
・流水はどちらの方向に流れたのか。(古長沼に流れ込んだのか、反対に古長沼から流れ出したのか?)
4 湖沼堆積物と考えた細砂の供給源は?
(細砂堆積高度は22.7m~24.9mですが、この附近の細砂供給源である木下層の堆積高度上限は18m程度です。)
5 この地点で湖沼が発生し、終焉した時代は?

突然の湖沼発生とその大決壊があったことなど、1つのボーリングデータからダイナミックな発想が展開する予感がします。

順次検討します。

2012年3月3日土曜日

古長沼の復元 その1

小崖1形成に伴い湖沼「古長沼」が出現し、湖底堆積進行等により水面上昇し、湖沼幅(宇那谷川谷底幅)が拡大したプロセスの仮説を2012.2.26記事「宇那谷川谷津の拡大プロセス仮説」で紹介しました。

こうした考えに基づく古長沼の範囲の復元を試みました。
現在の地形で標高24m~25mの間付近に古長沼が最大拡張した時の範囲があると考えました。

古長沼の範囲
標高区分図投影

古長沼の範囲
旧版1万分の1地形図投影

古長沼の範囲
DMデータ投影

古長沼のこの復元は、新田開発前の長沼池周辺と小崖3に沿った区域に限り行ったものです。
古長沼はこの復元図より西方及び南方にもっと広大に広がっていた可能性が大です。

2012年3月2日金曜日

水田開発前の長沼池復元

2011.5.22記事「長沼池の成因」と重複しますが、埋立前と水田開発前の長沼池の形状を復元してみました。

1 埋立前の長沼池
次の写真は昭和24年撮影米軍空中写真です。

昭和24年撮影米軍空中写真による長沼池

長沼池が埋め立てられる直前の姿になります。
池の中央に四角に区切られたところがありますが、生簀あるいは養殖施設でしょうか?
ほかにも池を区切る線がいくつかあります。
池の南と西は白い線で表される構造物(堤防)になっています。
南の堤防は池と水田の境であり、西の堤防は池と水路の境であると考えます。

次の地図は大正6年測量旧版1万分の1地形図に長沼池と水田、湿地を色塗りしたものです。

大正6年測量による長沼池

池の形状、堤防の位置などが大正6年から昭和24年にかけてほとんど変化していないことが確認できます。

2 水田開発前の長沼池
次の資料は水田開発前の長沼池形状を示す資料です。

六方野開墾絵図(宇那谷町内会所蔵、「「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」より転載)

この絵図は1672年5月作成、1765年写で、宇那谷村と長沼新田との間で長沼池の争論があった時に作成されたと考えられています。
この絵図に細長い長沼池がその名称とともに記載され、東金街道を横切って分布している様子が描かれています。
「長沼」名称の由来が細長い平面形状にあることがこの資料からわかります。

この絵図情報から当時の長沼池の形状を旧版地形図上に復元したものが次図です。

水田開発前長沼池復元図