2013年6月30日日曜日

古代駅名「平津」と戸

花見川地峡の自然史と交通の記憶 18

1 はじめに
2013.06.29記事「紹介 東国駅路網の変遷課程」で中村太一著「日本古代国家と計画道路」(吉川弘文館、平成8年)収録の古代東国の駅路網マップ5枚を掲載しました。
この記事は花見川地峡の交通を問題にする時に知っておかなければならない基礎的知識であると考えて紹介したものです。

さて、記事の趣旨とは離れて、これらのマップをしげしげと見ますと、駅名が掲載されていれ、その駅名には「津」という言葉が含まれるものとして「平津」「茜津」があり、戸がつくものは無いことに気がつきました。

同時に、同書で、著者は古代東国の水上交通関係地名・施設について検討していて、その分布図を掲載するとともに、地名「○津郷」の分布から関東平野の主要河川における水上交通の状況が想定できるとも述べています。

これらの情報から「津」という言葉についてより深く知ることが、「戸」を深考する上で必須であることを改めて思い知ることになりました。

「津→戸」俗論(誤論)が専門家の間に流布していて、疑問がもたれていない背景の一つに、古代駅名に「津」があり、「戸」がないこともありそうです。

花見川地峡の検討からどんどん離れていきますが、花見川地峡に分布する戸地名について深く知るために必要なことなので、「津」に関する古代駅名と地名との関係について考えてみます。

2 平津駅(ひらつのえき)の性格

平津駅の位置
延暦15年(796)頃の道路体系
出典:中村太一著「日本古代国家と計画道路」(吉川弘文館、平成8年)
引用者が平津駅位置と道路を赤色で着色

中村太一著「日本古代国家と計画道路」(吉川弘文館、平成8年)では平津駅について次のような記述を行っています。

「平津駅家の背後には「涸沼」があり、この地域は河口部型の港津を設置するために極めて好適な条件を有している。そして、この涸沼は常陸国の中で最も陸奥国よりに位置する河口部湖沼であり、ここが東国一帯ひいては東国以西から陸奥国に向かう船舶の重要な拠点、あるいは集合地点であった可能性は高い。したがって、ここに置かれた港津において、征夷事業の関わる物資の補給や船団の編成が行われたであろう。」

「征夷事業はまさに律令国家中央の政策であり、「平津」を利用する陸奥国への水上交通、あるいはその拠点としての「平津」を律令国家が掌握する必要があったであろうことは容易に想像できる。これを遂行するために、駅制の持つ情報・命令の伝達や、それを行う官人層の逓送・供給の機能が必要とされたのではなかろうか。実態としては、駅家が上部構造となり港津と一体化していたことは考えられる。しかし、駅家廃止後も港津が機能していたことは、本来「平津」という港津があり、それが征夷事業に関わる重要な拠点であったため駅家が置かれ、そして征夷事業の終了とともに駅家のみが廃止されたことを意味している。つまり、「平津」という港津の特質は、那珂地域の水上交通の拠点という本源的な性格のうえに、征夷事業に関連した水上交通の拠点という位置づけが付加されたものとすることができよう。」

平津駅は国家的意義のある軍港であったということです。その軍港が陸上交通の駅制に組み込まれたことを、この書では詳しく論じています。

3 驚愕事実! 「平津」は「平戸」であった

さて、平津駅を「角川日本地名大辞典8茨城県」で調べてみました。

(私にとって)驚愕の記述がそこにありました。

ひらつのえき 平津駅
比定地は、「風土記」によれば、大櫛(現常澄村大串)の東ということになるので、現在の常澄村平戸に比定される。
出典:「角川日本地名大辞典8茨城県」

ひらと 平戸
涸沼川下流部左岸に位置する沖積地域。地名は「風土記」に見える平津駅によるという。
出典:「角川日本地名大辞典8茨城県」

「平津駅」は地名「平戸」と同じ場所にあったのです!
「やはりそうだったのか」という第一印象です。

現代地図で平戸を示すと次のようになります。

茨城県水戸市平戸町の位置

4 平津と平戸の関係
4-1 私の持論の補強材料を得る
これまで展開してきた私の考え(海夫注文に関連して検討した「戸」と「津」が生まれてくる様子や「津→戸」俗論批判)に沿った情報がここにあったのです。

つまり、次のように考えます。
●律令国家が軍港をつくる前から、この地は平戸(ヒラト)とよばれる「戸」があった。(A
●律令国家が軍港をつくる時(軍港として位置付けた時)、その施設名称を「平戸(ヒラト)」から「平津(ヒラツ)」に変更した。(B
●駅制に編入したときは当然「平津駅」とした。(C
●律令国家の影響が及ぶ前も、軍港ができて運用されたときも、その後も、現在まで地名は一貫して「平戸(ヒラト)」であった。(D

私の持論に平津駅の情報を整合的に配置できるということです。

律令国家は、軍港をつくるとき、もともとそこに居住していた人々(非支配層の在地の人々)が使っていた「戸」(港を意味する言葉)を嫌い、それを港湾を意味するテクニカルターム「津」に改め、施設名(軍港名)にしたのだと思います。

一方、地名はその継続性が強いため、施設名称を「平津」「平津駅」と権力者が付けたにも関わらず、平戸が現代まで伝わってきているのだと思います。

4-2 しかし、この持論の証拠とはならない
しかし、平津駅だけについて検討を絞ると、私の持論の証拠になるわけではありません。
あくまで、私の持論に整合する情報であるということです。
逆に「津→戸」俗論の証拠になるということもできます。

客観的な情報配置は次のようになっています。
●奈良期文書(風土記)に名称「平津駅」が記述されている。
●鎌倉期以降文書(所三男氏所蔵文書、鹿島神宮文書、吉田薬王院文書等)に地名「平戸」「平戸郷」が記述されている。

文書という証拠物件からは、「平津」という名称が最初にあって、その後「平戸」という地名が出てくるとことになります。

これだけを単純化すれば、「平津」という地名が最初にあって、それが「平戸」に変化したと考える証拠がここにある。という考えも生まれます。

4-3 「津→戸」論の証拠であるという考えに対する反論
もし、平津駅の情報を持ってして、地名「平津」が後世に地名「平戸」に変わった証拠であるという論があれば、次のように反論することになると思います。

ア 「平津」「平津駅」は律令国家の国策施設の名称であり、地名ではない。当時、一般に使われていた地名が「平津」であったという証拠はない。
(律令国家は港湾施設を政策的に捉えた時、「ヒラ[地名]+ト[港という意味の施設を表現することば]」の「ト」を嫌い、「ツ」に差し替えたと考える。「ト」から「ツ」に差し替えることにより、「ト」を使ってきた在地住民に対して国家の港湾に対する決意と威厳を示したものと考える。)

イ 「津」が「戸」に変化する国語学的根拠がない。
・「津→戸」変化の国語学的根拠が金沢庄三郎の音韻説だとすると、世の中を説得することはできない。
・逆に国語学的には「戸」から「津」が生まれたと考えた方が合理的である。

5 津と戸について
平津駅の名称と地名の関係について検討する中で、次のような一般論が成り立つかもしれないという印象を持つに至りました。
「古代において、国策施設としての港があった場所のうち、名称に「津」を含むものは、それは「戸」から変換されたものである。」
このような観点で全国の情報を整理すると、戸と津の関係理解が深まると思います。

次の記事で、茜津駅について検討します。

つづく

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2013年6月29日土曜日

紹介 東国駅路網の変遷過程

花見川地峡の自然史と交通の記憶 17

2013.06.24記事「平安時代の東海道と花見川地峡」で示したように、平安時代には花見川河口の幕張が東海道の駅となっていました。駅は東海道という陸路の駅であるとともに、それと交わる水運路の駅であったことが必然的に考えられます。このことから、花見川(水運)-花見川地峡(陸運)-平戸川(水運)-印旛沼(香取の海)(水運)という水運路の存在に着目することができると述べました。

中村太一著「日本古代国家と計画道路」(吉川弘文館、平成8年)では東国駅路網の変遷過程について、詳細な研究成果をまとめていますので、引用、紹介します。この研究成果が古代東国道路網に関する情報の現在のスタンダードになっているようです。

1 7世紀中頃から持統3年(689)までの道路体系

7世紀中頃から持統3年(689)までの道路体系
出典:中村太一著「日本古代国家と計画道路」(吉川弘文館、平成8年)
引用者が道路を赤色で着色

東海道は三浦半島の走水から海路で富津岬に抜けて上総に入り、常陸に向かうルートとなっています。
東海道と東山道を結ぶ相模-武蔵-上野ルート(古代国家の計画道路)が存在していました。

2 持統3年(689)から神護景雲2年(768)までの道路体系

持統3年(689)から神護景雲2年(768)までの道路体系
出典:中村太一著「日本古代国家と計画道路」(吉川弘文館、平成8年)
引用者が道路を赤色で着色


この段階で、駅家・駅路が制度的に確立し駅制が成立しました。
相模-武蔵-下総を連結する東海・東山道連絡駅路が成立しました。
浮島駅がこの東海・東山道連絡駅路の一つ駅として設置されました。

3 延暦15年(796)頃の道路体系

延暦15年(796)頃の道路体系
出典:中村太一著「日本古代国家と計画道路」(吉川弘文館、平成8年)
引用者が道路を赤色で着色

宝亀2年(771)の武蔵国の東海道編入(それ以前は東山道)によって、東山道武蔵路と東海道走水ルートが廃止され、相模国府-武蔵国府-下総国府-上総国というルートが東海道本路として位置付けされました。
この時期では浮島駅は東海道本路の駅であったことになります。

4 弘仁6年(815)頃の道路体系

弘仁6年(815)頃の道路体系
出典:中村太一著「日本古代国家と計画道路」(吉川弘文館、平成8年)
引用者が道路を赤色で着色

下総国から常陸国に入るルートを最短距離で結ぶために、浮島・河曲・鳥取どを結ぶルートに代わり、下総国井上駅から茜津・於賦駅などを経て常陸国に入るルートが開かれました。
浮島駅は東海道本路から分かれて上総国に向かう支路の駅として格下げされました。

5 10世紀代頃の道路体系

10世紀代頃の道路体系
出典:中村太一著「日本古代国家と計画道路」(吉川弘文館、平成8年)
引用者が道路を赤色で着色

武蔵国内の東海道本路が、武蔵国府を経由しない路線形態に変化しました。

この書のなかで、10世紀末頃には全国一律な駅制は崩壊すると考えられ、10世紀中頃が駅制のほぼ最終段階と考えられると記述されています。

つづく

………………………………………………
次の記事作成のためのメモ

上記マップに出てくる駅制の駅名を見ると、○○津として茜津駅・平津駅がみえる。○○戸はない。

またこの書で古代東国の水上交通について検討していて、その中で古地名のなかの「津」に着目している。

一方、14世紀文書海夫注文の検討で得たイメージ(「戸」は在来的、民衆的、「津」は新規的、官側的)は「津→戸」俗論の誤りを指摘するのに有効であった。

これらのことから、「戸」と対比して得られる「津」の意味は、古代交通政策(計画)の認識を深める上で大きな意義を持つと考える。

「津」の本義は古代国家における国土政策用語、国土計画用語としての港湾であると思う。

「戸」は古代国家成立前から既に一般語であり、一般民衆が使う言葉であり、多義的な言葉であるので、支配層は国土政策(国土計画)用語としてはこれを避け、テクニカルターム「津」を使ったのではないか?

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2013年6月28日金曜日

「戸と津の関係」俗論の系譜

花見川地峡の自然史と交通の記憶 16

話の本論から外れた寄り道記事です。

前の記事(2013.06.27記事「14世紀文書「海夫注文」における戸と津」)で、古文書「海夫注文」の検討で、地名の構成要素「戸」と「津」が生まれていく様子の仮説を検討しました。

地名構成要素「戸」と「津」が生まれていく様子の仮説(14世紀文書「海夫注文」の検討をヒントとする)
※ 2013.05.20記事「「戸」を構成する4つのイメージ」参照

この仮説、特に14世紀には「戸」地名と「津」地名が共存していたことと、「戸」は土着地名であり民衆に使われていて、「津」は政策的技術用語であり官側から使われていたというイメージから見ると、地名関係書における「戸と津の関係」俗論に対して次のような感想を持ちますので、メモしておきます。

1 岡野友彦著「家康はなぜ江戸を選んだか」の論に対する感想
岡野友彦著「家康はなぜ江戸を選んだか」(教育出版)127130ページに次のような記述があります。

「応永5年(1398)に作成された「葛西御厨田数注文」という古文書を見ると、江東区の亀戸は「亀津村」と書かれているのである。…「戸」と「津」は同じ意味であった。」
「広島県福山市草戸町んぼ芦田川河川敷に埋もれていた遺跡として有名な草戸千軒町は、本来「草津」と称されていたことが明らかにされつつある。例えば、貞和6年(1350)の「内藤肥後徳益丸代審覚軍忠状案」という古文書を見ると、足利尊氏の庶子である直冬が、父尊氏に抗して備後の鞆から尾道に軍を進めるにあたり、「草津」というところを通っている。この「草津」は、もちろん草戸の集落と考えるのが妥当であろう。」
「今戸・亀戸・草戸といった「戸」のつく地名は、いずれも中世においては今津・亀津・草津というように、「津」のつく地名であった。これらの場所が、中世の港湾都市であったことは、疑いのないところといえよう。」

著者は今津・亀津・草津という全国の地名が最初に存在し、それが中世以後、全国で今戸・亀戸・草戸という地名に変わったと考えているようです。

この想定は、私の仮説からすると間違っていると思います。
ここに出てくる古文書は二つとも14世紀の官側の立場によるものです。官側は地域を政策的に見る場合、土着の「戸」ではなく政策用語(テクニカルターム)としての「津」を使ったはずです。
従って、同じ地名が、古文書では「津」、現場の民衆は「戸」と使い分けられていたと考えることが可能です。
14世紀は海夫注文の検討でわかったようにすでに戸地名と津地名が共存していた時代です。

「戸」は漢字伝来以前からある地名であり、民衆に根付いた「戸」地名が現在まで継続して利用されているのです。地名の継続性は強力なものであると思います。官側のインテリゲンチャが「津」という言葉に変換して使っても、結局は根付かないで埋没してしまう場合も多々あったのだと思います。

もし、本当に各地の津地名が一斉に戸に変化したという現象を信じるならば、その理由を合理的に説明する必要があります。中世以後ならば各種文書(証拠)が残っているはずです。

2 鈴木理生著「東京の地理がわかる事典」の論に対する感想
鈴木理生著「東京の地理がわかる事典」(日本実業出版社)248ページに「「江戸」という地名はどこからきた?」という項があり、「「戸」は「津」と同じ?」という小見出しに次の文章があります。
「…「戸」は津(渡り口)の転化したものだという国語学上の見解をとれば…」
著者は津→戸という「国語学上の見解」を理由にして、江戸をはじめ亀戸、青戸、奥戸、松戸…などの地名を説明しています。

この著者見解が、現在の「江戸」関係者の思考に多大な影響(バイアス)を与えているようです。

「「戸」は津(渡り口)の転化したものだという国語学上の見解」がなんであるか知りたいところであります。

私は次の地名・国語学者の見解がそれにあたるのではないかと想像しています。

3 金沢庄三郎著「地名の研究」の論に対する感想
金沢庄三郎著「地名の研究」(創元社)121ページに「音韵上よりみたる地名」という項があり、つぎのような説が述べられています。
「ア行五母音の中アイウが基本となり、エオは第二次的のものであるから、原則としては、エオがイウよりも新しいといはねばならぬ。」
「土佐国安芸郡室津(牟呂都)は承和二年には土佐室戸崎と見えてゐる。」

この説によれば、タ行でいえば、テ・トがつく地名はチ・ツがつく地名よりも新しいことになります。
つまり、戸が付く地名は津がつく地名よりも新しいことになります。
例の一つとして室津(牟呂都)→室戸をあげています。

この地名音韵説は現代にあっては執ることのできない乱暴な見解だと思います。

金沢庄三郎をウィキペディアで調べると、「明治557日(1872612日)-昭和42年(1967年)62日)、日本の言語学者、国語学者。」として説明されています。


以上で「戸と津の関係」俗論の系譜をたどることができました。

この俗論は広大な範囲に流布しています。
角川日本地名大辞典12千葉県の平戸(八千代市)の項にも「地名の由来は戸が津の転訛といわれることから印旛沼の津であったことによるものか。」と記述されています。

この俗論が正される日がくることを願います。

つづく

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2013年6月27日木曜日

14世紀文書「海夫注文」における戸と津

花見川地峡の自然史と交通の記憶 15

2013.06.24記事「平安時代の東海道と花見川地峡」を検討している中で、「海夫注文」という古文書の古代東国交通における重要性について知りました。

「海夫注文」は香取大禰宜(おおねぎ)家に伝来した文書です。

「その内容は、下総国と常陸国に属する津(港)名と知行者名を列挙した文書です。平安時代以来、海夫は香取神宮の大宮司に支配されていましたが、南北朝時代には在地領主の支配下に置かれました。このため応安7年(1374)室町幕府は、海夫を各在地領主から新たに大禰宜の支配に入るように命じました。このおりに作成されたのが「海夫注文」書です。」(茨城県立歴史館のWEBページによる)

海夫とは海民のことです。

網野善彦は「霞ケ浦・北浦-海民の社会と歴史」のなかで海夫注文について詳しく検討し、海夫の分布と、陸地とは異なる入海の秩序(入会)や自由通行権について明らかにしています。

さて、この「海夫注文」を整理したリストと原文写真の双方を見て、「戸」と「津」の関係について感想をもったので、メモしておきます。

(「海夫注文」から得られる交通面や統治面等の情報と花見川地峡との関連は別に検討する予定です。)

1 海夫注文の津名リスト
次の表は専門家によってつくられた海夫注文に出てくる津名リストです。

海夫注文に出てくる津名を整理した一覧表
出典 鈴木哲雄:中世関東の内海世界、2005、岩田書院

参考に網野善彦の作成した「海夫及び霞ケ浦四十八津、北浦四十四ケ津の津々分布図」を掲載します。

海夫及び霞ケ浦四十八津、北浦四十四ケ津の津々分布図
出典 網野善彦:霞ケ浦・北浦-海民の社会と歴史、1983、網野善彦著作集第10巻、岩波書店

2 海夫注文における用語「津」
海夫注文原文の写真例を示します。

海夫注文原文の写真(例1
出典 千葉県史編纂審議会編:千葉県史料 中世編 香取文書

上記原文の一部の活字表現
出典 千葉県史編纂審議会編:千葉県史料 中世編 香取文書

この史料では「[地名]++津」という用語法でリストを作成しています。
地名の大部分と「の」がひらがなで、津が漢字となっているところから、津という概念が強調されています。

海夫注文の原文写真(例2
出典 鈴木哲雄:香取社海夫注文の史料的性格について、2004、中世一宮制の歴史的展開上、岩田書院

この史料では「[地名]+津」という用語法でリストを作成しています。

これらの資料から海夫注文では「津」という言葉を「船の停泊するところ(港)」あるいは「港を抱えている集落(港町)」の意味で使う一種のテクニカルタームとして使っていることが判ります。

また「[地名]++津」あるいは「[地名]+津」という用語法で用いて、それを持って大禰宜の支配下に入るべき海夫根拠地を示しています。

ただし、例外があります。
地名「船津」(2か所)、「大船津」は「+津」がありません。地名そのものをリストアップしています。○○津津という繰り返しを避けています。

こうした事実から14世紀には「津」という言葉の意味は現代使われている国語上の「津」の意味とほとんど同じであり、それは当時の公文書に用いられる港又は港町を意味する専門的用語であったことを確認できます。

3 海夫注文に出てくる地名としての「戸」と「津」
海夫注文に出てくる地名の中に「戸」が付く地名(あるいは「と」と読む地名)があります。また「津」が付く地名があります。
列挙すると次のようになります。

海夫注文に出てくる「戸」地名と「津」地名
区分
地名
常陸
下総
福戸、古渡、広戸
森戸、井戸庭、関戸
白鳥船津、大船津、羽生船津
津宮

14世紀にはすでに「戸」地名と「津」地名が共存していたことを確認できます。

なお大船津について吉田東伍著「大日本地名辞書 坂東」には次のような記述があります。
「又舟戸(フナト)とも云ひ、鹿島の水駅なり。…東国戦記には大船戸に作る。…新志云、地方の子守歌に「ねんねが守りは、どこいツた、鹿島の舟戸へ、帯買ひに、帯は七丈(ナナタケ)、直は八十三文」云々、是は帯トの事をうたふ者にて、舟戸にて其帯買いて、社頭へ詣てしならん。…」
大船津(オオフナツ)が一般にフナトとも呼ばれてきたことが記述されています。

これを詳細に分析するならば、一般民衆は(子守唄で歌われるように)古来からの名称フナトを使い、官側は鹿島神宮公式港としての名称として、尊称「大」を加え、(中国伝来の漢字に裏打ちされた)テクニカルターム「津」を使い大船津としたものであると捉えることができます。

このような事情(大船津がフナトとも呼ばれてきたこと)から、14世紀から近世までは地名の「戸」が「津」として表現される場合があったり、「戸」から「津」に変換してしまったことが、しばしばあったと推察できます。

4 海夫注文における戸と津の検討から生まれた仮説
2013.05.15記事「戸は津より古い言葉(地名)である」や2013.05.18記事「紹介 戸が人に通じるという考え方」で検討したように地名における戸は古く(漢字伝来以前)、地名における津はそれより新しいと考えましたが、海夫注文におけるテクニカルタームとしての「津」の存在、及び地名における「戸」と「津」の共存という情報はこの考えを補強し、次のような仮説を持つことが出来ました。

海夫注文における戸と津の検討から生まれた仮説


  
※ 2013.05.20記事「「戸」を構成する4つのイメージ」参照

この仮説を得たことにより、「江戸」関係書に多くみられる「津から戸が生れた」という間違った論に対して有効な反論が可能になると思います。

つづく

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