2013年7月31日水曜日

高津土塁(砦跡)の地質

花見川地峡の自然史と交通の記憶 46

1 ボーリング資料
千葉市では千葉市公共施設のボーリングデータを閲覧できる仕組みをつくっています。
幸い柏井小学校のボーリングデータを閲覧することができました。

しかし、残念なことに、ボーリングは土塁上部を撤去した後の造成地で実施したものです。
土塁本体上部が残存していた状態から、土塁上部を撤去して宅地面を造成し、その造成地に学校を建設したのですが、現在千葉市に残存する資料は造成地に学校を建設する時点からの資料だけです。造成地をつくるための測量・土木設計資料やボーリングデータはありません。またその間の経緯も全く不明です。

ボーリングデータは全部で9カ所ありますが、そのうち体育館(1カ所)、プール(4カ所)は土塁関連施設に該当する場所であり、追って検討します。この記事では校舎(4カ所)のデータについて検討します。

次の図はボーリングデータの位置図です。

ボーリングデータ位置図

2 ボーリングデータから復元地形(土塁)の地質は盛土であることがわかる
ボーリングデータを地形断面に投影して表示すると次のようになります。

ボーリングデータの地形断面図への投影

52-152-355-1は砂層(成田層)の上面高度が近似しています。また52-355-1には砂層の上に粘土層がのっています。この3カ所のデータからこの造成地は、一つのまとまった地形面である可能性が読み取れます。今後精査する予定ですが、その高度と分布位置から芦太川東岸の河岸段丘であると考えます。
芦太川の河岸段丘であるならば、そのローム層厚は2m未満であることは確実です。
芦太川河岸段丘より古い下総下位面のローム層厚はこの付近で2m未満であるからです。(2012.01.20記事「下総台地のボーリング資料」参照)

52-152-355-1のローム層厚は全て1.2mですから、自然の状態ではこの付近が本来の地形面であっても不思議ではありません。しかし、復元地形では、これらのボーリング地点の上にさらに1.9m2.6m2.8mの土がありました。造成工事で削除された土がローム層と考えるとローム層の厚さが3.1m3.8m4mとなり、この場所が粘土層が分布することが示すように、もともと平坦な地形面であったことを考慮すると、自然現象としてはあり得ないローム層厚になってしまいます。
造成工事で削除した土はそのほとんどが人工盛土であると考えること以外に別の可能性を考えることはできないと思います。

造成地と復元地形との関係及びボーリングデータから、もともとあった芦太川河岸段丘上に土塁がつくられ、学校建設の際に、その土塁をそっくりそのまま撤去したように考えることができます。

なお、52-2のボーリング位置は作られた造成地の端であり、もともと斜面であった部分の地質を表現しているものと考えます。砂層高度が低くローム層が厚い(4.6m)ことは斜面堆積を表していると考えます。

3 復元地形(土塁)の地質が盛土である決定的証拠
ボーリングデータ55-1のローム層の記述に「造成土の可能性ある」という記述があります。
ボーリング調査技術者はそのローム層を「造成土」と判断したのだと思いますが、そこに造成土が存在する理由を説明できない、不都合な事実であったので、「可能性ある」と付け加えたのだと思います。

造成土の可能性を指摘している資料

この資料は「可能性ある」という表現ですが、復元地形(土塁)の地質が盛土であることを直接証明する決定的証拠であるとすることができます。

55-1でのみ「造成土」が観察された理由としたは、55-1地点は土塁本体の中央部分であることから、土塁をつくる時に地表のローム層を剥ぎ取り、盛土をして締固め、基礎としたという古代工法の結果が表現されているものと考えます。

つづく


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2013年7月30日火曜日

高津土塁(砦跡)の地形

花見川地峡の自然史と交通の記憶 45

1 現在の地形
現在の地形を立体的に見てみました。
次のような地形段彩図をつくりました。

地形段彩図
1秒間隔の経緯線は立体感を増幅するためにこの時点から入れています。

3方向から眺めた現状の地形立体像を作成しました。

地形立体像1
赤く表示される周辺の台地より一段低い、青く表示される台地状の地形が、柏井小学校が乗っている場所です。この台地のような地形は学校建設のために土塁(砦)を掘削した人工平面です。

地形立体像2
土塁本体上部は学校建設のためにほぼ完全に除去されましたが、土塁下部の敷地形状は残っていて、土塁が高津川に向かって尖るように張り出している様子が観察できます。この部分は高津川がカーブする所で、その水衝部ですから、このような尖った地形はそれが人工地形であることを如実に示しています。
土塁が張り出した(尖っている)ところから手前が湾入部のようになっていますが、ここに高津(古代直轄港湾)があったものと想像しています。

地形立体像3
高津川に合流する芦太川の上流方向から眺めた画像です。
芦太川右岸に河岸段丘がありますが、それと土塁撤去跡の間に赤く表示されている尾根みたいな地形があります。
この尾根状の地形は高津土塁の一部で、土塁本体を防御する小土塁のように想像しています。またその尾根状の地形と土塁本体の間には凹地があり、水面を設けるなどの何らかの機能を有していたものと考えます。土塁本体の土はこの凹地から採ったものと考えます。

2 開発前の地形
次の図は現在の地図に地形断面図の位置を記入したものです。

地形断面図位置(現在の地図)

次の図は1960年測量千葉市都市図をGISにプロットし、そこに上記と同じ地形断面図位置を記入したものです。

地形断面図位置(1960年測量図)
1960年測量図(千葉市都市図)は千葉市立郷土博物館提供

次に上記二つの情報から、現代の地形断面図と開発前地形断面図を作成しました。

地形断面図

現在の地形は土塁本体の上部をそっくりそのまま削除してしまっていることが判ります。
同時に低地の部分では3mから4mの盛土が行われていることも確認できます。

この土塁の存在が判っていたならば、恐らく柏井小学校は別の場所に建てられ、この場所は史跡公園等として保存されたことと思います。

なお、千葉市営繕課等にヒアリングしたところ、土地造成前の調査等の経緯は不明であり、土地造成後の設計資料、ボーリング資料のみ存在することが判りました。


つづく

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2013年7月29日月曜日

杵隈(カシワイ)と古代官道基点を結ぶ通路

古代官道跡を米軍空中写真でみる(その6
花見川地峡の自然史と交通の記憶 44

これまでこのブログでは、柏井にあった杵隈(カシワイ=船着場)と高津(古代直轄港湾)の間について、米軍空中写真を使って検討してきましたが、杵隈と双子塚古墳(官道基点)の間についての検討をしてこなかったので、ここで検討します。

柏井・高津古代官道の起終点のイメージ

これまで、柏井と高津を結ぶ官道の起点がなぜ花見川の東岸にあるのか、不思議で理解できませんでした。イメージ的にはわざわざ遠回りすることになります。

この疑問が氷解しましたので報告します。

単純な理由でした。

花見川谷津谷底を登ると、その源頭部は近隣の東京湾水系谷津源頭部と同じように急崖で終わっていて、そこを人が通ることはできなかったと考えて間違いありません。

柏井集落付近から台地上に出ようとすると、東岸には段丘状の緩斜面がありスムーズに台地に出られます。

ところが、西岸では急崖を登らないと台地にでられません。

このような地形上の理由から東岸から台地上に出て、そこにある双子塚古墳を基点にして直線道路としての柏井・高津古代官道がつくられたものと考えることができます。

そもそも、双子塚古墳が花見川東岸にあること自体も同じ理由であると思います。

私事になりますが、毎朝この緩斜面を利用して花見川に降りて、花見川サイクリングロードを通り弁天橋まで散歩しています。また、時々、自転車でこの緩斜面を上り下りしています。
一方、西岸の柏井集落から台地上にでる道は急崖を登る急坂です。とても自転車をこいで登れるような坂ではありません。
自分の体感をもって、柏井・高津古代官道の一つの起点が花見川東岸にあることの意味を理解しています。

柏井付近の地形概略と古代交通ルートの想定
(注…古柏井川谷底は印旛沼堀割普請によってほとんど消失しましたが、ゴルフ場など数か所に地形として残存しています。この地形概略に示した古柏井川谷底分布は復元想定です。)

参考 柏井付近の裸眼実体視資料

杵隈と双子塚古墳を結ぶ古代の道路は、その場所が天保期印旛沼堀割普請の捨土土手の場所となったことから推測するしかありませんが、台地縁沿いの単純なルートであったと考えます。


つづく

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2013年7月28日日曜日

橋桁鉄骨上のタメフン

弁天橋から花見川の写真を撮っている時、ふと、目の前の橋桁鉄骨上に動物のタメフンがあることに気がつきました。
橋の歩道に飼い犬の糞を置き去りにする人がいて、腹が立ちますが、眼前のタメフンには興味津々です。

弁天橋とそれを支える橋桁鉄骨

タメフンがあった場所

橋桁鉄骨上にはこの場所以外にもタメフンがあります。
動物は橋の歩道脇の幅15㎝の鉄柵をすり抜け、落差40㎝の横梁部を通って橋桁鉄骨に出入りしているのだと思います。西岸側にも同じような横梁部があります。動物はこの橋桁鉄骨を通路にして花見川の両岸を行き来することがあるのだと思います。

タメフンを見ると時間差のあるフンが重なっているように見えます。複数の個体がフンを溜めているようには見えません。
恐らく1匹の個体が時々この橋を渡る時にタメフンしていると考えました。

タメフン

タメフン(拡大)

タメフン
ビニール片がみえる

タメフン

フンの中身の種の種類はよくわかりませんが、ビワの種や桃の種のような大きな種も入っています。
この辺りには家庭菜園で果実をつくる人も多いのでビワや桃の種があっても不思議ではありません。
ビニール片が見えるフンもあります。家庭菜園や果樹園に出没しているのだと思います。
小さい白い種の種類はわかりません。私は果実を食べて、この種を口から出した記憶はありませんから、人は食べない果実かもしれません。

動物の種類はハクビシンであると想像します。
この付近でハクビシンを見る機会が多くあります。
2012.07.15記事「ハクビシン確認」、2012.08.12記事「今朝またハクビシンを見る」参照

WEBを見ていたら偶然次のような情報に接しました。

この論文で、ハクビシンが「気象観測鉄塔の高さ10mにある鉄製の踊り場」にタメフンしていることが報告されています。
ハクビシンが鉄製の構造物に糞をする例があるのですから、橋桁鉄骨上でタメフンをしても不思議ではありません。

なお、フンにビワの種がそのまま入っているということは、ビワをほとんど丸のみして食べているのだと思います。
一方人がほとんど入らない場所にある家庭菜園で、果実をドロボーするなという張り紙を数多く見かけます。

私の想像では、ハクビシンが果実をかじるのではなく、もぎ取って丸のみしてしまうために、果実生産者はあたかも人が果実をドロボーしたのだと勘違いしている場合が多いのだと思います。

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2013年7月27日土曜日

高津土塁(砦跡)発見の重大性

古代官道跡を米軍空中写真でみる(その5
花見川地峡の自然史と交通の記憶 43

2013.07.26記事「高津に土塁(砦跡)新発見」で、高津(古代直轄港湾)を想定している場所に土塁(砦跡)を新発見した旨報告しました。

一日経ってよく考えてみると、かなり重大な発見であるので、あらてめてその重大性と今後の調査について考えます。

1 土塁(砦跡)であるならば、高津(古代直轄港湾)存在の直接証明になる可能性が濃厚
見つけた地物が土塁(人工工作物)であるならば、それが高津(古代直轄港湾)存在の直接的物的証拠となる可能性が濃厚です。

次の資料を調べた結果、古文書等により現在伝わっている情報にはこの地物や土塁(砦)、港湾に関するものは一切ありません。
・「千葉市史 原始古代中世編」、「千葉市史史料編1 原始古代中世」、「千葉市史史料編9 近世」(北柏井村及び横戸村の項)、
・「八千代市の歴史 通史編上」、「八千代市の歴史 資料編原始・古代・中世」
・千葉県埋蔵文化財地図

特にこの地物が存在する千葉市柏井町の古文書等に全く出てこないということは、この地物の存在や意味が社会で一旦完全に忘れられ、途切れて、近世(17世紀頃)に至ったということを示しています。
そもそも、この土塁が高津村にではなく、柏井村に存在していること自体、この土塁の意味が17世紀頃には既に全く判らなくなってしまっている状況を示しています。

ということは、この地物は古代あるいは中世のものであることを意味します。

さらに、高津川の要衝に土塁(砦)を築くということは、川の交通がメインであり、陸の交通がほとんど発達していない社会状態を意味します。つまり、台地上は移動がままならない未開地であり、移動はもっぱら舟であることから、河岸土塁(砦)の意義が発生します。
同時に、そうした移動が高津川で可能であったことを示しています。つまり、谷津の奥深くまで水運が可能であった高海水準期に土塁(砦)がつくられたことが判ります。

ということは、この地物が活きた(機能した)時期は古代に絞られます。

こうしたざっくりした思考から、この地物が高津(古代直轄港湾)の軍事施設である可能性が濃厚となります。(詳細な検討、証明は今後の課題です。)

この地物が高津(古代直轄港湾)の軍事施設ということになれば、次のようなことが判明します。

●「高津村」の高津の意味がわからないという状況が一挙に氷解する。高津村領域は高津(古代直轄港湾)をつくることによって形成した植民地域であった。

●延喜式にでてくる高津馬牧の場所もこの植民地域付近になる。

●柏井の語源検討(杵隈[カシワイ]=船着場)と高津(古代直轄港湾)存在を合わせると、柏井・高津古代官道実在証明の有力証拠の一つとなる。

このブログではいままでいろいろな事実を発見(あるいは再発見)してきましたが、この土塁(砦跡)発見は、文化財としては最大の発見になります。

この発見は、千葉市と八千代市の境界付近の歴史を塗り替えることになりそうです。

2 発見した地物が土塁(人工工作物)であるということの証明方法
発見した地物が人がつくった土塁であり、砦として利用されたであろうことは、米軍空中写真を実体視して、私が直感的に(瞬間的かつ確信を持って)理解したということです。

恐らく、地形の基礎知識があり、この地域の古代の歴史に興味がある方が米軍空中写真を自由に拡大表示して実体視すれば、必ずやこの地物が土塁(人工工作物)である(あるいはその可能性が強い)と直感すると思います。(これまで、そういう人がゼロだっため、私が見つけることになったのです。)

さて、この直感を万人に理解してもらえるように証明しなければなりません。

次のような方法ならば、専門家でもない私でもできるかもしれないので、試みたいと思います。

 地形学的検討
地形学的にこの土塁が人工物であることを検討する。
・米軍空中写真、及び柏井小学校建設前に撮影された数種類の空中写真を判読することにより、地形検討が可能です。
・土塁の土を掘った場所と土塁が隣接している可能性が大きいです。

1975年1月撮影カラー空中写真のサムネイル
C KT-74-13 CA12A-18

付近の開発が進み、土塁本体だけかろうじて残っている状況を示しています。

 土質学的検討
土塁の構成物が自然の地層ではなく、盛土であることを検討する。
・柏井小学校建設時のボーリング資料を利用できることが判りましたので、検討が可能です。
・残存土塁の現場調査が可能ならば実施してみます。

 類似事例による検討
他所の類似事例により砦としてつくられた人工物であることを検討する。
・印旛沼周辺に同様の趣旨でつくられた土塁(砦跡)が分布するか検討し、比較する。
7世紀頃の他所の類似事例(例 大宰府の水城跡等)と比較して、この土塁がつくられた当時の技術力等との整合性について検討する。
・土塁が存在する位置、土塁と周辺地物の形状等から目的を持った人工物であることを示します。

なお、この地物が仮に人工物ではなく自然地形であっても、この地物が高津の要塞として利用されたということは十分考えられます。しかし、人工物であることを必ず証明できると考えるので、そのような検討は必要ないと思っています。
  
つづく

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2013年7月26日金曜日

高津に土塁(砦跡)新発見

古代官道跡を米軍空中写真でみる(その4
花見川地峡の自然史と交通の記憶 42

3-6 D調査区
D調査区としたところは高台南古墳から高津川低地までの交通ルートです。

柏井・高津古代官道は高台南古墳・双子塚古墳・広幅員直線道路の3つの部品からなる巨大土木装置であると考えています。その装置の前後は必ずしも直線性道路をつくるなどの工夫はしていないと考えています。

米軍空中写真を実体視しても、高台南古墳から高津川低地までの交通ルートを示唆するような地物等は見つかりませんでした。

従って、できるだけ緩斜面を通り、短い距離で高津川低地にいたるルートを想定すれば、それが古代の交通ルートである可能性が高いと考えました。

次の図には地形の概略を書き込みました。
この地形から、現在のゴルフ場と柏井小学校の間を通るところを通って高津川低地に降りるルートが最も合理的であると考えました。現在使われている道路も同じ場所で高津川低地に降ります。

D地区説明図

3-7 土塁(砦跡)の新発見
さて、突然ですが、土塁(砦跡)の新発見です。

現在の柏井小学校敷地の部分が、米軍空中写真では明らかに人工地形であり、土塁(砦跡)として認識できます。

土塁の上は細長い平面となっていて、その標高は1960年測量千葉市都市図では18.7mです。付近の低地の標高が78m程度、高台南古墳付近の台地面標高が23m程度です。

次のD地区付近の裸眼実体視資料で土塁(砦跡)を視認できます。

参考 D地区付近の裸眼実体視資料

土塁(砦跡)は芦太(アシダ)川沿いの河岸段丘(多分、立川面相当)上につくられ、位置的に高津川が平戸川に合流する付近を監視することができる要衝の地にあります。
また付近の台地から独立して存在し、崖と急斜面により立ち上がっているので、防御機能が万全です。

この土塁(砦跡)は千葉県埋蔵文化財地図等には収録されていません。「千葉市史史料編1原始古代中世」の「千葉市内遺跡分布図(Ⅷ)城・館・砦址」にも掲載されていません。

この付近は八千代市との市境であり、また本来は印旛沼水系の流域でもあることから、千葉市の歴史関係者が興味を持つところとならないため、もともとの調査が手薄であったのでしょう。

また、千葉市の歴史関係者が米軍空中写真を実体視して活用するということも、これまでなかったと考えられます。

現在の風景は次のようになっています。

グーグルアースによるD地区付近の風景(斜め写真風)

砦(柏井小学校敷地)と台地(ゴルフ場)の間に柏井・高津古代官道とつながる道路を通すことにより、関所的機能や軍事的機能がそこにあったことがしのばれます。

この砦が高津(古代直轄港湾)にかかわる時代のものであるかどうか、今後詳しく検討して行きます。

この砦がこの場所に高津(古代直轄港湾)が存在したことの決め手となるかもしれません。そうなれば、延喜式にでてくる高津馬牧の場所もここら辺(砦によって守られる領域)ということになります。

シナリオのないブログ運営ですが、泥縄的に情報が集まってきます。

つづく


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