2013年8月31日土曜日

追補 地名「横戸」の由来と香取の海との関係

花見川地峡の自然史と交通の記憶 69

2013.08.28記事「地名「横戸」の由来と香取の海との関係」の記述内容を裏付け、補強する情報が集まりましたので、追補します。

同記事では、地名「横戸」の由来に関する既存説(余部関連説)を批判・否定し、風景の分析から地名「横戸」の由来仮説を述べました。

この追補では、既存説の批判・否定を裏付ける情報として「千葉県の歴史 通史編 古代2」の付録「古代房総三国の郡・郷・里の変遷と比定地一覧」を紹介します。

また、横戸が平戸川を遡って来た人々によって命名されたという仮説を補強する情報として、横戸が村上と精神的に結ばれていることと横戸が村神郷に属していたことを述べた「千葉県印旛郡誌」の記述を紹介します。

1 律令制時代において横戸が属していた郡・郷
律令制時代において横戸が千葉郡に属していたのか、印旛郡に属していたのか、不明です。

「千葉市の町名考」(和田茂右衛門、昭和45年)によれば、横戸町について次のように説明しています。
「当町の第六天神社は、天御中主命を祭神とした妙見社であることと、「千葉郡誌」に「千葉氏の一族千脇作太郎名主役を勤む」とあるところから考えて、往古は千葉家の勢力範囲だったと思われる。」

「往古は千葉家の勢力範囲だった」ことは事実ですが、律令制時代の最初から千葉郡に属していたという証拠は全くありません。
むしろ、次の2で述べるように、律令制時代の最初は印旛郡に属していたと考える方が自然です。

そこで、律令制時代において、横戸が千葉郡であった場合と印旛郡であった場合の2ケースを設定して、ケース毎にどの郷に属していたか、検討します。

検討の材料は、「千葉県の歴史 通史編 古代2」の付録「古代房総三国の郡・郷・里の変遷と比定地一覧」です。
(この資料があることを千葉市立郷土博物館より教えていただきました。千葉市立郷土博物館に感謝します。)


ケース1 横戸が千葉郡であった場合の郷対応
郡名
郷名
郷の比定地
横戸が対応する郷
千葉
千葉(ちば)
千葉市中央区蘇我町・大森町・浜野町一帯

山家(やまいえ又ははやまか)
未詳
千葉市北西部(花見川・小仲台川周辺)
池田(いけだ)
千葉市都川下流以南(星久喜・仁戸名町・矢作町・千葉寺町周辺)

三枝(さいくさ)
千葉市中央区作草部周辺(葭川流域)

糟苽(かそり)
千葉市若葉区加曽利町周辺(都川中~上流域)

山梨(やまなし)
四街道市山梨周辺(鹿島川上流左岸地域)

物部(もののべ)
四街道市物井周辺

郷名、郷の比定地は「千葉県の歴史 通史編 古代2」の付録「古代房総三国の郡・郷・里の変遷と比定地一覧」による

横戸が千葉郡であった場合、横戸は山家郷に属していた可能性が高いと考えられます。千葉郡には余部郷の存在は知られていないので、横戸が余部郷に属していた可能性はありません。

ケース2 横戸が印旛郡であった場合の郷対応
郡名
郷名
郷の比定地
横戸が対応する郷
印旛
八代(やつしろ)
成田市八代・船形・台方周辺(江川流域)

印旛(いんば)
未詳
佐倉市飯野・飯田・本佐倉~酒々井町本佐倉周辺(地志)

言美(ことみ)
未詳
印西市平岡・小林付近(地辞・地志)
印旛村荻原周辺(図志)

三宅(みやけ)
未詳
印西市小倉・浦辺周辺(地志)

長隈(ながくま)
佐倉市長熊周辺

鳥矢(鳴矢(かぶら)(とや)
未詳
佐倉市鏑木周辺(地辞・地志)

吉高(よしたか)
印旛村吉高周辺

船穂(ふなほ)
印西市船尾周辺

日理(わたり)
未詳
佐倉市臼井周辺(地辞・地志)

村神(むらかみ)
八千代市村上~萱田周辺
余戸(あまるべ)
×◇
未詳
佐倉市天辺周辺(地辞・地志)

ツ牟
未詳

郷名、郷の比定地は「千葉県の歴史 通史編 古代2」の付録「古代房総三国の郡・郷・里の変遷と比定地一覧」による

「千葉県の歴史 通史編 古代2」の付録「古代房総三国の郡・郷・里の変遷と比定地一覧」は、「和名類聚抄」大東急記念文庫を底本とし、高山寺本、古活字本・名古屋市立博物館本を対照している。
◇は名古屋市立博物館本にみえない郷。
×は高山寺本にみえない郷。
□は「和名類聚抄」にはみえないが、木簡などにみえる郷。
地辞は大日本地名辞書
地志は日本地理志料
図志は利根川図志

横戸が印旛郡であった場合、その位置が明確になっている村神郷に属していたと考えられます。印旛郡には余部郷がありますが、この場所は佐倉市天辺周辺と考えられますので、横戸が余部郷に属する可能性はありません。

検討の結果、ケース1、ケース2のどちらでも、横戸が余部郷に属していた可能性はありません。

従って、横戸の(そして天戸も)地名由来を余部関連にて解釈しようとする角川日本地名大辞典の試みは完全に否定されます。

参考 千葉郡と印旛郡の郷分布
ケース1とケース2の情報を概略分布図にしてみました。

2 横戸と村上との関係
千葉県印旛郡誌(千葉県印旛郡役所編、大正2年)の阿蘇村誌沿革誌に次のような記述があります。

「下総国旧事考云、村上村あり是なるべし、此の村の鎮守を七百余箇所明神といふ、いかなることにや米本、村神、神野、保品、先埼、上高野、下高野、下市場、勝田、横戸以上十村の氏神なりと云ふ、此村々村神郷の地なるべし。」

村上村の鎮守が十村の氏神であり、その村々は村神郷であると書いています。
横戸が元来は印旛郡村神郷に含まれていたことを示しています。

平戸川筋にあるという、横戸の置かれた地勢から考えても、横戸が印旛郡村神郷に属していたと考えることは自然です。

横戸が村上村の鎮守を氏神にしているという精神的つながり、及び、元来は印旛郡村神郷に属していたという記述は、私の横戸地名由来仮説(平戸川を遡って来た海の民によって、横に拡がる台地が横戸と命名された)を強く補強します。

千葉県印旛郡誌(原は下総旧事考)による村神郷であった十村
注 村神郷の構成は、この十村以外にもあったと考えます。

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【余談】
昭和29年、犢橋村が千葉市に編入される際、横戸、柏井の住民は八千代町編入を望んで、八千代町に分割編入する運動を展開しました。(千葉市史 現代編)

横戸の住民から見ると、千葉市(中心市街地)より八千代町の方が、物理的距離はもとより心理的距離(帰属感)がはるかに近かったようです。

この心理的距離の近さの背景には、古代からのつながりが底流としてあったのかもしれません。

また、この心理的距離の近さの背景には、平戸川流域という地勢、印旛沼堀割普請による平戸川(新川)と花見川の連結があったものと考えます。
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つづく

2013年8月30日金曜日

「木戸」地名の強力な古代拠点示唆性(犢橋町の例)

花見川地峡の自然史と交通の記憶 68

犢橋町の小字「木戸下」の位置

犢橋町の小字「木戸下」付近の情報図
小字と遺跡の分布を検討した図です。

犢橋町の小字「木戸下」(谷津)は小字「子和清水」(台地)に隣接しています。小字「子和清水」には子和清水遺跡があります。

子和清水遺跡からは住居址や各種遺物が発見されていて、旧石器、縄文(前・中・後・晩)、弥生()、古墳()、平安の時代にわたっています。

子和清水遺跡の古墳時代出土物 供献用小型甕
2011.09.19記事「子和清水遺跡の出土物閲覧6」参照

子和清水遺跡は出土物から、古墳時代には子和清水の泉を祀る祭祀の場であった建物が存在していたと考えていました。

この度、小字子和清水のすぐ下の谷津谷底の小字名が「木戸下」と知り、子和清水遺跡は、古墳時代には祭祀の建物があるという認識だけではなく、その祭祀が行われる建物は支配のための重要な施設であり、柵に囲まれていたという、より濃いイメージを持つことができました。

犢橋川の谷底平野の水源である子和清水の泉がある場所に、祭祀と地域支配のための建物があったということです。

以上のように、地名「木戸」は古代建造物の存在を指し示すという指標性を備えた地名です。


つづく

2013年8月29日木曜日

「木戸」地名の強力な古代拠点示唆性(検見川町の例)

花見川地峡の自然史と交通の記憶 67

1 木戸地名の指標性
2013.08.27記事「「戸(と、ど)」地名検討の中間報告」で、「戸」がつく地名を同じ地名が多出する木戸、井戸、出戸、渡戸、橋戸、折戸とそれ以外の地名に分類しました。
木戸、井戸、出戸、渡戸、橋戸、折戸以外の戸地名は下総台地を海の民が最初に植民した時に付けられた地名、木戸、井戸、出戸、渡戸、橋戸、折戸は時代が下ってから農民によって付けられた地名であると見立てています。

さて、木戸、井戸、出戸、渡戸、橋戸、折戸のうち、木戸についてはその場所を地図にプロットする際に、古代社会の何らかの拠点と関係しているらしいことに気がつきました。木戸という地名は大変重要な指標性地名であるということです。

木戸という地名は「柵につくった門」が存在していたので、それが人々共通の関心の対象だったので、付けられた地名です。

ですから、木戸という地名は必ず、「人々が関心を持つ、門の付いた柵に囲われた施設」の存在を示します。

つまり、木戸という地名のある場所には何らかの施設=支配のための社会的拠点があったということです。

木戸という地名を見つけて、「ここらへんに垣根の木戸があったようです。」という地名解説をよく見ますが、きわめてもったいないことです。

木戸という地名を見つけたら、その優れた指標性に立脚して、何らかの歴史的施設を探してみることが大切だと思います。新発見ができる可能性が濃厚だと思います。

2 木戸地名の分布
千葉市と八千代市の「木戸」を含む地名を次のプロットしてみました。

千葉市と八千代市の木戸地名

各木戸地名の由来を詳しく調べて行くと、支配のための社会的拠点(施設)に関する情報が豊富になると思います。

3 木戸地名と古代拠点対応例 検見川町の例

検見川町の小字「木戸尻」の位置

検見川の地名「木戸尻」を地図にプロットした時、すぐそばに落合遺跡があり縄文丸木船や古代ハスが出土したことを思い出しました。そしてこの場所は弥生・古墳時代やそれ以降においても花見川唯一の河口港で軍事的にも東京湾方面からの攻撃を阻止する要衝です。ですから柵と木戸によって防衛した施設があったことは極自然だと考えました。

これが、私が、木戸尻という小字は古代の拠点(花見川河口軍港)と対応しているとと直感した瞬間です。

落合遺跡で見つかった縄文丸木舟
2011.08.09記事「縄文丸木舟と大賀ハス7」参照(関連記事多数)

実際に予察的に調べてみると、「木戸尻」という小字が軍事港湾や支配施設と関連することは直感できます。

検見川町「木戸尻」付近の情報図
小字及び遺跡分布を示す。

近くの小字と発掘遺跡に次のようなものがあります。
玄蕃所(小字、遺跡)、居寒(小字、遺跡)、玉造(小字)

玄蕃所とは律令制下治部省に属する玄蕃寮のことだと思います。捕虜等で支配下においた夷狄の管理を行っていたのかもしれません。
※玄蕃寮…律令制の官司で治部省に属する。和名類聚抄の<ほうしまらひと(法師客人)のつかさ>の訓のように、玄は僧、蕃は蕃客の意。京内の寺院・仏事、僧尼の掌握、外国施設の接待、鴻臚(こうろ)館の管理、在京の夷狄(蝦夷・隼人等)などを管掌した。(岩波日本史辞典)

玄蕃所遺跡からは旧石器、縄文(前)、古墳(後)、平安の遺構・遺物が見つかっています。

居寒(イサム)という地名の場所は東京湾を一望できる台地縁にあり、ここが古代においては東京湾方面からの攻撃を防衛するための望楼があった場所であると考えます。敵軍到来の際、勇(いさ)む場所であったのだと思います。「水戦で、貝を吹き鳴らす」(国語大辞典、小学館)場所だったのでしょう。

この地名が残っているということは、ここが軍港であったことを物語っています。
居寒台遺跡からは旧石器、古墳(中・後)、奈良・平安の時代を示す遺構・遺物が出土しています。

玉造という地名はそこで玉の細工等工芸工場があったことを示しているのだと思います。

このように「木戸尻」という一つの小字名から、この近くに古代の一大拠点が存在していることを導くことができました。

柵や木戸の実在はどうでもよいことです。

「木戸」地名が別の場所でもこのように古代拠点を指し示すか、別の例を見てみます。

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追記
この記事は「木戸」地名の指標性について例示したのですが、この古代の検見川河口軍事港湾自体は極めて興味深い場所です。

捕虜収容所?(玄蕃所?)まである河口軍事港湾ですから、その意義を良く調べれば、ここから杵隈、高津を経て香取の海に通じる東海道水運支路の意義もまた浮き彫りになると思います。

また、東海道水運支路が東京湾に出て品川方面へとつながることもイメージできます。

東海道の浮嶋駅家とこの軍事港湾との関係も気になります。浮嶋駅家は花見川対岸の馬加の洲(砂丘)上にあって、花見川を遡る港の本港はこの検見川にあったということなのでしょうか?それとも、この軍事港湾が即ち浮嶋駅家なのでしょうか

検見川河口軍事港湾について突っ込んで調べてみる日がくることを楽しみにしています。
(2013.08.30)
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つづく

2013年8月28日水曜日

地名「横戸」の由来と香取の海との関係

花見川地峡の自然史と交通の記憶 66

1 戸地名分布図を見て思い浮かんだ問題意識
2013.08.27記事「「戸(と、ど)」地名検討の中間報告」で紹介した戸地名分布図(木戸、井戸、出戸、渡戸、橋戸、折戸以外の戸地名分布図)の花見川地峡部分を見て、次のような問題意識が浮かびました。

戸地名分布図(木戸、井戸、出戸、渡戸、橋戸、折戸以外の戸地名分布図)を見て思い浮かんだ問題意識

横戸は香取の海からさかのぼってやってきた海の民によって植民された場所(地名)であると言っていいのかどうかという問題意識です。

この問題意識を出発点として次の検討をおこないました。

2 地名「横戸」の由来
2-1 既存資料の情報と批判
自分の仮説を述べる前に、既存資料による地名「横戸」の由来情報を整理し、誤った論に対して批判しておきます。
地名「横戸」に関しては既往の論が特殊性を帯びているので、これに対する批判なくして、自分の仮説を述べることが困難です。

●「千葉市の町名考」(和田茂右衛門、昭和45年、加曾利貝塚友の会)
町名の起原については詳らかでない。

●「千葉県地名大辞典」(「角川日本地名大辞典」編纂委員会、昭和59年、角川書店)
地名は、大宝令の余部(あまるべ)によるともいう(地理志料)。

角川の記述は、一見、日本地理志料(邨岡良弼、明治35年)の記述を単純に引用しているように見えます。しかし、この一文はその筆者が誤った先入観にもとづいて、無理なこじつけを思考して、その結果を日本地理志料という資料名でカムフラージュして原稿用紙を埋めたものです。日本地理志料の誤りを横戸でさらに増幅しています。専門家らしからぬ不透明かつ低次元のものです。

横戸に関する日本地理志料の見立てが誤りですから、角川のこの一文は誤りの2乗みたいなものです。

【日本地理志料の誤り】
日本地理資料では、千葉郡の郷として「余部」を作郷(!)しています。つまり邨岡良弼が「余部」という郷名を新たに創作しているのです。信じがたいことです。
「原無シ。今補ヘリ。図ヲ按ズルニ、山梨・三枝・山家之中間ニ、天戸村有リ。余・天、同訓」という説明です。
「天戸(アマド)村があるから、この付近は余部(アマルベ)という郷に違いない。」という単純な発想で、それ以上の根拠なく邨岡良弼がかってに余部郷をつくってしまったのです。郷の範囲も地図とにらめっこで作図したものと考えます。

日本地理志料(邨岡良弼)が創作した千葉郡余部の範囲
千葉県地名変遷総覧(千葉県立中央図書館編、昭和47年)附図「千葉県郷名分布図」による

印旛郡に余戸(アマルベ)郷があり、天辺(アマベ)という地名が遺称として残っていることから、それを念頭において類推した創作であると想像します。

※余部(アマルベ):律令制下、50戸をもって1里に編成した際の端数戸の呼称。僻地に置く特殊な里の一種ともいうが、令に明文はない。実例として、郷里制下の「出雲国風土記」の4郡に余部里がみえ、その一つは後に郷に昇格している。「和名抄」の郷名となり、現在の余部・余目などの地名に続く例も多い。(岩波日本史辞典)

日本地理志料のこの創作が、結果正しいと裏付ける情報は世の中にありませんから、この創作を誤りであると断じます。
ちなみに、「余部郷」の隣は「駅家茜津」となっていて、現在では「駅家茜津」は柏市付近に比定されていて、これも間違っています。

【角川日本地名大辞典の執筆者の誤り】
さて、日本地理志料には、横戸が余部郷に含まれることは書いてありますが、横戸に注目した記述はありません。
それにもかかわらず、執筆者は「地名は、大宝令の余部(あまるべ)によるともいう(地理志料)。」と書いています。
余部(アマルベ)と横戸(ヨコド)がどのように関連するのか普通の人は分からないので、不思議です。

執筆者は次のような思考をして、その思考を直接書かないで、「余部」という言葉を出して暗喩として専門家に情報を提供し、自分は日本地理志料の影に隠れたのだと思います。

執筆者の思考は次のようなものであると考えられます。

「余部(アマルベ)の余の字は「ヨ」とも読む。余部から転じて余戸(ヨコ)という言葉もある。従って横戸(ヨコド)も余部と同族であろう。」

特定の誤った先入観に強く囚われているために、強引にこじつけして、横戸を「余部」に結び付けようとしています。

邨岡良弼が特定の先入観に囚われて「余部」という地名を創作命名し、角川日本地名大辞典の執筆者はその創作地名「余部」に基づいて、特定の誤った先入観に基づく隠語解読をして、それを横戸に投影しています。

角川日本地名大辞典の記述は人心を惑わすたちの悪い誤りであり、全く参考になりません。

結局、地名「横戸」の由来はこれまでのところ、不明だということです。

2-2 地名「横戸」の由来(仮説)
横戸は横浜、横須賀などと同じ地名のでき方であると考えます。

海上のメインルートを進む船に視点を置いた時、横に拡がる特徴的な浜を横浜、横に拡がる特徴的な須賀(洲)を横須賀と云うように、横に拡がる特徴的な戸(海の民が植民した場所、2013.05.20記事「「戸」を構成する4つのイメージ」参照)を横戸と言ったものと考えます。

平戸川を遡ると、横戸付近で高津川と勝田川が合流します。その合流の様子は古代(印旛沼堀割普請以前)では下図のようになっていました。

古代における(印旛沼堀割普請以前における)高津川と勝田川の合流の様子

平戸川を下流から遡ってきた人は、この合流部付近にくると、正面に横戸の台地が横に長く拡がる様を一望します。

この地形的特徴が横戸という地名になったのだと思います。

平戸川を遡り、高津川と勝田川の合流部付近に来た時の眼前の風景

成田街道付近から南を見た風景です。
地形は現在の地形です。京成本線土手が邪魔しています。

正面に横戸の台地が横に広がります。

現在の風景
成田街道歩道橋上から撮影。

横戸の台地が眼前一杯にひろがります。この横に拡がる風景の特徴から、この土地が横戸と名付けられたのだと思います。

3 平戸川を遡る海の民の植民ルート
横戸という地名が平戸川から横戸方面を見て名付けられたという仮説に基づけば、銚子方面から香取の海に入った海の民は平戸川を遡り、横戸までその植民場所を広げたとイメージできます。
平戸から砂戸を経て横戸に到るルートをイメージできます。

戸地名仮説からイメージできる海の民の植民の方向

つづく