2014年12月31日水曜日

1年をふりかえる

2014年の1年間は、お陰様で充実したブログ活動を展開することができました。

趣味の地形分析や歴史考古分析を進めることができました。

幾つかの特に印象に残った事柄をメモしておきます。

1 地形分析を深めることができた
・花見川河川争奪をモデル化しました。
・また、印旛沼筋河川争奪仮説を提起しました。印旛沼筋河川争奪仮説を過去に述べたことのある人はいません。

2 考古歴史分析を進めることができた
・埋蔵文化財データを統計分析するなどして房総や香取の海周辺域を対象に考古歴史分析を進めることができました。
・古代交通についても、古代「東海道水運支路」(仮説)を深めることができました。
・旧石器時代狩猟について海外事例(Head-Smashed-In Buffalo Jamp)から好刺激を受けました。
・住所データからアドレスマッチングにより簡易的にGISプロットできるようになりました。

3 QGISチャレンジ
・大雪の日に予定が全部無くなり、いつかやりたいと思っていたQGISの活用チャレンジに踏み切り、それがきっかけで現在ではQGISを日常的に活用できるようになったことが印象的です。現在ではデータがエクセル-地図太郎PLUS-QGIS-Google earth等の間を行ったり来たりしています。以前では考えられなかったことです。
・ヒートマップ分析(カーネル密度推定)ができるようになりました。

4 5mメッシュ利用域の拡大
・5mメッシュ利用域を順次拡大してきて、現在では約5.4億メッシュを活用するようになりました。この結果、自分の視野が房総から関東地方全体に拡がりました。

5 10万ページビューと1000記事を通過
1月10日に通算10万ページビューを、5月27日に通算1000記事を通過することができました。

この1年の間の皆様のご支援、ご愛顧に心から感謝申し上げます。

ありがとうございました。

2015年を迎えると、このブログも開設4周年となります。(2011年1月15日にこのブログを開設)

2015年もよろしくお願い申し上げます。

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参考
●2014年上位アクセス記事

1位 2014.11.22記事「2014.11.22 今朝の花見川
2位 2014.04.04記事「花見川地峡が古代交通の要衝であったことに気がつく
3位 2014.06.11記事「花見川のブラックバス
4位 2014.02.17記事「QGIS活用チャレンジ
5位 2014.01.22記事「柏井橋架替工事
6位 2014.04.07記事「吉田東伍は花見川地峡を理解していた
7位 2014.04.08記事「縄文海進クライマックス期の海陸分布
8位 2014.01.06記事「印旛沼筋河川争奪仮説メモ
9位 2014.03.12記事「習志野市教育委員会編「ドイツ兵の見たニッポン」 紹介
10位 2014.03.11記事「高崎哲郎著「印旛沼掘割物語」 再紹介
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花見川の早朝風景

2014.12.31 今朝の花見川

空気が乳白色になっていて、霧というより靄(もや)という表現がぴったりの朝でした。

花見川の風景

いつもより風景が明るく感じました。

弁天橋から下流

弁天橋

弁天橋から上流

明日から2015年です。

2014年12月29日月曜日

高津馬牧(延喜式)の位置考察

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.37 高津馬牧(延喜式)の位置考察

この記事は2013.08.05記事「高津土塁から高津馬牧(延喜式)の位置を考察する」の転載です。

1 吉田東伍見立ての正確性が立証される
吉田東伍著「大日本地名辞書 坂東」の「高津」の項に「延喜式に、下総国高津馬牧とあるは、蓋此地とす。」と記述しています。「蓋此地とす」とは「多分この地であろう」という意味だと思います。

延喜式(927)の第28巻の兵部省の項で、諸国馬牛牧として下総国には高津馬牧、大結馬牧、本嶋馬牧、長洲馬牧、浮嶋牛牧の5牧が記述されています。
この記述から、高津馬牧が律令国家の軍事組織が直轄する馬牧であったことがわかります。

吉田東伍は高津という地名を手がかりに、延喜式に出で来る下総国高津馬牧を近世高津村付近に比定しました。

さて、高津土塁(砦)という軍事施設を発見して、その位置から高津土塁が守った地域(高津土塁構築により植民した地域)が高津川流域であることが明白となりました。

吉田東伍の延喜式記述に関する見立ての蓋然性は一層高まりました。

近世高津村の領域と高津土塁の位置関係

2 小金牧周辺野絵図をつかった高津牧領域の検討
次の図は小金牧周辺野絵図(17世紀中頃、千葉県公文書館所蔵)に河川名と内野名等を書き込んだものです。
牧付村が囲い込んだ内野が柿色で、野(外野)の部分が緑色で示されています。幕府の牧が設定されたのは近世初頭以来のことで、小金牧(この付近は小金牧の中の下野牧)の範囲はほぼ緑色(外野)の部分に相当します。

A案

幕府が設定する小金牧以前に既に開発されていた牧(内野)のうち、高津土塁付近の牧を高津馬牧と考えた案がA案です


B案

幕府が設定する小金牧以前に既に開発されていた牧(内野)のうち、高津内野という名称の牧を高津馬牧と考えた案がB案です。

A案とB案を比較すると、A案では柏井内野、大和田内野、萱田内野という太古からの交通路に面するものをふくんでいますが、B案では太古からの交通路に含まれない高津内野だけとなっています。
律令国家が高津土塁(軍事施設)を築いて新たに植民したのですから、その範囲は既存交通路に面した地域ではなく、既存交通路に面していない未開地が高津馬牧であると考えます。
律令国家兵部省が高津馬牧を開発した当時、柏井、大和田、萱田はすでに開発されていた(植民されていた)土地であったものと考えます。

従って、B案が高津馬牧の範囲を示すものとして合理的です。
B案は近世高津村の範囲とほぼ一致します。

結論として、高津馬牧はその地名の通り高津村領域であったと考えることが妥当です。

延喜式の高津馬牧という名称が17世紀中頃には高津内野や高津村として伝わり、現代でも大字高津としてしっかり土地に定着しています。地名の継続性に感嘆します。

千葉市立柏井小学校敷地は古代高津土塁遺構か

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.36 千葉市立柏井小学校敷地は古代高津土塁遺構か

1949年撮影米軍空中写真を実体視すると、現在の千葉市立柏井小学校敷地付近の地物が自然地形とは大きく異なり人工的な古代土塁の跡として見えてしまいます。

私がそのように見えてしまう現象を記録しておきます。

1949年撮影米軍空中写真実体視資料 現在の千葉市立柏井小学校付近

上記実体視資料から見えてしまう地物

見えてしまう地物から想像できる機能

高津土塁の現代地図投影

現在の千葉市立柏井小学校付近の様子(斜め写真)

砦施設と考えた築山は元来平坦であった芦太川河岸段丘の上に望楼(駅楼)としてつくられたものであると考えます。

千葉市立柏井小学校を建設する時、この築山を最初に削りました。

削った後にボーリング調査をしているのですが、そのボーリンデータの1つに、工事攪乱層以下の地層に造成土の可能性を指摘する記述があります。

つまり元来存在していた築山は造成されたものである可能性がこのデータから判ります。

築山は古代に砦の望楼あるいは駅家の駅楼として造成されたものだと考えます。

ボーリング位置図

ボーリング柱状図

造成土の可能性を指摘する記述

2014年12月28日日曜日

花見川区柏井町・横戸町境に存在した古代直線道路似の馬防土手

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.35 花見川区柏井町・横戸町境に存在した古代直線道路似の馬防土手

1 印旛沼堀割普請前の柏井内野の直線状境界線

17世紀中頃の柏井内野の境と現代柏井町と横戸町の境の対応

印旛沼堀割普請前の地形が判る17世紀中頃の小金牧周辺野絵図に柏井内野(柏井村が囲った内野)境が出ていて、東側の境が直線状になっています。

この絵図では花見川の谷頭が現在の柏井高校南側に描かれています。(これが印旛沼堀割普請前の自然地形です。)

この直線状の柏井内野境界は現代の柏井町と横戸町の境として伝承されてきています。
問題とする直線状の境の線分が他より太く(濃く)、当時既にこの場所に馬房土手が出来ていた可能性が高いと考えます。

2 明治期資料による馬防土手の確認

迅速図に表現された直線状土手
迅速図「千葉県下総国千葉郡大和田村」図幅部分(明治15年測量)

明治期測量迅速図には柏井内野境に馬防土手が描かれています。

3 1949年撮影米軍空中写真に写る馬防土手とその延長境界
戦時中の開墾が行われた場所以外の場所で空中写真実体視により馬防土手が観察できます。また印旛沼堀割普請後の地形上に馬房土手延長の大字界対応土地利用界を見ることが出来ます。

1949年撮影米軍空中写真に写る馬防土手とその延長境界1
花見川西岸

参考 1949年撮影米軍空中写真に写る馬防土手とその延長境界1(裸眼実体視資料)
花見川西岸

1949年撮影米軍空中写真に写る馬防土手とその延長境界2
花見川東岸

馬防土手のルートをよく観察すると地形を無視した直線性が優先しています。多少直線性を犠牲にすればより合理的なルートが可能ですが、あくまで直線性を優先しています。

4 直線状馬防土手の起終点が古墳であること

直線状馬防土手の起終点に存在する2つの古墳

直線状馬防土手の起終点に2つの古墳が使われています。

柏井村が自分の内野を取り囲むために、古墳と古墳を結んで直線を引いたという行為は考えにくいです。そこに既に古墳と古墳を結ぶ直線状地物があり、それが使われていないために、都合よく利用したと考えることの方が順当だと思います。

5 地籍図をみると直線状境界にクランクが存在している

昭和9年地籍図から見て取れる直線状境界のクランク
大字柏井と大字横戸の地番割図(近づけ図)
出典:「千葉県千葉郡犢橋村全図」(昭和9年7月、全国町村地番地図刊行会陽明社、全4枚)(情報提供:千葉市立郷土博物館)

昭和9年地籍図を分析すると、直線状境界にクランクがみられます。

馬防土手以前にこの場所に古代官道があり、それが使われなくなり、地元の馬防土手として使われるようになった頃、道路敷の早い者勝ちの取り合いがあり、それがクランクとして残存していると考えることができます。

6 小字名称の分析

小字「高台向」と小字「高台」
出典:「千葉市史 史料編 9 近世」収録小字分布図(横戸村、北柏井村、南柏井村の小字分布図を近づけて表示)

さて、高台の意味は素直に受け取ることができます。標高が高く、同時に谷津の最も高い部分(谷中分水界)近くの台地ですから二重に高台です。

高台向は、とても意識してつけた名称です。高津川が平戸川に合流する谷底平野を眺望する台地縁に存在するにもかかわらず、その谷底平野とは逆の台地奥の、それも印旛沼水系ではなく東京湾水系の谷津谷頭部の高台を見て、つけられた地名です。

更に、高台向ということは、主体が高台であって、高台向は従です。

私は、古代官道(仮説)の管理に係ったのが横戸の人々であることから、この地名が付けられたのだと思います。

例えば、律令国家中央から、官道(陸路部分)の管理担当は横戸,杵隈(カシワイ、船着場)の管理担当は柏井、高津(直轄港湾)の管理担当は高津などとの労役区分があったのだと思います。

横戸の人々が、古代官道(仮説)の管理役務をするとなると、視線(意識)は道路に向きます。その方向は高台です。ですから、自分たちの場所は高台向となります。

要するに、高台向という地名は古代官道(仮説)管理にその場所の人々が動員されたためにうまれたものであると思います。

7 直線状境界が古代官道起源と考えることの合理性
直線状境界が当時の花見川谷頭部を横断して花見川東岸まで延長していることは、柏井の船着場(杵隈駅駅家)から台地上に出るルートがここしかないことに対応しています。

柏井付近の地形

本来柏井から花見川東岸で台地上にでればより合理的なルートになると考えますが、柏井付近の花見川東岸は河岸段丘と台地の間に急崖が存在し、陸運に不都合です。
直線状境界が花見川谷頭部を横断して花見川東岸に出ていることは、この直線状境界(馬防土手)が古代官道起源と考えること支持します。

8 花見川区柏井町・横戸町境に存在した直線状馬防土手は古代直線道路と考える

花見川区柏井町・横戸町境に存在した直線状馬防土手は、1-7の情報及びそれが東京湾水系水運と香取の海水運を結ぶ船越に存在していることから、古代直線道路(古代官道)と考えます。

古代に東京湾水運と香取の海水運を結ぶ船越がここ在ったのですが、その後海面低下等の理由により花見川筋や平戸川筋の水運が困難になり、また陸運が発達して、この場所の船越が使われなくなったと考えます。

船越として使われなくなった直線道路は格好の内野囲い込みの馬防土手として利用されるようになったと考えます。

なお、直線道路と考える馬防土手の延長は約1.4㎞、幅は平均11.6mと推定できました。

2014年12月27日土曜日

花見川区柏井町に存在する古代交通施設似の地物

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.34 花見川区柏井町に存在する古代交通施設似の地物

花見川区柏井町に古代交通施設似の地物があります。

1軒の名門名主旧家の屋敷で、築地塀・空堀等を備え、台地斜面を利用して眺望や軍事的要素を備えています。

この名門旧家は近世印旛沼堀割普請で地元を代表する商人として活躍し、その後小金牧の牧士(もくし)も出しています。

この屋敷は天保期印旛沼堀割普請が始まる前にすでに存在していたことが、資料により確かめることができます。

2012.10.13記事「「天保13年試掘時の北柏井村堀割筋略図」の1万分の1地形図投影」の私領屋敷Aの対応参照

現在の地物の状況は次の通りです。

現在の屋敷敷地位置

現在の屋敷位置の3d表示

屋敷裏の空堀
屋敷裏に空堀を備えているということ自体が、いくら名門百姓といっても尋常ならざることです。

屋敷の台地側から見た花見川の様子(柏井橋工事前撮影)

現在の樹木を全部取り払って考えると、屋敷の台地側からはこの付近の眺望がとても優れ、花見川の河床(印旛沼堀割普請以前の自然地形としての河床)、支谷津を挟んで北側に広がる緩斜面状の河岸段丘が丸見えです。

この屋敷は軍事的備えをし(背後台地と空堀で仕切る)、駅楼機能(眺望機能)を有する古代駅家施設で、その意義が忘れられていて、かつほとんどそのまま残存しているのではないかと考えたくなります。

旧家屋敷が駅家であったと想像する考え

旧家屋敷の古代イメージ

近世になってから、いくら羽振りがよくても百姓にこのような屋敷をつくれる条件は無いと考えます。

それ以前からこの屋敷が在ったから、近世にお上からお咎めなしで存在できたのだと思います。

ですから、中世か古代にこの施設ができ、その意義が忘れられ、近世に至ったと考えます。

中世にこのような施設ができる可能性についての知識は残念ながら持ち合わせていませんが、中世になると陸上の道が発達するとともに、海面の低下により花見川のような小さな河川では水運の条件が劣悪化したと考えます。

ですから、水運と陸運をこの場所でつなぐ施設が中世になってからできたとは考えにくいと思います。

古代に、律令国家が成立した当初、全国に広幅員幹線直線道路を国家の権威を示すために建設した時に、その一環として、この場所に東海道水運支路の駅家が造られたと考えます。そう考える以外にこの築地で囲まれた台地付屋敷の起原を考えることは困難であると思います。

現存する旧家屋敷の外構が古代の駅家そのものであるとすると、それは驚くべき発見です。

古墳が現代まで残るように、築地という土木構造物が残ったのです。しかも、生活で使われながら残ったということは大変稀であると思います。

2014年12月26日金曜日

古語「杵(かし…舟の停泊杭)」を現代に伝える地名「柏井」

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.33 古語「杵(かし…舟の停泊杭)」を現代に伝える地名「柏井」

地名「柏井」が丁度東京湾水系を登り切った場所にあります。

現在の千葉市花見川区柏井町領域(近世柏井村の領域に近似)

この地名「柏井」は古代の用語「杵(かし…舟の停泊杭)」と「隈(わい…界隈・山隈などとして使われる、いりこんだところを指す)」が結びついて、舟の停泊杭が入り込んだところ、つまり船着場を表す古代の用語であると考えます。

「柏井(かしわい)」は「杵隈(かしわい)」だったのです。「柏井」の漢字はその意味が忘れられた後、付けられた当て字です。

古代の用語「杵(かし)」は世界大百科事典で次のように説明されています。

かし【河岸】 
江戸時代に河川や湖沼の沿岸にできた川船の湊。古代~中世には船をつなぐために水中に立てる杭・棹を〈かし〉といい,牫牱または杵と表記した。船に用意しておき,停泊地で水中に突き立てて用いた(《万葉集》1190)。古代には〈かし〉が一種の呪力を有しており,停泊地の海底に穴をあけて清水を噴出させたり(《肥前国風土記》杵島郡の地名説話),海の向こうから国引きしてきた土地を固め立てたり(《出雲国風土記》)したという〈かし〉立て説話がある。杖の有する同じような呪力は,杖が古代的土地占有のシンボルとして大地に立てられたことに起因するが,〈かし〉も,船に乗って海辺の土地を占定していく際のシンボルであった。中世の特権漁民として有名な賀茂社神人〘じにん〙は〈櫓〘ろ〙棹〘さお〙杵〘かし〙の通路の浜〉に対する漁場占有を主張したが,その際の〈杵〉にも同様の意味が込められている。また,〈海のかし立てを限る〉という中世荘園の境界・四至表示は,〈かし〉の届く水深の水域の領有を示している。以上のように〈かし〉はもと船具を意味したが,船着場に固定された舫杭〘もやいぐい〙も〈かし〉といわれ(〈建久7年造大輪田泊太政官符〉《東大寺文書》),そこから船の荷揚場を〈かし〉というようになったのである。〈かし〉を河岸と表記するようになったのは近世に属する。
『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ

古語「杵(かし)」から近世に「河岸(かし)」という言葉が生まれたのです。

地名「柏井」はこの場所が古代の船着場であったことを伝えています。

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参考 全国の柏井
国土地理院WEBサイトで全国を対象に地名「柏井」を検索すると次の7箇所の柏井が見つかります

全国の柏井地名

柏井…茨城県笠間市
柏井町…千葉県千葉市花見川区
柏井町…千葉県市川市
柏井町…愛知県春日井市
柏井町…愛知県尾張旭市
柏井…高知県高岡郡日高村

現在の市川市柏井町の領域(近世柏井村の領域に近似)

市川市柏井町は大柏川の上流部にあり、周辺に古代遺跡が多く、地名「柏井」が古代船着場に由来すると考えることが合理的です。

他の箇所の柏井も地図を拡大してみると、全て低地の谷津に面した場所にあり、古代船着場由来と考えることに合理性を欠くものはありません。

なお、地名「柏」(例 千葉県柏市など)も「河岸」という言葉が生まれる近世以前に付けられた地名であり、古語「杵(かし)」に由来するものが多いと考えます。

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花見川-平戸川船越の特殊地形と古代水運における有利性

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.32 花見川-平戸川船越の特殊地形と古代水運における有利性

1 花見川-平戸川船越の特殊地形
花見川-平戸川船越(※)は花見川河川争奪と呼ぶ河川争奪地形の場所に存在します。

※ このブログでは用語「船越(ふなこし)」を、異なる水域の水運網を結ぶ短区間陸路という意味で使っています。

従って通常の谷津地形と異なる特殊地形となっています。

イメージ的に花見川河川争奪の様子を示すと次のようになります。

イメージ的に示した花見川河川争奪の様子

花見川河川争奪の地学的検討は過去にこのブログで集中的に行ったことがありますので、興味のある方はブログ記事再掲サイト「花見川地峡史-メモ・仮説集-」を見てください。

そのサイトの「2.2 花見川河川争奪に遡る」で、花見川河川争奪検討記事を順番を追って読むことができます。

花見川河川争奪の結果、東京湾水系の深く幅の狭い谷津が周辺の谷津より北北東方向に2.0㎞ほど深く入ったのです。それが特殊地形です。

そのため、例えば縄文海進時の最大海面分布をみると、東京湾水系と香取の海水系の海面分布の下総における最短近接地形が生れたのです。

古代では、縄文海進時最大海面分布地域の水系は十分に水運可能であったと考えられますので、この特殊地形は人々によって船越として有効活用されたのです。

縄文海進の海面が花見川谷津深くまで、まるでフィヨルドのように分布した地質的証拠資料1

縄文海進の海面が花見川谷津深くまで、まるでフィヨルドのように分布した地質的証拠資料2


2 東京湾水系と香取の海水系を結ぶ3つの船越の比較
東京湾水系と香取の海水系の縄文海進最大海面(想定)を結ぶ直線距離を求めてみました。

東京湾水系と香取の海水系を結ぶ3つの船越の距離

浦賀水道方面と香取の海水系を結ぶ船越としては花見川-平戸川船越の有利性が一目瞭然です。

都川-鹿島川船越では陸路部分が長すぎます。

太日川-手賀沼船越ではコースが大回りになりすぎます。

3 感想
なお、これまで花見川河川争奪や舟運が花見川奥深くまで入っていたことはあまり注目されてきていませんでした。

その理由は、花見川筋が近世印旛沼堀割普請の土木工事で大規模に改変され、安易に地形復元が出来ないことと、印旛沼堀割普請が地域にあまりに大きな社会的・経済的影響を与えたため、地域における歴史が印旛沼堀割普請の時に全部リセットされてしまったからだと考えています。

2014年12月25日木曜日

玄蕃所遺跡発掘調査報告書を閲覧するまでの顛末

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.31 玄蕃所遺跡発掘調査報告書を閲覧するまでの顛末

玄蕃所という地名は古代に官施設(玄蕃寮の施設)があったことを暗示していますから、その場所の遺跡の発掘調査報告書は是非とも目を通しておきたくなります。

貴重な情報があるかもしれないと期待が膨らみます。

ただ、一筋縄でこの遺跡の発掘調査報告書を閲覧することが出来なかったので、あえて、ここにそれを閲覧するまでの顛末をメモしておきます。

1 ふさの国文化財ナビゲーションの記述情報

WEBサイト「ふさの国文化財ナビゲーション」(千葉県)で玄蕃所遺跡を検索すると次のような記述情報を得ることができます。

玄蕃所遺跡の記述情報
(ちなみに名称の読みが「ゲンバンショ」となっていますが、正確には「ゲンバショ」だと思います。)

文献として「抄H6、文247」が掲載されています。
残念ですが、このWEBサイト内ではこの文献名称を確かめることができません。

この文献名を確かめるために次の大判印刷図書が置いてある遠方の図書館に出向き、閲覧しました。

2 「千葉県埋蔵文化財分布地図(3)」の閲覧
「千葉県埋蔵文化財分布地図(3)-千葉市・市原市・長生地区(改訂版)-」(平成11年3月、千葉県教育委員会)で「抄H6、文247」を調べました。

「千葉県埋蔵文化財分布地図(3)-千葉市・市原市・長生地区(改訂版)-」(平成11年3月、千葉県教育委員会)の表紙

次の文献名称を特定できることができました。

抄H6…「埋蔵文化財(市内遺跡)報告書 平成6年度」
文247…「千葉市西唐沢遺跡 かずさアカデミアパーク代替用地埋蔵文化財調査報告書」

3 図書館での文献閲覧
早速それらの図書を置いてある別の図書館に出かけ、調べてみました。

「埋蔵文化財(市内遺跡)報告書 平成6年度」に玄蕃所遺跡の記述はありませんでした。前後の年次の同名報告書を見ましたが、このシリーズ報告書には記述がありません。

「千葉市西唐沢遺跡 かずさアカデミアパーク代替用地埋蔵文化財調査報告書」は玄蕃所遺跡と全く無関係の報告書です。

情報を全く得ることができませんでした。

ここまでの出来事は2013年8月のことです。

この時は別の興味が勝っていたので、玄蕃所遺跡報告書探しはこれであきらめました。

4 「千葉県埋蔵文化財分布地図(3)」の再度閲覧
最近になり、玄蕃所遺跡報告書を何としてでも閲覧したくなりました。関係機関に問い合わせることも考えましたが、ひょっとしたら玄蕃所遺跡報告書が文献リストのどこかに出ている可能性があることに気がつきました。

再度「千葉県埋蔵文化財分布地図(3)」を閲覧してみました。

(「千葉県埋蔵文化財分布地図(3)-千葉市・市原市・長生地区(改訂版)-」(平成11年3月、千葉県教育委員会)は図書館で館外帯出禁止となっています。しかし、日曜日の営業終了間際から火曜日の営業始業時までなら館外帯出できるという一般には広報されていない制度を利用して自宅に持ち帰り、自宅で必要な部分をスキャンしました。ですから、今では自分のパソコンでいつでも閲覧できます。)

関係すると思われる次の文献名称を探すことがでてきました。

「東京大学構内調査研究年報1」(東京大学埋蔵文化財調査室、平成8)

5 探した文献の図書館蔵書検索
「東京大学構内調査研究年報1」がどの図書館にあるか千葉県立図書館のWEBサイトにある千葉県内図書館横断検索を使って調べました。

この横断検索は県内図書館だけでなく、国会図書館や大学・類縁機関、国立情報学研究所などの図書・資料も横断的に検索できて、とても便利です。

しかし、うんともすんとも文献がヒットしません。

あきらめかけたのですがなにかの拍子に、この文献名称が間違っていることがわかりました。

正しい文献名称は「東京大学構内遺跡調査研究年報1」でした。「遺跡」が「千葉県埋蔵文化財分布地図(3)」のリストで抜けていたのです。

この文献は千葉県内図書館にはなく、国会図書館に蔵書されています。

早速、年末のあわただしい中で、国会図書館に出かける予定を考えはじめました。
生活時間上厳しい状況になります。あるいは当座文献閲覧をあきらめることも視野に浮かびます。

6 文献のpdf入手
最後に何気なく、WEB検索にこの文献名をいれて検索してみました。

そうしたところ、な・な…なんと、この文献がPDFで入手できたのです!

東京大学埋蔵文化財調査室というWEBサイトがあり、東京大学敷地内の埋蔵文化財調査報告書を紹介しているサイトで、この報告書全文がpdfで紹介されているのです。

「さすが東大」と思わず声が出てしまいました。

時間を大幅に節約することができました。

7 文献の閲覧
文献の内容そのものは期待していたようなことはありませんでした。

しかし、この文献を見たか、見てないかで自分の思考の自信の程度が大きく変わってきます。

1年半がかりで、いろいろなハードルを乗り越えて、やっとこの文献を見ることができてよかったと思います。

2014年12月24日水曜日

地名「検見川」は俘囚の検見(尋問)に由来する

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.30 地名「検見川」は俘囚尋問に由来する

2014.12.24記事「花見川河口津付近の遺跡と地名」で、花見川河口津に古代律令国家の治部省玄蕃寮の出先機関があった可能性がきわめて濃厚であることを述べました。

玄蕃寮は国内の夷狄(蝦夷・隼人等)の管掌を行っていたことから、花見川河口津に陸奥国から送られた蝦夷戦争俘囚の移送中継施設があり、それが小字名「玄蕃所」として現代にまで伝承してきていると考えました。

さて、小字名「玄蕃所」は近世「検見川村」に位置します。昭和初期検見川町の大字検見川にふくまれます。検見川は少なくとも中世から地名として存在しています(角川日本地名大辞典)。

近世検見川村の領域

この地名「検見川」の意味説明は、私はこれまで納得のいくものがありませんでした。

ところが、この検見川の地に玄蕃所という特殊施設(俘囚一時収容施設)があることに気がつくと、私は、一気に検見川の意味が脳裏に浮かびあがりました。

自分の感情レベルでは「検見川」語源を探り当てたと思うようになりました。

陸奥国から送られてきた俘囚は、玄蕃所で検見(「よく見て調べること」精選国語大辞典、小学館)されたのです。

俘囚は花見川河口津まで水運で運ばれてきて、玄蕃所で尋問され(検見され)、その思想性や健康状態などを検査され、隼人などのように精強な軍事組織に組み入れるグループ、貴族の使役奴隷に回すグループ、各地の地域開発の労働力奴隷として回すグループ、…などに分類されたのだと思います。

つまり、花見川河口津の「玄蕃所」における検見(けみ)で俘囚の運命が決まったのだと思います。

俘囚とはいえ、同じ人間の運命が、それも多人数の運命が「玄蕃所」で決まることは、恐らく近隣の人々に一種の心理的影響を与えたと考えます。

その心理的影響から、玄蕃所のある地域一帯の地名が「検見川」となったと考えます。

俘囚は遠く陸奥国から水運で運ばれ、印旛浦、花見川-平戸川船越、花見川を経由して花見川河口津に到着し、そこで検見され、運命が決まったのです。

運命が決った俘囚は花見川河口津から東京湾に船出し、西方各地に送られて新しい境遇人生が始まったのです。

花見川河口津付近の人々は、俘囚が水運で運ばれてくる花見川を、俘囚の運命が決ることに思いを深めて、検見川と呼んだのだとの思います。

検見川とは自然現象の川、風景としての川ではなく、俘囚が運ばれてきて、この地でその運命が決ってしまうという、その俘囚の運命に移動経路の川を重ねた一種の比喩語です。

アフリカ大陸を暗黒大陸などと比喩するのと同じ言葉使いです。

その比喩語検見川が地名となったのです。

その後玄蕃所がなくなって検見川の意味は全く忘れられてしまったのだと思います。

ただ地名は、恐ろしく愚直に現代まで伝承してきているのです。

花見川河口津付近の遺跡と地名

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.29 花見川河口津付近の遺跡と地名

1 花見川河口津付近の遺跡
花見川河口津付近の埋蔵文化財分布と主な遺跡の古代検出物を示します。

花見川河口津付近の埋蔵文化財分布

居寒台遺跡と直道遺跡だけで古代住居跡69軒、掘立柱建物40棟が検出されています。

単なる居住地域ではなく花見川河口津(直轄港湾)に関わる施設がここにあったと考えることが順当です。

2 花見川河口津付近の地名
次の図は昭和初期の大字検見川の小字分布図を示していて、私が注目する小字地名を抜書きしています。

昭和初期大字検見川の小字名

ア 玄蕃所(げんばしょ)
古代遺跡がある場所に玄蕃所という地名が残っているのですから、この玄蕃所は玄蕃寮の東国出先施設がここに在ったと考えることが順当です。

玄蕃寮は次のように説明されています。

げんばりょう 〔玄蕃寮〕
律令制の官司で治部省に属する。和名類聚抄の〈ほうしまらひと(法師客人)のつかさ〉の訓のように、玄は僧、蕃は蕃客の意。京内の寺院・仏事、僧尼の掌握、外国使節の接待、鴻臚館〘こうろかん〙の管理、在京の夷狄(蝦夷・隼人等)などを管掌した。玄は中国では道教を意味し、隋・唐では崇玄署という道士を監督する役所が設けられ、僧尼も合せて管轄した。日本には道士が存在しないので、玄で僧侶のみをさすことになったとみられる。僧尼・仏寺の管轄範囲は、令制では京内に限られていたが、延喜式制では畿内・諸国にまで及んでいる。
「岩波日本史辞典」(岩波書店)

地名「玄蕃所」の伝承は、玄蕃寮の東国出先で、陸奥国から送られてくる俘囚を国内各地に移送する中継施設としての玄蕃所が存在していた可能性を濃厚に物語ります。

同時に、花見川河口津に俘囚移送中継施設があったと考えると、花見川-平戸川船越が俘囚移送路であったことは確実であり、花見川-平戸川船越ルートが軍事的に重要な水運路であったことを物語ります。

イ 居寒台(いさむだい)
「いさむ(勇)」という言葉には「水戦で、貝を吹き鳴らす」(国語大辞典、小学館)という意味があります。
この場所が軍事的な場所であったことを示す地名です。

玄蕃寮が管理する外国使節の接待施設である鴻臚館は同時に軍事的な側面も持っていました。(「世界大百科事典」(平凡社)による)

ですから陸奥国から送られてきた俘囚を西方の各地に送り出す中継施設である玄蕃所も当然軍事的備えをしていたと考えられます。

地名「玄蕃所」と地名「居寒台」はセットの地名であり、居寒台遺跡、直道遺跡等の古代住居69軒、掘立柱建物40棟などは俘囚収容施設やその管理施設等であった可能性が濃厚です。

ウ 木戸尻(きどじり)
軍港があり、俘囚収容施設があれば当然それらの施設は柵で囲まれます。出入り口は柵に設置された特定の出入り口である「木戸」になります。
地名「木戸尻」は軍港・俘囚収容施設などの施設群の背後(陸側)にあった出入口の場所を指す地名であったと考えます。

下総台地の各地に「木戸」地名がありますが、ほとんどが官施設のあった場所の近くであり、古代拠点の存在を示唆する強力な指標地名です。

2014年12月23日火曜日

浮島駅付近古代地物の位置想定と地形

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.28 浮島駅付近古代地物の位置想定と地形

浮島駅付近古代地物の位置想定を地形条件と照らし合わせて検討します。

1 浮島駅付近の地形
浮島駅付近の埋蔵文化財分布図と地形段彩図をオーバーレイして表示し、埋蔵文化財と地形(低地と台地)との関係を一目でわかる様にしてみました。

埋蔵文化財分布図と地形段彩図

花見川河口付近では砂州の上に埋蔵文化財は分布していません。埋蔵文化財の分布は全て台地上です。

この付近の地形の様子を見るために、迅速2万図を見てみました。

花見川河口付近の迅速2万図

砂州の上に砂丘が発達して、それによって谷津が閉塞されている様子が、水田分布からよくわかります。

2 浮島付近の地形発達図を利用した古代地物位置検討

次の図は中野尊正著「日本の平野」(古今書院、昭和31年)に掲載されている検見川低地の地形発達図です。

中野尊正著「日本の平野」(古今書院、昭和31年)に掲載されている検見川低地の地形発達図

この図を利用して、浮島駅付近の古代地物について検討してみました。

検見川低地の地形発達(中野尊正著「日本の平野」(古今書院)から引用)による古代地物検討

・古代に存在した検見川低地の内湾が花見川河口津として利用され、その沿岸台地に軍事・行政施設が配置されていたと考えます。その施設が遺跡として検出されていると考えます。

・古代に初めてその広がりを表した浮島(砂丘を乗せた砂州)は広々とした草地空間であり、それを利用して浮島牛牧がつくられていたと考えます。周辺台地は細かく開析されていて、牧場をつくるにはふさわしい場所であったと考えられません。

・浮島駅家は浮島牛牧と隣接して浮島の上につくられていたと考えます。

浮島駅付近の3つの古代地物(花見川河口津、浮島牛牧、浮島駅家)の位置を地形条件と整合させて想定することができました。

2014年12月22日月曜日

「古代新規開発遺跡」密度図による古代想定地物の考察

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.27 「古代新規開発遺跡」密度図による古代想定地物の考察

2014.12.22記事「遺跡密度図(ヒートマップ)作成による古代想定地物の考察」で高津(直轄港湾)がそれ自体として独立した拠点ではなく、地域拠点「村神」(現在地名は村上)に属する港湾・軍事機能であることに気がついたことを述べました。

この気づきをより確かなものにすることを、データ分析でできると考え、次の作業を行って、新たな遺跡密度図を作成してみました。

新たな遺跡密度図とは、古代新規開発遺跡密度図です。
「古代」という文字と「新規」という文字が並ぶことは少ないので、意味が直感的にわかりにくいかもしれませんが、意味は次の通りです。

現在の作業では、「古代」とは古墳時代、奈良時代、平安時代を指しています。
この古代の遺跡分布図と密度図は既に作成しました。

この「古代」遺跡のうち、縄文時代遺物と弥生時代遺物が出土しない遺跡だけを抽出しました。この抽出遺跡は古代(古墳時代~平安時代)になって初めて開発されて成立した遺跡です。
ですから古代新規開発遺跡です。

古代新規開発遺跡が密に分布している地域は、古代になって新規に開発が進んだ場所です。古代に地域開発を進める主体は律令国家(及びそれ以前の国家)の統制下にある政治・行政・軍事・経済組織と考えて間違いありません。

つまり、「古代新規開発遺跡」密度図(ヒートマップ)は古代における国家統制下にある拠点の在りかを示している可能性が濃厚です。

「古代遺跡分布と密度図」と「古代新規開発遺跡分布と密度図」

平戸川(現在通称は新川)沿岸に古代遺跡の高密度地域が分布しているのですが、古代新規開発遺跡の高密度地域は村神(現在地名は村上)に集中します。

村神に律令国家の統制下にある組織(施設)が存在していて、この付近が地域レベルの拠点であったことが明白になりました。

花見川河口では古代遺跡分布密度の赤色地域と古代新規開発遺跡分布密度の赤色地域にあまり大きな変化はありません。つまり古代以前の遺跡分布はその拡がりや密度があまり顕著ではなかったことを示しています。

「古代遺跡密度図と想定地物」と「古代新規開発遺跡密度図と想定地物」

古代「東海道水運支路」(仮説)で想定している地物との関係を見ると、高津(直轄港湾)と村神との関係が古代遺跡密度図でみるより、古代新規開発遺跡密度図でみるほうがより直接的に理解できるようになりました。

高津馬牧の想定位置付近の遺跡密度が「古代遺跡密度図」より「古代新規開発遺跡密度図」の方が高くなるので、想定位置の確からしさが一段と高まりました。

また、花見川河口付近の河口津、駅家などを伴う開発が古代に新規に行われたことを確認できました。

これで、浮島駅家(花見川河口津)と高津(地域拠点村神)を結ぶ花見川-平戸川船越は、古代に新規開発されたインフラであることが明瞭になりました。

弥生時代や縄文時代にもこの花見川地峡は重要な交通路であったのですが、社会インフラとして施設整備された最初が古代であるということです。


遺跡密度図(ヒートマップ)作成による古代想定地物の考察

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.26 遺跡密度図(ヒートマップ)の作成と古代地物と関連

古代「東海道水運支路」(仮説)に関する暫定的な調査範囲の遺跡位置をドットでプロットしました。

古代遺跡分布図(ドット図)

このドット図からカーネル密度推定(半径パラメータ2000m)により密度図(ヒートマップ)を作成しました。

古代遺跡密度図(ヒートマップ)

この古代遺跡密度図に古代「東海道水運支路」(仮説)関連の想定地物をプロットすると、私にとっては新しいイメージが生れました。

古代遺跡密度図(ヒートマップ)と古代想定地物

これまで高津(直轄港湾)は、それ自身が砦であり、無意識的に地域の拠点であると考えていました。他の遺跡との関連に思いするということはありませんでした。

しかし、高津の場合、近くに村神(現在地名は村上)を中心とする遺跡密集地があり、つまり古代に開発がすすんでいた拠点的な地域があります。

平戸川(現在通称は新川)の両岸に広がる赤色地域(開発地域)が政治・経済等の拠点地域(現代風に言えば密集市街地みたいな高密度地域)であり、高津はその地域の交通・軍事機能を担う港湾施設であると考えることがふさわしいと、初めて気づきさせられます。

結果、村神を中心とする平戸川両岸の開発地域(赤色地域)と高津、高津馬牧の地理的位置関係を整合的にイメージすることができるようになりました。心理的に「わかった」という感情が生れました。(だからといってこの考察が正しいと証明されたことにはなりませんが、自分自身が「わかった」感情を持てれば、思考作業の加速ができます。)

ヒートマップを作ってみて、高津の役割イメージを、より的確な方向で更新することができました。

この検討から、花見川河口津付近は赤色地域は限られていますが、花見川河口津と対岸の武石遺跡付近の遺跡群との関係について、今後考察することが課題として浮かび上がりました。

参考

参考 「古代遺跡密度図(ヒートマップ)と古代想定地物」のGoogle earth表示