2014年8月31日日曜日

アドレスマッチング遺跡プロット図の精度

シリーズ 花見川地峡の利用・開発史
第1部 縄文弥生時代の交通 その23

2014.08.30記事「アドレスマッチングによる遺跡プロット図作成」で紹介したプロット図は千葉県北部という広域を示しているので、遺跡分布の特徴が判ります。

しかし、アドレスマッピングの精度には限界がありますので、その精度限界を確認しておきます。

次の図は双子塚遺跡(双子塚古墳)を中心とする約10km2の範囲の実際の遺跡分布図です。

ふさの国文化財ナビゲーションによる遺跡分布図

この範囲の遺跡名住所リストcsvファイルを東京大学csvアドレスマッチングサービスに送ると瞬時に経度、緯度を書きこんだcsvファイルが返送されてきます。
その返送されてきた、マッチング情報が書きこまれたファイルの一部を示します。

当初情報にマッチング情報が書き込まれたcsvファイル(エクセル表示)

23の遺跡情報が町丁目毎に重複した位置情報に変換され、遺跡は23ありますが、位置情報は7つに減少しています。

このcsvファイルをGISに取り込むと次のようなプロット図になります。

アドレスマッチングで生成した位置情報
GISには23の情報がプロットされたが、位置が重複するものが多いので、見かけ上赤丸は7つになる。

当初情報とアドレスマッチング後の情報の関連を図に示すと次のようになります。

当初情報とアドレスマッチング後の情報の関連

この例では見かけ上プロット数が23→7に減少しました。また当初情報とアドレスマッチング後の位置の変化は最大約1.5㎞、平均して600m~700mくらいあります。

アドレスマッチングの遺跡ブロット図とは、「遺跡が存在する町丁目(大字)の中央付近の経度、緯度をプロットしている図」と言い換えて間違いはありません。

アドレスマッピングしたファイルをGISにプロットすると、当初情報が全部プロットされますが、見かけ上は同じ町丁目(大字)に1の遺跡がある場合でも、多数(20でも、30でも)ある場合でも1ドットとして表現されてしまいます。

一般論から云えば、なんらかの手作業により、遺跡プロット図をつくろうとする時、このような精度では到底満足できないことは言うまでもありません。

しかし一方、次のような期待も膨らみます。

●アドレスマッチング遺跡プロット図を試作して膨らむ期待

ア 市町村別遺跡密度図から新たな情報を読み取ることができたように、精度限界があるにもかかわらず、アドレスマッチング遺跡プロット図からも新たな情報を読み取るができると思います。恐らく、アドレスマッチング遺跡プロット図の方が市町村別遺跡密度図より、より多くの情報を得られそうです。

イ 真性遺跡プロット図(ふさの国ナビゲーションとほぼ同じ精度の遺跡プロット図)をGIS上でつくろうとする際の前処理情報として有益活用できそうです。(GIS画面上で赤丸をマウスでつまんで少し移動させれば、それが遺跡の正しい位置となります。)

ウ アやイなどに利用する場合、アドレスマッチングによるプロットはたとえ19905の情報でも手間と時間は殆どゼロです。機械が作業を瞬時にしてくれます。

ア、イ、ウは大きな魅力です。

次の記事から、時代別や種別(古墳、貝塚…)にアドレスマッチング遺跡プロット図を作成して、市町村別遺跡密度図の検討を補完したいと思います。

……………………………………………………………………
参考 GISソフト「地図太郎PLUS」によるアドレスマッチングの方法

1 「ふさの国ナビゲーション」(千葉県教育委員会)からダウンロードしたデータの調整
エクセルで表示した時、住所欄に情報が間違いなく記入されているCSV(カンマ区切り)ファイルをつくる。
住所欄に複数の住所がある場合、代表する1住所にする。(複数住所掲載の場合、最初に記載された住所を代表住所と考えるならば、住所欄を操作しなくてもよい。「他」「ほか」等の記述も削除する必要はない。)
住所以外の他の項目欄を含んでいてもよいが、項目欄が多数になると、結果が当初項目の欄に上書きされることがある。

2 地図太郎PLUSで「WEBサイト」→「背景地図や各種データのダウンロード」→「東京大学CSVアドレスマッチングサービス」に進む。

3 地図太郎とは別にWEB画面「東京大学CSVアドレスマッチングサービス」が表示される。その画面で、サービスに送るCSV(カンマ区切り)ファイルの何番目のカラムが住所欄であるか記入した上で、送信ファイルの場所を指定して、ファイルを送る。

4 直ちにファイルが返ってくるので、保存する。(返ってくるファイル名が例えば「スサス・菎オ・ニ・ケ・ネ.csv」のように文字化けのような名称になっているが、それで正常である。)

5 地図太郎PLUSで「ファイル」→「他形式を編集ファイルに読み込み」→「CSVファイル(経緯度座標系」→csvファイルがあるフォルダーを選択する→csvファイルを指定する。
CSVファイルのインポート画面が出るので地図太郎の項目一覧(左)にある遺跡名、経度、緯度等に、CSVデータの項目一覧から当該項目を設定ボタンでマッチさせる。(ちなみに、緯度はfYと経度はfXとマッチさせる。)
OKボタンをクリックするとプロット図の記号や色を設定する画面になるので、必要な設定をする。プロット図が表示される。

2014年8月30日土曜日

アドレスマッチングによる遺跡プロット図作成

シリーズ 花見川地峡の利用・開発史
第1部 縄文弥生時代の交通 その22

アドレスマッチングによる遺跡プロット図の試作図ができましたので、一報として報告します。

「ふさの国文化財ナビゲーション」(千葉県教育委員会)からダウンロードした千葉県埋蔵文化財リスト(CSVファイル、19905箇所)の全体について、その住所情報を東京大学CSVアドレスマッチングサービスを利用して経緯度情報に変換し、GISにプロットしました。

アドレスマッチングによる千葉県埋蔵文化財プロット図
縮尺が小さすぎて、記号(赤丸)が重なってしまうので分布の特徴は判りません。しかし、アドレスマッチングによるプロットが初めて出来て、感激です。

千葉県北部の一部を拡大して表示すると次のような図になります。

アドレスマッチングによる千葉県埋蔵文化財プロット図
基図は現在の水系網図

この図でも遺跡が密集するところでは記号が重なってしまっています。

一目見ただけで、市町村別遺跡密度から得られた情報より、各段に地域特性を知ることができる分布図であることが直感できます。
東京湾岸-太日川(江戸川)沿岸-利根川と手賀沼に挟まれた地域-栄町など、あるいは佐倉市や成田市の中心市街地付近にドットの密集するところがあります。

この図の基図を地形段彩図に替えてみると次のような図になります。

アドレスマッチングによる千葉県埋蔵文化財プロット図
基図は地形段彩図

地形(谷津)との関係がリアルに浮かび上がってきます。

ここに示した図は全遺跡情報ですが、時代別、種別(古墳、貝塚・・・)に作成することもできます。

アドレスマッチングの方法、問題点、活用方法等について次の記事から検討して、現在の本題(第1部 縄文弥生時代の交通)に役立てていきます。

2014年8月29日金曜日

駅路ルートと遺跡密度

シリーズ 花見川地峡の利用・開発史
第1部 縄文弥生時代の交通 その21

「千葉県の歴史 通史編 古代2」(平成13年、千葉県発行)に「古代の交通路」という章があり、興味深い情報が掲載されていますので、その情報と遺跡密度図との関係を考察してみました。

1 駅路の変遷
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(平成13年、千葉県発行)には駅路(えきろ)図が時代別に3枚掲載されていますのでその紹介と感想を述べます。
なお、駅路網については、類似の情報を題材に2013.06.29記事「紹介 東国駅路網の変遷過程」等の検討を過去に行っています。

「千葉県の歴史 通史編 古代2」(平成13年、千葉県発行)掲載駅路網図
塗色しました。

駅路網を3期にわけ、変遷が分かりやすく理解できます。

Ⅰ期は古墳時代末期(飛鳥時代)から奈良時代の後期までの時期の駅路網です。
東海道の本路線は三浦半島から海路浦賀水道を渡り、東京湾岸を陸路ですすみ、千葉市付近から成田市付近を通り当時の香取の海にでて対岸に渡り常陸国に入ります。
このルートは律令国家が駅路を整備するはるか以前から使われてきたものです。
支路がネットワーク状につながっています。

Ⅱ期は奈良時代末期から平安時代始期のころの駅路網です。
浦賀水道を通るルートが廃止され、本路線は西から陸路井上駅(下総国府近く、市川市)に到達し、そこから東京湾岸を東に進み、河曲駅(千葉市)からⅠ期と同じルートを北に進みます。

Ⅲ期は平安時代以降の駅路網です。
本路線は井上駅から手賀沼付近を通りそこから香取の海を渡っています。印旛浦付近を避けるルートとなっています。

Ⅰ期、Ⅱ期において東海道本路線が香取の海の中央付近に出るルートであり、Ⅲ期になるとルートがより合理的になり東国と都を結ぶようになります。(ルートが短縮されます。)

この理由について、「千葉県の歴史 通史編 古代2」(平成13年、千葉県発行)では征夷(蝦夷征夷)と弓削道鏡のかかわりの2点から説明しています。大変興味深い説明です。
この中で、Ⅰ、Ⅱ期の時代では香取の海沿岸が征夷の出撃拠点、兵站基地として重要な時期であったということと、Ⅱ期では道鏡政権が人脈上武蔵国と上総国を重視していたということを詳しく説明してます。

駅路ルートの変遷理由はとても詳しく、かつわかりやすく書いてあります。

2 浮島駅の場所
さて、駅家(えきか)の推定位置一覧表があるのですが、浮島駅がこの書では習志野市津田沼・鷺沼付近となっています。

吉田東伍は幕張町付近(花見川河口)と推定して、このブログでも吉田東伍の推定が合理的であると判断して、思考を組み立てきています。(2014.04.04記事「花見川地峡が古代交通の要衝であったことに気がつく」など多数)

浮島駅の推定が吉田東伍の推定と異なる理由については説明されていません。この書における浮島駅の場所推定根拠を詳しく知りたいと思いました。

縄文時代以来使われてきた花見川地峡(花見川-平戸川[印旛浦])の交通を考えた時、浮島駅が花見川河口を外して、その近くの津田沼付近につくられた合理的理由を考えることは困難です。

3 河曲駅から荒海駅までのルート
河曲駅から荒海駅までの陸路ルートの地図上での概略位置を知りたくなりました。またそのルートと都川-鹿島川水運ルートとの関係も知りたくなりました。
今後調べたいと思います。

4 駅路網図と遺跡密度図のオーバーレイ
駅路網図と遺跡密度図をオーバーレイして並べてみました。
Ⅰ期駅路網図は古墳時代遺跡密度図と奈良時代遺跡密度図の2つにオーバーレイしています。
Ⅱ期駅路網図は奈良時代遺跡密度図とオーバーレイしています。
Ⅲ期駅路網図は平安時代遺跡密度図とオーバーレイしています。

駅路網図と遺跡密度図のオーバーレイ図

「古墳時代・1期ルート」図は東海道本路線が上総と下総の高密度地域をつないでいるように見えます。
しかし、「平安時代・Ⅲ期ルート」図をみると、下総の高密度地域の分布と東海道本路線ルートの位置とは関係が無くなっています。

こうした関係から、次のような思考が生れました。

・古代の駅路網の最高機能は中央集権国家の情報伝達であり、駅路網を使って中央による地方支配をより強固にしようとしたと考える。

・当初の駅路網は当時の現実幹線道路・水運網を基本に設置されたが、時代とともに陸路を中心にして合理的短縮、単純化の方向に向かった。

・一方、変遷する駅路網(律令国家が運営した本路線、支路線)ではあるが、それを主軸にして地域物流を担う陸運・水運網も時代とともに展開発達したはずである。

・その地域の陸運・水運網が明らかになれば、地域開発の様子がより鮮明に見えるにちがいない。

花見川地峡の交通について、このような視点から取り組みたいと考えました。

2014年8月28日木曜日

奈良、平安時代遺跡密度について考える

シリーズ 花見川地峡の利用・開発史
第1部 縄文弥生時代の交通 その20

奈良時代遺跡密度と平安時代遺跡密度を一緒にして、考察しました。

平安時代遺跡密度の作成については考察の次に記述しました。

1 奈良時代遺跡密度、平安時代遺跡密度の考察
次に、古墳時代遺跡密度、奈良時代遺跡密度、平安時代遺跡密度を並べて見ました。
この図から、奈良時代と平安時代の特徴を一緒に考察します。

古墳時代遺跡密度、奈良時代遺跡密度、平安時代遺跡密度比較図

次のような特徴を読み取れます。
ア 上総の高密度地域(赤領域、黄領域)が奈良時代、平安時代と順に縮小しています。(上総地域遺跡密度の相対的ランクが劇的に下がったということです。)

イ 下総地域の高密度地域が古墳時代から奈良時代、平安時代になるとその領域を拡大しています。
特に九十九里浜地域が平均以上地域(黄領域)になっています。これは古墳時代までの未利用地が干拓や開墾され、農業地帯になったことによります。

ウ 市川、流山、我孫子が古墳時代から奈良時代、平安時代になると高密度地域(赤領域、黄領域)に変化していますが、これは国府の設置(市川)や官道(東海道)の設置(市川、流山、我孫子)と関わりがあるものと考えます。

上記特徴のアとイから次のような地域比較イメージをもちました。
●古墳~平安遺跡密度図を並べて得た地域比較イメージ
ア 上総と下総を比較すると、古墳時代の歴史の濃さは同じくらいかあるいは上総の方が濃いように見えます。言い換えると、遺跡密度からみると上総と下総は、国力が同じかあるいは上総の方が大きいように見えます。(遺跡の数は集落跡関係が多くを占めるので、遺跡密度が高いことは人口密度が高いことと同じで、それは農業生産量が多いことを意味すると考えます。)

イ ところが、奈良時代、平安時代と時代が進むに従って、歴史の濃さは下総の方が圧倒的に濃くなります。言い換えると、遺跡密度からみると、下総のほうが圧倒的に国力が大きくなったように見えます。

以上のような地域比較イメージを念頭に、千葉県公式歴史書である「千葉県の歴史 通史編 古代2」(平成13年、千葉県発行)を読んだのですが、このような地域比較イメージに関わる記述にであうことができませんでした。
様々な項目で古墳時代後期ごろから平安時代までの間の上総、下総、安房の比較がなされているのですが、密度イメージ図に出てくるような劇的変化に対応するような記述を見つけることができません。

遺跡密度図から受ける私の印象がどこかで間違っているのか、あるいは歴史専門家が地域比較という基本的考察を行っていない(興味を持っていない)のか、とても気になります。

なお、次のような記述が「千葉県の歴史 通史編 古代2」(平成13年、千葉県発行)にでてきます。
「千葉県内の奈良・平安時代の遺跡のうち、これまで発掘調査された遺跡は700か所を超えており、その大半は、竪穴住居などが見つかっている集落遺跡である。ほとんどが開発事業にともなった発掘調査であるため、調査事例は開発事業の多い下総地域や上総地域の北半分にかたよっている。」

筆者がこの文章で、「これまでの発掘調査が主に下総地域や上総地域の北半分で行われた」という事実だけを言いたいのならば、その通りなのだとおもいます。

しかし、筆者が言外に「下総地域や上総地域の北半分は開発事業が多いから遺跡がかたよって分布している。」と考えているとしたら、間違いではないでしょうか。

それは、古墳時代遺跡密度図をみていただければわかると思います。開発事業が多い下総地域や上総地域の北半分にだけ遺跡が偏在しているわけではありません。むしろ開発事業の少ない地域の方が遺跡密度が濃いように見えます。

専門家の方は「開発事業が多い場所は遺跡が沢山見つかり、そうでない場所は遺跡が少ない」というストーリーを信奉しすぎてしまった結果、すでに浮かび上がっている地域特性を見ようとしない(興味を持とうとしない)といったら言い過ぎでしょうか?

……………………………………………………………………
追記 2014.08.29
次のような仮説を考えました。

・古墳時代の土木技術レベル、人力組織動員レベルで開発できる条件の土地(谷津や条件の特別良い中小河川沖積地)の主要な場所は、下総では印旛浦など、上総では養老川、小櫃川、小糸川流域などであった。古墳時代にはそれらの場所が開発された。

・奈良、平安時代になり土木技術レベル、人力組織動員レベルが向上すると、これまで開発できなかった条件の厳しい土地を新たに開発できるようになった。

・その新たに開発可能となった土地が下総の香取の海沿岸(印旛浦を含む各地)、太平洋岸(椿海、九十九里浜)にはたくさんあり、土地開発を進めることができた。

・一方、上総の東京湾岸(養老川、小櫃川、小糸川流域)、太平洋岸(九十九里浜、夷隅川流域)には新たに開発できる土地が少なく、土地開発が行われた地域は限定された。

要するに遺跡密度図の変化は、社会の変化により土地条件に起因する土地開発活動の違いが発生し、それが顕著に表現されていると考えました。
……………………………………………………………………

2 平安時代遺跡密度図の作成
千葉県全体の埋蔵文化財(平安時代)箇所数は5017箇所で、全埋蔵文化財箇所数19905の約25.2%にあたります。

箇所数が多い自治体は千葉市453、成田市368、香取市339、市原市310、佐倉市232、山武市222、印西市207、旭市204などとなっています。箇所数が少ない自治体は浦安市0、習志野市2、勝浦市7、九十九里町7などとなっています。

埋蔵文化財(平安時代)5017箇所を千葉県面積5156.62km2で割ると平均埋蔵文化財(平安時代)密度9.7箇所/10km2が算出されます。

そこで密度情報を単純化してわかりやすくするために、平均値の値とその倍数を使って、次のような分級をして分布図を作成しました。

●埋蔵文化財(平安時代)密度の分級
分級A 19.4~ 箇所/10km2
分級B 9.7~19.3 箇所/10km2
分級C ~9.6 箇所/10km2

なお、千葉市の情報は区別に示しています。

平安時代遺跡密度図

次の記事で駅路ルートと遺跡密度図との関係を考えます。

2014年8月27日水曜日

奈良時代遺跡密度データを補正する

シリーズ 花見川地峡の利用・開発史
第1部 縄文弥生時代の交通 その19

1 奈良時代遺跡密度図の異常に気がつく
これまで「ふさの国文化財ナビゲーション」(千葉県教育委員会)から遺跡統計データをダウンロードして旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代の市町村別遺跡密度図を作成して考察してきました。

ダウンロードしたデータ(CSVファイル)の情報内容には全く手を加えていません。エクセルでカウントできるようにするため書式上の不備について若干の調整をしただけです。

これまでは順調でした。

奈良時代遺跡密度図もこれまでと同じ方法で作成しました。

作成した図を見て、素人ながら異常であることに気がつきました。

奈良時代の「歴史の濃さ」の特徴が浮かび上がってきません。

異常に感じるのは、佐倉市が最低ランク(平均以下)になっているからかもしれません。
これまでの全時代で佐倉市は最高ランク(平均の倍以上)でした。
印旛沼南岸が千葉県原始・古代の突出したキーエリアであることは間違いありません。

ダウンロードデータで作成した密度図

この異常密度図を見て、古墳時代までとはちがって、奈良時代以降になると次のような現象があるのではないかと密かに検討しました。

●異常密度図の密かなる検討
「奈良時代以降になると、人の生活活動空間が現代のそれと重なる率がきわめて高くなる。従って当時の生活痕跡がその時代から現代に至る間にほとんど上書きされてしまい残らない。そのため、残った遺跡の密度をみても当時の生活活動の濃さの特徴は表現されない。」

要するに奈良時代以降の遺跡密度は「歴史の濃さ」を知るツールにはならないかもしれないと考えました。

平安時代遺跡密度をつくると、その考えでよいかどうか判断できる可能性があります。

奈良時代の検討はさておいて、平安時代遺跡密度図を早速つくってみました。

異常奈良時代密度図を各時代密度図と一緒に並べると次のようになりました。

異常奈良時代密度図を各時代密度図と一緒に並べた図

この比較図をみて、古墳時代まではもとより、平安時代遺跡密度図からも当時の人の活動との関連が大変良く読み取れることがわかりました。

奈良時代だけ異常です。奈良時代以降は密度図の意味が変化するというような苦し紛れの発想は棄却されました。

元データに異常があることがはっきりしました。

2 データ異常の原因
「ふさの国文化財ナビゲーション」(千葉県教育委員会)における時代区分は次のようになっています。

・時代別…旧石器、縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代、古代、鎌倉時代、室町時代、安土桃山時代、中世、江戸時代、明治時代、大正時代、昭和時代、近代

このブログでは今、次の時代を考察しています。
・時代別…旧石器、縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代、古代

この時代区分のうち、飛鳥時代はデータ数が6件だけで、ほとんど利用されておらず、また全て古墳時代あるいは奈良時代とも重複しているので、検討対象から外しました。

古代についてはデータ数が約2500と多いのですが、全て古墳時代、奈良時代、平安時代の全てあるいは1つか2つと重複していますので、特段扱う必要はないと考えていました。
たとえば、「古代(古墳[後期]、奈良、平安)」という記述になっていて、「古代」だけの時代表記は全くありません。

「古代(古墳[後期]、奈良、平安)」と記載されたデータは古墳、奈良、平安の各検索データにも重複して収録されます。

しかし、不審な佐倉市の古代データを見ると、「古代(古墳、平安)」とか「古代(古墳[後期]、平安)」という時代表記データが100件以上あることが判りました。

古墳時代の遺物、平安時代の遺物が見つかったからこのように記述されたのだと思います。
おそらくこの時代記述方法がデータ異常の原因であると直感しました。

「古墳、平安」と言い切るのではなく、「古代(古墳、平安)」と記述したということは、その頃というあいまいな情報であることを示そうとしているのだと思います。

「古代(古墳、平安)」と書いた人は、古墳時代から平安時代にあった遺跡だと表現したいのだと思います。

もし、「古墳時代にあった生活活動が奈良時代には一旦廃絶して、平安時代になると再興した」ということを表現しようするなら、古代などあいまいな言葉をつかわないで、「古墳、平安」と言い切ればよいだけです。

つまり、紙ベースのデータで「古代(古墳、平安)」と記述し、奈良時代も当然含むとの背景を有する情報が、電子化して検索すると、データの背景とか余韻がなくなり、字義通りの結果になってしまうということが、データ異常の原因であると考えました。

奈良時代とは西暦710年~794年の85年間を指します。
この85年間の時代を特定できる遺物は無いけれど、古墳時代と平安時代の遺物が出る遺跡は沢山あります。

そのような遺跡の時代表記を多くの自治体では「古墳、奈良、平安」と表記している場合が多いようです。
一方佐倉市、酒々井町、柏市、流山市などでは「古代(古墳、平安)」と表記する場合が多いようです。

このような時代表記の混乱がデータ異常の原因らしいとわかりました。

なお、もし、厳密に奈良時代85年間であることを特定できる遺物が出土したものだけを奈良時代遺跡とすると定義して、それが厳格に運用されれば、データ数は少なくなりますが、密度データとしては使えるものになると思います。

3 データ補正
データ異常の原因が大体わかりましたので、次のような手順でデータ補正をしました。

ア 「古代(古墳、平安)」遺跡数カウント
古代検索データから「古代(古墳、平安)」関連データを抽出して市町村別にカウントする。

イ ダウンロード奈良時代遺跡数カウント
ダウンロードした奈良時代検索データから遺跡数を市町村別にカウントする。

ウ ア+イによる補正データの作成
アのデータとイのデータを市町村別にプラスしてその結果を奈良時代遺跡数の補正データとする。

4 奈良時代遺跡密度図の補正
上記補正データによりいつもと同じ手順で奈良時代遺跡密度図(補正図)を作成しました。

千葉県全体の埋蔵文化財(奈良時代)箇所数は3983箇所で、全埋蔵文化財箇所数19905の約20.0%にあたります。
箇所数が多い自治体は成田市314、市原市308、香取市293、旭市206、山武市192、印西市179、千葉市179、南房総市175、佐倉市161などとなっています。箇所数が少ない自治体は浦安市0、九十九里町2、一宮町2、習志野市3、勝浦市8などとなっています。

埋蔵文化財(奈良時代)3983箇所を千葉県面積5156.62km2で割ると平均埋蔵文化財(奈良時代)密度7.7箇所/10km2が算出されます。

そこで密度情報を単純化してわかりやすくするために、平均値の値とその倍数を使って、次のような分級をして分布図を作成しました。

●埋蔵文化財(奈良時代)密度の分級
分級A 15.4~ 箇所/10km2
分級B 7.7~15.3 箇所/10km2
分級C ~7.6 箇所/10km2

なお、千葉市の情報は区別に示しています。

奈良時代遺跡密度図(補正図)

他の時代密度図と並べて表示すると次のようになり、異常さを除去して補正が適切に行われたことがわかります。

各時代の遺跡密度図を並べて表示する

密度図の内容の検討は次記事で行います。

2014年8月26日火曜日

コラム 海の道「東海道」 紹介

シリーズ 花見川地峡の利用・開発史
第1部 縄文弥生時代の交通 その18

2014.08.24記事「古墳時代遺跡密度について考える」に関連して、「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県、平成19年)671~672頁に掲載されている「コラム 海の道「東海道」」を紹介して、感想を述べます。
このコラムから刺激を受け、思考が触発されました。

1 コラム 海の道「東海道」  全文紹介
古代の道
 
 日本列島は四分の一が山地である。このため、海路・水路が陸路以上に重要な歴史の道を形成している。弥生文化・古墳文化の東進・交流ルートは海路抜きには考えられないといえよう。特に大和を起点とする伊勢湾沿岸の交通路から東国への海路は、ヤマト王権の東進路として考古学・文献双方の資料から重視されている。また、沿線には河川によって分割された数多くの小地域が存在し、海路でいち早く波及した新たな文化はそれぞれの地域で受容・吸収されて多様化した。奈良時代初めに、都を中心とする主要官道のひとつとして陸路の東海道が整備されるまでは、この海の道が東海道の幹線であった。

 東国の概念や範囲は時代によって異なり、古代以前に限っても大化の東国等国司派遣は信濃・遠江以東を対象とし、壬申の乱で大海人皇子が兵を動員した東国は「三関」(伊勢鈴鹿・美濃不破・越前愛発の関)以東を指している。さらに、万葉集の東歌や東国防人の歌に見える範囲は、信濃・遠江から陸奥を含む。弥生・古墳時代の様相では、天竜川流域・碓氷坂以東、常陸以南を東国の主要範囲としてとらえられる。なかでも、富士山と筑波山を望む東海道駿河湾以東の範囲は、穏やかなまとまりと交流を維持した地域である。その東限に位置する房総は、東海道の東の玄関にあたるといえよう。

 列島を象徴する山として古来聖山とされてきた富士山は、南西は和歌山県那智勝浦町の妙法山、南は八丈島、東は銚子市犬吠崎、北東は福島県二本松市の日山から遠望することが可能で、その可視範囲は約600キロにわたる。東海道は、日常的に富士山を望むことができる広域な交通路であり、弥生文化の東漸以降、この道を通って東西の文物が盛んに行き交うようになる。特に、天竜川以東の駿河湾、相模湾、三浦半島を経て東京湾東岸に至る海道は、弥生時代中期から後期にかけて、交流圏としてのまとまりを形成し始める。逗子市と葉山市にまたがる長柄・桜山古墳群は、三浦半島の渡海地点を知る重要な遺跡である。やがて、道筋はさらに太くなって古墳時代の社会・経済・文化の動脈となっている。この海道の終着点である東京湾東岸は東漸するあらゆる文物の上陸する所であり、西に向かって開かれた地域であった。

 一方、筑波山を望む鬼怒川・利根川下流域は、かつて広大な内海(香取海)を挟んで東海道経由の弥生文化を対峙し、独自の伝統を維持していた。この均衡が破られるのは、古墳時代になって東北へ向かうヤマト王権の強い影響力が波及する時である。その時点でこの地域は、ようやく遠江以東を緩やかに結ぶ交流圏に入ることになる。

 東京湾東岸から鬼怒川・利根川下流域にわたる地域は、東海道の東限として必然的に東北への入り口となった。特に古墳時代後期以降は、ヤマト王権の軍事的・経済的基盤としての重要性が増している。しかし、その一方で、考古学的な資料からうかがえる東国の実態は、王権の傘下にあってもなお独自性を発現するきわめて統制の難しい地域の姿である。このような地域的特性は、海路・水路に恵まれた地理的環境によるところが大きいと思われる。

 古代以降の陸路に視点を置くと、これらの地域は都から遠く離れた最果ての地であり、特に奈良時代後期以降の房総は幹道から外れた袋小路の感がぬぐえない。しかし、海道に視点を移してみると海上に開かれたきわめて自由な道が開けていたことがわかる。

図版、文章とも「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県、平成19年)から引用

2 感想
ア 弥生時代から海道が西方と房総を結んでいた
弥生時代から、西方から逗子葉山を経て三浦半島を超えて東京湾を渡り富津から房総にはいるルートがあったことを知りました。

イ 奈良時代初めに陸路の東海道が整備されるまでは、海の道が東海道の幹線であった
「奈良時代初めに、都を中心とする主要官道のひとつとして陸路の東海道が整備されるまでは、この海の道が東海道の幹線であった」と書いてありますが、奈良時代の交通は陸路と海路(河川路)の双方が使い分けられていたと考えます。奈良時代の官道は権威の象徴であることを含めて建設され、支配のために使われるとともに、それに併置されるような形で水運支路が必ず存在し、陸路では完全に賄いきれない機能をサポートしていたと考えます。
古墳時代にあっても脆弱なものであるかもしれませんが陸路があり、それが海路(河川路)をサポートしていたと考えます。

ウ 東京湾東岸から鬼怒川・利根川下流にわたる地域は、王権の傘下にあっても統制の難しい地域であった
「東京湾東岸から鬼怒川・利根川下流域にわたる地域は、東海道の東限として必然的に東北への入り口となった。特に古墳時代後期以降は、ヤマト王権の軍事的・経済的基盤としての重要性が増している。しかし、その一方で、考古学的な資料からうかがえる東国の実態は、王権の傘下にあってもなお独自性を発現するきわめて統制の難しい地域の姿である。このような地域的特性は、海路・水路に恵まれた地理的環境によるところが大きいと思われる。」

この文章が判るようでわかりません。

考古学的な資料から「なお独自性を発現するきわめて統制の難しい地域の姿である」とする論拠が何であるか、「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県、平成19年)を読んでもすっきりわかりません。房総の支配層の古墳形式などは中央集権的な古代国家の形成過程と表裏の関係にあると書いてあります。
考古学的にみて、何が古代国家の統制から外れているのか、ポイントを十分に理解できません。機会があれば専門家の方にお伺いしたいと思います。

もし何かの事象で、香取海における統制が困難であったということであれば、その理由として「海路・水路に恵まれた地理的環境」というより、弥生時代に奥印旛浦が一つの小世界であったと考えたのと同じ理由「複雑な内海地形」であると考えます。

「複雑に入り組んだ内海地形のため、他所から来た外部権力は自らの警察的軍事的力で内海における在地勢力活動を完全には支配しきれない」ことによるものであると考えます。

もし筆者が東京湾も海路・水路に恵まれているから、東京湾東岸も統制が困難であったという話をしているのなら、私はこのコラムの理解が全くできていないことになります。

エ 図版「古代の道」に追記したくなる海路
上記図版「古代の道」には陸路と海路が併記されている場所があります。
また、長柄・桜山古墳群を通って三浦半島を横断して横須賀付近から海路で東京湾を渡り、富津付近から北東に進む陸路が描かれています。

この図版をみて、東京湾にも陸路と並走する海路があり小糸川、小櫃川、養老川、都川、花見川などの河口に立ち寄っていたに違いないと想像しました。

花見川河口には居寒台遺跡(旧石器、古墳(中・後)、奈良、平安)や玄蕃所遺跡(旧石器、縄文(前)、古墳(後)、平安)等があり少なくとも奈良時代には港湾があったと考えられます。近くの落合遺跡から数隻の縄文丸木舟が出土していますから、古墳時代にも港湾があったことは十分に考えられます。

その想像東京湾海路ルートと、私が検討している水運ルート(一部陸路)を上記図版に追記すると次のようになります。

将来、このような想像図ではなく、しっかりした裏付けのある古代交通路図ができると良いと思います。

想像海路と検討水運路の追記

2014年8月25日月曜日

古墳時代遺跡密度についての追考

シリーズ 花見川地峡の利用・開発史
第1部 縄文弥生時代の交通 その17

2014.08.24記事「古墳時代遺跡密度について考える」で掲載した密度図について自分なりに考察しましたがその考察を補強するために、「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県、平成19年)から得られる情報をピックアップして、密度図との関連を考察してみました。

1 古墳時代出現期の主要遺跡分布
次に「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県、平成19年)に掲載されている「出現期から前期古段階の遺跡分布図」を引用します。

出現期から前期古段階の遺跡分布図
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県、平成19年)より引用

この遺跡分布図から、自分が感じていた素朴な疑問がいくつか解決しました。

ア 上総の東京湾岸の古墳時代遺跡高密度地域は東京湾の他の場所から伝播したということではない
遺跡初心者のつらさですが、千葉県だけの遺跡分布図をみていては、千葉県内の地域構造は検討できるにしても、関東地方のなかでの関係が判りませんでした。
上総の東京湾岸古墳時代遺跡高密度地域と東京や神奈川の東京湾岸との関係がこれまでさっぱりわかりませんでした。
しかし、この地図をみて、上総の東京湾岸古墳時代遺跡高密度地域が関東地方の中でも最も規模の大きな高密度地域であることが判りました。
近くに母地域があり、そこから上総に伝播したというイメージではないことを理解しました。
むしろ上総の東京湾岸古墳時代遺跡高密度地域が母地域となって文化や情報が各地に伝播したに違いないと感じることができます。
近畿のヤマト王権と直結して上総に高密度地域が形成されたと考えました。

イ 下総の古墳時代遺跡高密度地域の北の香取の海沿岸には高密度地域はない
下総の古墳時代遺跡高密度地域が茨城県側の地域とどのように連担するのか、しないのか、その関係が判りませんでした。
しかし、この地図をみて、下総の高密度地域が独立して存在していて、香取の海全体に高密度地域が広がっているということではないことが判りました。
判ってしまえば当たり前の事実として首肯できますが、この地図をみるまで解決できない疑問でした。初心者はつらいです。

房総付近における古墳時代の政治支配・文化情報等の流れは近畿→上総東京湾岸→下総印旛浦→香取の海(千葉県側、香取市付近など)という方向であることが判りました。
こうした政治支配・文化情報等の流れは外来土器の出土状況等で確認できているそうです。
初期のころは香取の海の対岸(茨城県側)は外来系土器の出現はすくないそうです。

ウ 上総と下総を結ぶメインルートが都川-鹿島川ルートであることが示されている
この地図では上総と下総の高密度地域の間の遺跡が都川-鹿島川ルート上にあることが示されています。
このルート上に実際は陸運ルート(道路)と水運ルートの2つが併置されて存在していたと考えます。
このころ、馬の生産使用が始まっています。また古代東海道ルートがこのあたりを通っていました。
(古代東海道については次記事で情報紹介予定です。)

2 馬の犠牲土壙や馬具、玉造り遺跡の発見
佐倉市の遺跡から馬の犠牲土壙や馬具が発見されていて、中世まで遡ると考えられていた佐倉牧の起原が古墳時代まで遡る可能性があるそうです。
高津馬牧や浮嶋牛牧について興味をもっているので、大変刺激をうける記述です。
また、玉作り遺跡も印旛浦周辺に集中しています。
このように佐倉市や成田市付近は古墳時代の産業文化の中心地であったと考えられ、遺跡密度が高い理由の一つになっていると考えます。

3 古墳時代後期の印波郡の首長
古墳時代後期の印波(印旛)郡の豪族が、ヤマト王権の軍事部である杖部(はせつかべ)直であり、その豪族が営んだ古墳群が公津原古墳群であると考えられる。
「公津原古墳群の名称は公津によったもので、この地名が古代のものか中世のものかは不明であるが、この地が香取海につながる印旛浦の重要な港津にほかならなかったことを物語っている。原東海道ルート沿いの拠点でもあるこの地の豪族が、ヤマト王権の関東北部からさらに陸奥の地域に対する軍事的諸活動に際して重要な役割を果たしたであろうことは容易に推測することができる。」

こうした記述を読むと、1で検討した古墳時代初期の「古墳時代の政治支配・文化情報等の流れは近畿→上総東京湾岸→下総印旛浦→香取の海(千葉県側)という方向」から、古墳時代後期には政治軍事的に印旛浦が関東北部→陸奥へと支配を拡げる拠点であったことが判ります。

古墳時代の房総を巡る政治支配・軍事・文化情報の流れの方向
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県、平成19年)から得た情報に基づく

2014年8月24日日曜日

古墳時代遺跡密度について考える

シリーズ 花見川地峡の利用・開発史
第1部 縄文弥生時代の交通 その16

1 古墳時代遺跡の密度算出と密度分布図作成
「ふさの国文化財ナビゲーション」(千葉県教育委員会)からダウンロードした埋蔵文化財リスト(古墳時代)について、書式不備等の部分について最低限の調整をしてから、市区町村別箇所数をカウントしました。

千葉県全体の埋蔵文化財(古墳時代)箇所数は10440箇所で、全埋蔵文化財箇所数19905の約52.5%にあたります。
箇所数が多い自治体は市原市2041、君津市934、袖ヶ浦市424、木更津市607、成田市554、印西市476、千葉市458、香取市435、富津市414、佐倉市413などとなっています。箇所数が少ない自治体は浦安市0、九十九里町2、御宿町5、白子町7などとなっています。

埋蔵文化財(古墳時代)10440箇所を千葉県面積5156.62km2で割ると平均埋蔵文化財(古墳時代)密度2.0箇所/km2が算出されます。

そこで密度情報を単純化してわかりやすくするために、平均値の値とその倍数を使って、次のような分級をして分布図を作成しました。

●埋蔵文化財(古墳時代)密度の分級
分級A 4.0~ 箇所/km2
分級B 2.0~3.9 箇所/km2
分級C ~1.9 箇所/km2

なお、千葉市の情報は区別に示しています。

市区町村別埋蔵文化財(古墳時代)密度

2 考察
ア 2つの高密度があるという地域構造が表現されている
市原市、袖ケ浦市、木更津市の3つの地域を中心として君津市と富津市を加えた遺跡密度が高い地域が東京湾岸に拡がり、最も特徴的な分布となっています。
一方佐倉市と神崎町が挟むような形で印西市、酒々井町、成田市、芝山町、栄町、我孫子市が分布し千葉市若葉区を加え、遺跡分布密度が高い地域が拡がっています。
巨視的な視点でみると、千葉県には、東京湾岸と印旛浦とその香取の海出口付近という2つの遺跡高密度地域が存在しているという地域構造が読み取れます。

イ 弥生時代遺跡密度図と比べると地域構造に微妙な変化がみられる
次の図は弥生時代遺跡密度図と古墳時代遺跡密度を並べて対照できるようにした図です。

弥生時代と古墳時代の遺跡密度図の対照

この対照図から判る様に、弥生時代の東京湾岸と奥印旛浦地域という二つの目玉のような地域構造から、古墳時代の地域構造は次のような微妙な変化を見せています。

1 弥生時代から古墳時代にかけて東京湾岸の高密度地域が大きく拡大している

2 弥生時代の高密度地域である奥印旛浦地域のうち、その中心と考えられる佐倉市は古墳時代にあっても高密度地域であるが、八千代市、四街道市が高密度地域から脱落している。

3 香取の海(現在の利根川流路付近)に面した神崎町が高密度地域になり、成田市や我孫子市が平均以上の密度となりそれらの地域と印西市、佐倉市、千葉市若葉区が連担している。この様子から弥生時代に存在した高密度地域の重心が北方向に移動したように見える。

ウ 東京湾から都川-鹿島川を経由して印旛浦に至る交通ルートが推測できる。
佐倉市が高密度地域となっていて、千葉市若葉区が平均以上の密度となっていることから、都川-鹿島川ルートで東京湾と印旛浦がつながっていた様子を推測できます。

市町村遺跡密度という大ざっぱなデータで、このように推測することは危なっかしいと思っていますが、旧石器時代、縄文時代、弥生時代とこのデータを検討してきて、思った以上に有益なデータであるので、あえて現在はこのような推測をしておきます。

いずれ、遺跡データを地図にプロットしてより精度の高い検討をしますので、その時に明らかにすべき作業上の仮説として「古墳時代には都川-鹿島川ルートが使われていた」を設定します。

市町村別遺跡密度という大ざっぱなデータでみると、縄文時代以降の東京湾と印旛浦の2つ移動ルートのメインルートは次のように変化したことになります。

●市町村別遺跡密度からみた東京湾と印旛浦をつなぐメイン移動ルート
縄文時代 都川-鹿島川ルート
弥生時代 花見川-平戸川ルート
古墳時代 都川-鹿島川ルート

(なお、このブログでは奈良時代に花見川-平戸川ルートに国家が建造した直線道路と船着場・港湾よりなる古代東海道水運支路の存在を仮説して調査を行い、多数の記事にしています。)

このような変化はデータの(くくりの)大ざっぱさに起因するもので、ルート消長という実態はなかったということかもしれません。一方時代の社会情勢によってルート消長があり、それが表現されているのかもしれません。

現時点では、データの(くくりの)大ざっぱさにも関わらず、遺跡密度という情報は1級の情報であり、その分布は大いに意味があると考えています。ルート消長はあったと考えています。

寄り道を終えたあとの本来検討で結果は出ると思います。

また、奈良時代につくられた官道(古代東海道)が奈良時代以前からあった、つまり古墳時代に存在した幹線道路ルートとなんらかの関係があるということは十分に考えられます。

したがって、古墳時代の「都川-鹿島川」ルートを考える視点として、縄文時代から存在していた水運ルートという視点からだけでなく、古代東海道の原型陸路という視点から考えることも大切だと思います。

古墳時代には東京湾岸と佐倉市や成田市を結ぶ幹線陸路が出来ていた可能性があります。

2014年8月23日土曜日

旧石器時代の谷津形状の検討

シリーズ 花見川地峡の利用・開発史
第1部 縄文弥生時代の交通 その15

2014.08.16記事「旧石器時代遺跡密度について考える」で、旧石器時代の地形は現在と全く異なっていて、深い谷が発達していて、その間に存在した開析の少ない台地が旧石器時代人の主な生活場所であることを地図で示しました。
その場所は追考で「東日本で有数の狩場」であることが判りました。

さて、旧石器時代人や当時の草食獣の移動や生活の障壁となっていた深い谷の形状を断面図で検討しましたので、情報として追補しておきます。

1 断面図位置
検討した断面図位置を次に示します。

旧石器時代谷津形状検討のための横断面位置

AB断面は現在の北印旛沼付近です。
CD断面は利根川を横断する断面です。

2 参考資料
AB断面については「楠田隆・楡井久(1994):印旛沼の成因と性格、印旛沼-自然と文化創刊号」掲載の地質断面図を参考として利用しました。

「楠田隆・楡井久(1994):印旛沼の成因と性格、印旛沼-自然と文化創刊号」掲載地質断面図

CD断面については「遠藤邦彦・小杉正人・菱田量(1988):関東平野の沖積層とその基底地形、日本大学文理学部自然科学研究所研究紀要23」掲載の沖積層層厚分布図を参考として利用しました。

「遠藤邦彦・小杉正人・菱田量(1988):関東平野の沖積層とその基底地形、日本大学文理学部自然科学研究所研究紀要23」掲載沖積層層厚分布図

3 旧石器時代の谷津形状
次に、AB断面、CD断面の旧石器時代(最終氷期最盛期)の谷津形状検討結果を示します。

AB断面

AB断面では沖積層基底高度が-34mであることを主要な情報として示しています。
AB断面付近では地形の起伏が現在の2倍であったことが判ります。

CD断面

CD断面では沖積層基底高度が約-55mであることを主要な情報として示しています。
CD断面付近では地形の起伏が現在の3倍近くあったことが判ります。

4 メモ
現在このブログでは、寄り道として、時代別に市町村別遺跡密度図を作成して、各時代の特性を考察しています。
そのなかで、人の生活の大前提となる地形が旧石器時代と縄文~現代の二つ時代について、全く異なることを確認しました。

……………………………………………………………………
次の記事から古墳時代、奈良時代、平安時代と検討を進める予定です。

2014年8月22日金曜日

小世界に見立てた奥印旛浦の範囲

シリーズ 花見川地峡の利用・開発史
第1部 縄文弥生時代の交通 その14

2014.08.21記事「奥印旛浦を小盆地に見立てる」で弥生時代遺跡密度が高い地域が奥印旛浦の沿岸地域に該当するということを述べましたが、奥印旛浦とはどの範囲を指して使っているのか説明が欠けていたので、追加記述します。

1 印旛浦の位置
次の図は吉田東伍著「利根治水論考」(明治43年)に掲載されている「衣川流海古代(約千年)水脈想定図」です。

衣川流海古代(約千年)水脈想定図(吉田東伍著「利根治水論考」(明治43年)掲載地図)

吉田東伍が明治43年(1910年)に、その時点から約1000年前を見つめて作成した湖沼・河川分布図です。

吉田東伍は、この一体全部が流海あるいは香取の海と呼ばれていた一続きの海であることを表現するとともに、その中で印旛浦、葦原(谷原)、榎浦、香澄流海(内海)、(東條浦)、香取浦、板東洲、鹿島流海、浪逆海、(海上潟)、若松浦等の名称を示しています。

印旛浦の位置
基図は標高8m以下抽出図(縄文海進最盛期海面イメージ)

2 奥印旛浦の範囲
奥印旛浦という用語はこのブログの造語です。
奥印旛浦の範囲を次のように設定します。

奥印旛浦の領域
基図は標高8m以下抽出図(縄文海進最盛期海面イメージ)

奥印旛浦という地域概念をつくると、弥生時代遺跡密度の説明に使えるだけでなく、古代~近世の歴史検討の道具にも使えると想定しています。
奥印旛浦は舟運幹線交通路であるとともに、外部からは入りにくい場所でもあり、小盆地みたいな性格があると思います。一つの小世界、小宇宙としてまとまりがある地域です。

奥印旛浦という用語を使うと、土地の過去のイメージを豊かに想起できる可能性が高まります。

私自身も含めてほとんどの千葉県民が、奥印旛浦という地域範囲を、かつて入海であったという感覚でイメージすることに強い抵抗感を持ちます。

その抵抗感が生じる原因の一つに利根川とか印旛沼という河川水系をイメージする言葉(概念)が土地にかぶさっているということがあると思います。

「印旛沼は細長く河川であり、そこに水が溜まって沼になっている。」とだれでも無意識的に考えてしまいます。海概念が入りこむ隙間がありません。

しかし、奥印旛浦という言葉を使えば、印旛沼ではなく印旛浦ですから海であることが判ります(強制的に示される)し、奥という言葉から上流下流という河川の捉え方ではなく、内海が奥深くまで入っているというイメージを持つことが出来る可能性が高まります。

参考 標準地図と標高8m以下抽出図のオーバーレイ図
奥印旛浦は成田市、酒々井町、佐倉市、印西市のみならず白井市、船橋市、八千代市、四街道市の谷津の奥深くまで広がっていました。

参考 旧版2.5万地形図と標高8m以下抽出図のオーバーレイ図
この地図により、大正年間測量地図による印旛沼分布と標高8m以下抽出図(縄文海進最盛期海面イメージ)を対照できます。
奥印旛浦が、海面低下、土砂堆積、埋立等により6000年間程の間に縮小した範囲(=ブルー塗り沖積地)がわかります。

2014年8月21日木曜日

奥印旛浦を小盆地に見立てる

シリーズ 花見川地峡の利用・開発史
第1部 縄文弥生時代の交通 その13

2014.08.20記事「弥生時代遺跡密度について考える」を追考します。

弥生時代遺跡密度が高い場所が千葉県には2箇所あるのですが、そのうち佐倉市を中心とする場所がなぜ遺跡密度が高いのか、その理由を簡易な思考実験をして考えました。

「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県、平成19年)にはそこが常陸・下野地域と関わりがあるとは書いてありますが、「なぜその付近の密度が高いのか(遺跡が沢山あるのか、弥生時代に好んで人が生活していたのか)」ということの記述はありません。

1 思考実験
作成した弥生時代密度にA、B、C地域を設定しました。
A地域とC地域は弥生時代遺跡密度が低い地域です。B地域は高い地域です。

思考実験地域の設定

この実験地域を地形段彩図と標高8m以下地域分布図(縄文海進海面イメージ図)に転写してみました。

思考実験地域の地形段彩図転写図

思考実験地域の標高8m以下地域分布図転写図

この二つの転写図から次のしっかりとした情報を得ることができました。

●実験結果
ア B地域は内海世界である奥印旛浦の沿岸地域である。A、C地域は内海とは関係ない地域である。
イ B地域は奥印旛浦に続く沖積地を備える谷津を多数含む、A、C地域は沖積地を備える谷津が少ない。

佐倉市を中心とする弥生時代遺跡密度が高い地域がそこに成立している理由として、その場所が内海世界としての奥印旛浦沿岸地域であるということと、沖積地を備える谷津を抱えているという2点が実験結果から浮かび上がりました。

2 思考実験に基づいた考察
実験結果から、佐倉市を中心とする弥生時代遺跡密度が高い地域がそこに存在する理由を次のように考えました。
1 奥印旛浦という内海は交通軸として機能するので、奥印旛浦沿岸で生活することは、当時のハイテク技術である稲作技術・情報や金属器技術・情報・製品を得やすい。また、政治的動向等の情報も得やすい。従って、奥印旛浦周辺の台地上で、好んで焼畑農業(稲作を含む)が行われた。

2 奥印旛浦には沖積地を備える谷津が多数あり、灌漑技術レベルが低い段階でも水田稲作を行える土地条件を満たしていた。

また、奥印旛浦の地形条件から、次のような地域特性があるのではないかと考えました。

3 奥印旛浦は上流部では花見川谷津を経て東京湾へつながる交通ルートになりますが、陸路の部分があり、一つの障壁となっています。また、下流は角崎大曲など内海形状に大きな屈曲2箇所や狭窄部的地形があり、視線が各所で遮られるため、交通移動上の障壁となり、また治安や軍事的意味でも外海と一線を画する環境が生れます。

従って、奥印旛浦は外部の影響をストレートには受けにくく、その場所の生活が自立、持続する傾向も生まれたのではないかと考えます。

独自文化が発達する盆地世界と同じように、内海世界としての奥印旛浦地域を小盆地みたいに見立ててみてもよいかもしれません。

次の図は関東地方の弥生土器分布図ですが、弥生時代後期にこの付近にだけ、独自の「臼井南式土器」が見られるということです。

関東地方における弥生土器の分布状況
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県、平成19年)から引用

この情報と、奥印旛浦が小盆地みたいな環境にあったという認識と整合すると思います。

2014年8月20日水曜日

弥生時代遺跡密度について考える

シリーズ 花見川地峡の利用・開発史
第1部 縄文弥生時代の交通 その12

1 弥生時代遺跡の密度算出と密度分布図作成
「ふさの国文化財ナビゲーション」(千葉県教育委員会)からダウンロードした埋蔵文化財リスト(弥生時代)について、書式不備等の部分について最低限の調整をしてから、市区町村別箇所数をカウントしました。

千葉県全体の埋蔵文化財(弥生時代)箇所数は1365箇所で、全埋蔵文化財箇所数19905の約6.9%にあたります。
箇所数が多い自治体は市原市147、佐倉市110、袖ケ浦市105などとなっています。箇所数がゼロの自治体は習志野市、浦安市、白子町となっています。

埋蔵文化財(弥生時代)1365箇所を千葉県面積5156.62km2で割ると平均埋蔵文化財(弥生時代)密度2.7箇所/10km2が算出されます。

そこで密度情報を単純化してわかりやすくするために、平均値の値とその倍数を使って、次のような分級をして分布図を作成しました。

●埋蔵文化財(弥生時代)密度の分級
分級A 5.4~ 箇所/10km2
分級B 2.7~5.3 箇所/10km2
分級C ~2.6 箇所/10km2

なお、千葉市の情報は区別に示しています。

市区町村別埋蔵文化財(弥生時代)密度

2 考察
ア 地域構造が明瞭に表現されている
弥生時代というくくりでみると、印西市、八千代市、佐倉市、四街道市を中心とする高密度地域と袖ケ浦市、木更津市を中心とする高密度地域の2箇所が歴史が濃い地域として表現されていて、当時の地域構造を表現しているものと考えます。

「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県、平成19年)の「第2編農耕文化の始まりと政治的社会の形成 第3章社会の変容」に次のような記述があり、この密度分布図の意味の説明のようになっています。

「房総では、…後期になると、北部の下総地域と南部の上総・安房地域という二つの地域で大きく異なる土器様相になることが確認できる。下総地域では、霞ケ浦や印旛沼、手賀沼が一体となって大きく広がっていた香取海とう内海を中心に北側に接する常陸・下野地域と共通する縄文を多用する土器が使用され、上総・安房地域では、東京湾沿岸を中心に対岸の武蔵・相模地域と共通した壺・甕を器種組成とする土器が使用されるようになる。そして、この二つの地域では土器以外でも人びとが居住した住居やムラの形態、墓制といったさまざまな点において差異がみられる。差異が表出した背景を理解することは難しいが、香取海という内海や鬼怒川を通じて弥生時代以前から常陸・下野地域と生活の繋がりをもっていた下総地域と、東京湾を通じて対岸の地域と交流を行っていた上総・安房地域という、地理的な違いがひとつの要因であったといえる。なお、両者の間に交流はあったものの、後期を通じてこの地域差が解消されることはなかった。」

イ 佐倉市を中心とする高密度地域と東京湾を結ぶルートが花見川であることが示唆されている
千葉市花見川区が分級Bとなっていて、高密度地域と東京湾を結ぶルートが花見川であったことが示唆されています。
このブログにおける問題意識からすると、重要な情報です。

縄文時代遺跡密度の検討では、印旛沼水系と東京湾を結ぶメインルートは都川-鹿島川ルートと考え、花見川-平戸川ルートはサブ的なものとして考えました。
縄文時代の交通は幹線ルートといえども近隣集落を次々と結んで(連担して)移動していく伝言ゲーム的イメージが濃いのではないだろうかと空想しています。

弥生時代になると、それから変化して、花見川-平戸川ルートがメインルートになったということです。
その変化の理由は、水田耕作の開始や金属器の使用開始という社会の様相をガラリと変えるような技術革新の時代にあって、交通の場は地形的に最も通行しやすい場所におのずと変化した(合理的に選択された)ということだと思います。

都川-鹿島川ルートは、東京湾岸の大規模貝塚からその産品を鹿島川沿いの集落に運ぶ物流ルートとしては機能したとしても、弥生時代になり大規模貝塚の衰えた時、そのルートより花見川-平戸川ルートの方が地形的に水運上有利であり、水田耕作や金属器に関わる物品や技術・情報の移動は花見川-平戸川ルートに変更になったのだと思います。

参考 旧石器時代人の南北移動幹線ルートのイメージ

参考 縄文時代人の南北移動幹線ルートのイメージ

参考 弥生時代人の南北移動幹線ルートのイメージ

市町村別遺跡密度という、奥歯に物が挟まったようなデータではなく、早く遺跡情報を地図にプロットしてもう少し詳しい時代や対象別検討を始めれば、恐らくより的確な交通に関する情報を手にいれることができると考えます。

奥歯に物が挟まったようなデータによる寄り道はさらに、古墳時代、奈良時代、平安時代までつづきます。


2014年8月19日火曜日

縄文時代遺跡密度についての追考

シリーズ 花見川地峡の利用・開発史
第1部 縄文弥生時代の交通 その11

2014.08.17記事「縄文時代遺跡密度について考える」で考察した内容(見かけ上旧石器時代と同じように印旛沼流域付近の遺跡密度が高く、それに対応して水系を軸としたネットワークがあったに違いない等)について、裏を取ろうしました。

図書「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県、平成19年)が千葉県の縄文時代について最も詳しいと考え、その内容と対照しようとしたのですが、残念ながら、裏をとることが出来ませんでした。
この図書では、千葉県の縄文時代遺跡密度や分布に関する地理的考察がされていないからです。そのような視点が欠落しています。
他の書籍をいろいろ探したのですが、縄文時代遺跡分布あるいは密度に関する考察を見つけることはできませんでした。

裏を取ることが出来なかったのですが、千葉県というくくりで縄文時代遺跡分布や密度を考察対象とした記述は一般人が利用できる図書等ではないということが判り、それは一つの大切な情報であると感じました。

要するに、千葉県の縄文時代遺跡に関して、その地理的分布や密度について考察するということが専門家の間での主要な興味にはなっていないということが判ったのです。

なお、当然ですが、今後このテーマにいて専門研究論文等があるか、探して行きたいと思います。

裏を取ることはできなかったのですが、もちろんのことですが、自分の考察内容が否定されたということでは全くありません。

むしろ、専門家が行うべき基礎的な検討分野が空白となっているとすれば、私の遺跡分布や密度に関する考察は、そのレベルの高低は別にして、大いに意義があるに違いないと勝手にプラス方向の感情を持ちました。

なお、裏を取ることとは別に、図書「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県、平成19年)には大変興味ある記述が多く、次の3点を紹介します。

●大規模な貝塚の形成
中期から後期にかけて大規模な貝塚の形成要因については、交易用の干し貝づくりによるものであるという考えもあるが、その実体は必ずしも明らかになっているわけではない。
中期の貝塚で環状集落を伴うものは、環状集落が同一地点での反復居住・集合居住ととられている。遺跡の数としては少数である環状集落に、周辺地域の集団のうちの多くが居住していた可能性が高い。
このように考えると、海のめぐみを享受していた彼らの日常的な貝採集の結果として大規模な貝塚が形成されたとしてもなんら不自然ではない。交易用の干し貝づくりを否定する根拠があるわけではないが、少なくとも中期の環状集落に伴う大規模な貝塚については、現段階では交易用の干し貝づくりのみの結果であると断定できないのである。
後期の大規模貝塚については、…代表例としては千葉市若葉区加曽利貝塚が挙げられる。…現段階では後期の大規模な貝塚の形成要因についても中期同様に、日常的な貝採集の結果が基本であったという以上の結論は導きだせないでいる。

→他書では加曾利貝塚などは交易用の干し貝づくりの場として紹介されていますが、最近刊で千葉県公式歴史書であるこの図書では交易用干し貝づくりという点ではトーンダウンした記述になっています。
このような見解が千葉県縄文時代研究者の大勢であるのか、単なる1個人意見であるのか、確かめたいと思います。
この図書の著者が、なぜ環状集落が成立したのか、東京湾の生貝が印旛沼周辺に流通していることの意義等について、どのように考えているのか知りたいところです。

●古鬼怒湾沿岸の塩づくり
製塩をおこなった条件を備えている遺跡は霞ケ浦沿岸の3遺跡だけである。千葉県では製塩遺跡は発見されていない。製塩がおこなわれた有力な理由は塩蔵説である。
千葉県内では、製塩土器を少量出土する遺跡が数多く存在している。この土器は、魚などの塩蔵品とともに運ばれた可能性が高いと考えられる。

製塩土器が出土した遺跡の分布
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県、平成19年)から引用

→なぜ霞ケ浦沿岸の遺跡が製塩の中心であったのか、とても興味があります。霞ケ浦の製塩の勃興と加曾利貝塚などの凋落が同じ時期であったということをいろいろの本で読むことが多く、どのような関係があるのか興味を引きます。

●石器と石器材料の入手
石器は一部が陸路のみで運ぶことが可能であるが、大多数は丸木舟に載せ、水路・海路を漕いで運ばれた。
打製石斧・磨製石斧などの礫核石器は完成品として、剥片石器の多くは素材として運び込まれている。

石材の市川市向台貝塚への動き
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県、平成19年)から引用

石器や海産物をはじめとする物資の交換原理には、不足物交換原理だけでなく、良好な社会関係維持のため等により交換行為そのものに大きな価値をおく交換原理もある。
自らつくり、足りているのに他者がつくった物があり、不足物の補充ではなく、受け取る義務があった。
このような交換は贈る義務と受け取る義務の調和により成立していた。

縄文時代に定住する人びととは別に、物を運びながら集落を渡り歩き漂泊する人がいたとすれば、遠隔地産の石器・石材・装身具・食料などの異地性産品の広範な広がりは彼らの行動の軌跡を示すことになる。はたして、縄文時代に「運び屋」と類別される専従の人がいたのか、解決すべき課題であろう。

→多くの興味のある情報が記述されています。

2014年8月18日月曜日

旧石器時代遺跡密度についての追考

シリーズ 花見川地峡の利用・開発史
第1部 縄文弥生時代の交通 その10

1 裏を取ることにする
2014.08.15記事「埋蔵文化財情報から市町村別「歴史濃度」を概観する その1」で書いたように、花見川地峡の交通を検討する資料としてWEB(「ふさの国文化財ナビゲーション」千葉県教育委員会)から埋蔵文化財情報をダウンロードして、下ごしらえ作業をしたのですが、せっかくの千葉県全体の生資料であり、寄り道して、その千葉県全体資料から時代別市町村別遺跡密度図を作成して、各時代の「歴史濃度」を概観し始めました。

旧石器時代と縄文時代については既に記事にしました。

そして、ここまで時代の概観をしてみて、自分が想定した以上に有益情報を得られていることとそれから強い触発を受けていることに気がつきました。

本来自治体区域別に埋蔵文化財密度を算出するということは意味が少ないこととして考えられていると思います。遺跡ポイントをプロットすれば一番よいのですが、もしそれが出来なない時はメッシュ化して表現するなどがふさわしいと考えるのが普通です。

しかし、実際に自治体別に密度を産出して分布図にしてみると、その時代の遺跡分布の特徴をかなり的確に「概観」できることが判ったのです。

時代別遺跡密度図はすでに弥生時代、古墳時代とつくってありますが地域変化の様子がさらによくわかります。

このような想定外の情報取得と触発を体験して、ただ時代別作業を推し進めてその感想を書くだけでなく、その裏をある程度取っておくことが大切であると考えました。

自分が考察したことの的確性をある程度担保しておきたくなったのです。それだけ価値のある作業をしていることに気がついたのです。

裏を取るとは、自分が考察した内容が的確なものであるか、それともトンチンカンなものであるかという判断(評価)を、専門家の研究成果等に対照して行うということです。

私が考察した内容が専門家の論点と同じであるか(興味に合っているか)とか、専門家からみて意義が大きいかどうかということではありません。

専門家と素人の私の視点が違うのは当然です。その視点を問題にするのではなく、私が考察したことが正しいのか、間違っているのか、専門家の研究成果等から判断(評価)しておくということです。

2 「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県、平成19年)から裏を取る
2014.08.16記事「旧石器時代遺跡密度について考える」の裏を「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県、平成19年)から取ってみました。確かに裏を取れたと思います。

2-1 「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県、平成19年)から得られた興味深い情報
この書籍では、「第1編狩猟・採集民の時代」の中の「序章旧石器・縄文時代の自然と環境」、「第1章旧石器時代の人類と文化」、「第2章景観の中の遺跡」、「第3章房総半島の旧石器時代の社会」で旧石器時代について記述しています。
この中で、出土する旧石器石材の分析から旧石器時代人の行動範囲を明らかにするとともに、旧石器時代人の生活にとっての北総台地の意義を述べています。
記述は旧石器時代をさらに時間的に5期に区分して詳細に行われていますが、ここでは行動範囲が広がった第4期(後期旧石器時代後半期)について記述を自分なりに地図化して要約します。

ア 旧石器時代人が利用した石器石材岩体の分布
東部関東後期旧石器時代の石器群と関係のある岩体の分布を図示しました。

東部関東後期旧石器時代石器群と関係のある岩体の分布

イ 後期旧石器時代後半期の狩場と石材補給エリア
下総台地から出土した旧石器石材の分析から、次のような狩場と石材補給エリアを明らかにしています。

後期旧石器時代後半期の狩場と石材補給エリア
旧石器時代人は驚くべき広域を周回して石材を入手しながら、印旛沼周辺の台地を東日本有数の狩場として生活していたことがわかります。

また、当時は海面が低かったため、現在沖積地となっている土地が急峻な谷地形となっていて、下野-北総回廊と名づけられた狭い台地の回廊が旧石器時代人の移動に重要であったことが詳しく述べられています。この回廊は人だけでなく、草食獣の移動の回廊であったことも述べられています。

下野-北総回廊

2-2 裏が取れた
印旛沼周辺の下総台地が東日本有数の狩場であると判ったことは、私にとって驚きをともなうとても有益な情報です。

この情報から、2014.08.16記事「旧石器時代遺跡密度について考える」で検討したこと(開析の少ない台地を分布図で示し、この部分が旧石器時代人の狩場として重要であることを示したこと)が、正鵠を得たものであると感じることができました。

裏が取れるとともに、旧石器時代人の驚くべき広域遊弋性と下野-北総回廊の重要性に気がつくことができました。

また、上記図書では印旛沼周辺の下総台地が東日本有数の狩場であること(遺跡が多いこと)を述べていますが、その理由を詳しく分析しているわけではありません。
従って、今後地形面等からなぜこの場所が東日本有数の狩場であったのか、さらに検討を深めることが有益であるこが判りました。

自分にとって、とても有益な追考となりました。

2014年8月17日日曜日

縄文時代遺跡密度について考える

シリーズ 花見川地峡の利用・開発史
第1部 縄文弥生時代の交通 その9

1 縄文時代遺跡の密度算出と密度分布図作成
「ふさの国文化財ナビゲーション」(千葉県教育委員会)からダウンロードした埋蔵文化財リスト(縄文時代)について、書式不備等の部分について最低限の調整をしてから、市区町村別箇所数をカウントしました。

千葉県全体の埋蔵文化財(縄文時代)箇所数は6657箇所で、全埋蔵文化財箇所数19905の約33.4%にあたります。
箇所数が多い自治体は千葉市854、成田市605、市原市416、香取市393、佐倉市324、印西市259、柏市256、野田市220、富里市219などとなっています。箇所数がゼロの自治体は浦安市、九十九里町、白子町となっています。

埋蔵文化財(縄文時代)6657箇所を千葉県面積5156.62km2で割ると平均埋蔵文化財(縄文時代)密度1.3箇所/km2が算出されます。

そこで密度情報を単純化してわかりやすくするために、平均値の値とその倍数を使って、次のような分級をして分布図を作成しました。

●埋蔵文化財(縄文時代)密度の分級
分級A 2.6~ 箇所/km2
分級B 1.3~2.5 箇所/km2
分級C ~1.2 箇所/km2

なお、千葉市の情報は区別に示しています。

市区町村別埋蔵文化財(縄文時代)密度

2 旧石器時代遺跡密度図と比べた時の意義の違い
上図「市区町村別埋蔵文化財(縄文時代)密度」は縄文時代遺跡密度が相対的に高い場所(あるいは低い場所)を示したものです。
旧石器時代の密度図(2014.0816記事「旧石器時代遺跡密度について考える」掲載図)と比べると分布が似ていますが、意味する内容がだいぶ違いますので、最初にその違いを確認しておきます。

千葉県全体でみると、旧石器時代遺跡数は885箇所、縄文時代遺跡数は6657箇所であり、箇所数は約7.5倍増えています。

旧石器時代人の人口とくらべ縄文時代人の人口が大幅に増え、その分布も拡がっているのです。
二つの遺跡密度図の分布は似ていますが、旧石器時代遺跡密度図は旧石器時代人の活動範囲(生活範囲)を直接イメージすることができる図です。

一方、縄文時代遺跡密度図は、千葉県全域に拡がった縄文時代人の活動範囲(生活範囲)の中で、活動が特に濃密な地域(あるいは希薄な地域)をイメージすることができる図です。

参考までに旧石器時代遺跡密度図を作成したのと同じ分級で縄文時代遺跡密度図を作成すると次のようになります。

参考 旧石器時代遺跡密度図で使用した分級を使って描いた縄文時代遺跡密度図
縄文時代人の活動範囲(生活範囲)は旧石器時代とは異なり、千葉県全域をほぼカバーしたということをこの図は示しています。

3 考察
ア 旧石器時代遺跡密度図と縄文時代遺跡密度図の分布が似通っている
2で検討したとおり、旧石器時代人が生活していた場所と縄文時代人が特別濃密に生活していた場所がほぼ一致します。

旧石器時代人は大型動物を縄文時代人は中小型動物を狩ったと言われていますが、狩猟に適した場所(地形の起伏が少ない台地地域)は基本的に同じ場所であったということだと思います。

そして、縄文時代になると狩猟に適した場所では多くの狩猟生産が可能になり、他の場所と比べてより多くの人を養うことができたということだと思います。

また、狩猟に適したこの場所に生活ネットワーク(集落ネットワーク)が形成発展して、高人口密度を支えたのだと思います。

イ 遺跡密度が高い場所が印旛沼水系流域と根子名川流域を合わせた地域と一致する
遺跡密度が特に高い場所(分級A)が成田市、富里市、酒々井町、佐倉市、四街道市、八千代市、千葉市若葉区、千葉市緑区と連担しています。
この地域は印旛沼水系流域と根子名川流域を合わせた地域とほぼ一致します。

縄文遺跡高密度連担地域と印旛沼水系、根子名川水系の関係
この図から、千葉市若葉区と緑区は印旛沼水系と東京湾水系都川の双方に係っていることがわかります。

つまり、利根川付近から東京湾までの一連の地域が連担した縄文遺跡高密度地域になっているということです。

利根川から東京湾までに一連の地域が連担した縄文遺跡高密度地域になっているということはとても示唆に富む貴重な情報です。

この情報から次のような思考が触発されました。

イ-1 縄文人の本拠地は利根川方面にあるに違いない
高密度連担地域の分布から縄文人の本拠地は利根川方面であり、利根川から印旛沼水系を伝わって分布を広げて、最後は印旛沼水系の最も奥深い源流である鹿島川源流から東京湾水系都川流域に出たというイメージを抱きます。

縄文人の本拠地(地域文化の中心地)は流海(利根川の両岸に広がる海)にあるのであって、東京湾方面ではないという印象を持ちます。

イ-2 印旛沼水系が生活ネットワークの軸になっていたに違いない
縄文時代の台地上は樹林地帯であり人や物の効率的移動は不可能であったと思います。

印旛沼水系の水面(縄文海進で陸地奥深く侵入した印旛沼水面とそこに流れ込む河川)と灌木程度しか生えていない谷津低地が人と物の移動軸であったと思います。

つまり印旛沼水系網を舟(丸木舟)をメインに徒歩を加えて移動することにより、縄文人の生活ネットワーク(集落ネットワーク)が形成されていたと考えます。

逆に考えると、まるでフィヨルドのように内陸奥深くまで入りこんだ水面と河川網が存在していたので、この場所で縄文人が生活ネットワーク(集落ネットワーク)を拡げ形成強化することができたのだと思います。

イ-3 印旛沼水系から東京湾に出たメインの場所は都川付近
密度分布から印旛沼水系と東京湾が連絡するメインの場所は都川付近であると感じます。千葉市若葉区には加曾利貝塚があり、縄文時代に長期に渡って干貝を生産していましたが、干貝の供給地域は当然印旛沼水系の縄文集落であり、印旛沼水系を軸とした生活ネットワーク(集落ネットワーク)の中で流通したものであると考えます。

狩猟活動好適地である印旛沼水系の縄文人は東京湾の干貝など海の幸を入手できるようになり、生活基盤がより安定したに違いありません。

なお、私の問題意識の中心である花見川地峡について考えると、縄文時代にあっては印旛沼水系と東京湾を結ぶ場所としてはサブの役割であったような印象をもちます。
本当にそうであるか、自治体別密度ではないより的確な調査方法で確認したいと思います。

イ-4 印旛沼水系縄文人と東京湾岸縄文人の関係は?
袖ヶ浦市や市原市、木更津市などの東京湾岸縄文人と都川付近で東京湾に出た印旛沼水系縄文人との関係が気になります。

当然大いに関係あると思います。印旛沼水系縄文人が都川から東京湾に出て、南下して袖ヶ浦などに植民したのかもしません。

しかし、ここまでくると、千葉県という狭いくくりではなく、東京湾全体というくくりで情報を検討しないと、判らない問題だとおもます。

イ-5 印旛沼水系縄文人の拠点集落はどこか?
狩猟好適地であり、東京湾の海の幸も手に入れ、人口も多く(=遺跡密度が高く)さらに生活ネットワーク(集落ネットワーク)を形成していた印旛沼水系縄文人の拠点集落がどこであるか気になります。

拠点集落がどこであるかという問題意識をもって、今後の検討を進めて行きます。

2014年8月16日土曜日

旧石器時代遺跡密度について考える

シリーズ 花見川地峡の利用・開発史
第1部 縄文弥生時代の交通 その8

1 旧石器時代遺跡の密度算出と密度分布図作成
「ふさの国文化財ナビゲーション」(千葉県教育委員会)からダウンロードした埋蔵文化財リスト(旧石器時代)について、書式不備等の部分について最低限の調整をしてから、市区町村別箇所数をカウントしました。

千葉県全体の埋蔵文化財(旧石器時代)箇所数は885箇所で、全埋蔵文化財箇所数19905の約4.4%にあたります。

箇所数が多い自治体は千葉市115、市原市62、富里市62、成田市58、松戸市51、印西市50、香取市50などとなっています。

箇所数がゼロの自治体は館山市、鴨川市、浦安市、神崎町、九十九里町、一宮町、睦沢町、長生村、白子町、長南町、鋸南町となっています。

埋蔵文化財(旧石器時代)885箇所を千葉県面積5156.62km2で割ると平均埋蔵文化財(旧石器時代)密度1.7箇所/10km2が算出されます。

そこで密度情報を単純化してわかりやすくするために、平均値の値とその倍数を使って、次のような分級をして分布図を作成しました。

●埋蔵文化財(旧石器時代)密度の分級
分級A 3.4~ 箇所/10km2
分級B 1.7~3.3 箇所/10km2
分級C ~1.6 箇所/10km2

なお、千葉市の情報は区別に示しています。

市区町村別埋蔵文化財(旧石器)密度

2 考察
市区町村別埋蔵文化財(旧石器)密度を見ると、印西市、八千代市、佐倉市、四街道市を中心にしてその周辺の我孫子市、松戸市、鎌ヶ谷市、千葉市緑区、富里市、芝山町に密度の特に高い場所が分布しています。

さらに、密度の中程度の場所が密度の高い場所を囲むように、西は流山市、柏市、東は成田市、香取市など、南は市原市、袖ケ浦市、木更津市などに分布しています。

一方、房総南部の深い谷が発達する丘陵地帯全域、九十九里浜方面、利根川沿いは遺跡分布がないかあるいは密度が低くなっています。

こうした特徴から、旧石器遺跡の分布には次のような特性があるのではないかと考えました。
1 旧石器遺跡が分布する主な場所は台地地形の場所です。ここが旧石器時代人の主な生活の場所(狩りの場所)であったと考えます。大形動物が生息していて、狩りがしやすかったのだと思います。

2 房総南部の深い谷のある丘陵地帯は旧石器時代人があまり生活の場所として利用していなかったと考えます。大形動物が少なく、狩りがしにくかったのだと思います。

3 九十九里浜方面、利根川沿いは縄文海進により谷が埋没したので、その場所にあった遺跡も埋没してしまったと考えます。
房総南部丘陵地帯に遺跡が少ないことを考えると、沖積層に埋没した遺跡があったとしても、その場所の当時の地形は険しかったので、少なかったと考えます。

4 印旛沼を取り囲むように印西市、八千代市、佐倉市、四街道市が連担して密度が高い理由は、この付近が利根川、古東京川、栗山川などの深い谷の間に存在した開析の少ない台地であったため、ほかの場所より大型動物の生息が多く、狩りもしやすかったのだと思います。

成田市や香取市は同じ台地でも開析が進んでいて、また市原市や袖ケ浦市、木更津市では谷が深くなっていて、こうした地形特性が旧石器遺跡密度分布にかかわっていると考えます。


3 参考
次の図は「日本第四紀地図Ⅱ先史遺跡・環境図 B最終氷期(約6万年前~1万年前)」(日本第四紀学会編、1987年)の一部を切り取ったものです。


参考 最終氷期の陸域の分布
2万年前の海陸分布を示しています。
黒丸は旧石器時代Ⅱ期(石刃石器群、約3万~1.4万年前)の遺跡のうち、縦長剥片ナイフ形石器です。

この図から判る様に、旧石器時代の海面は最終氷期最盛期には現在より100mから120m低かったと見積もられています。

旧石器時代の遺跡分布を考える際には、当時の地形は現在とは全く異なっていたと理解してかかる必要があります。

次の図は最終氷期最盛期頃の北総台地付近の地形を想像したものです。
開析の少ない台地が旧石器時代人の主な生活場所であったと考えます。

最終氷期最盛期頃の北総台地付近の地形