2014年8月21日木曜日

奥印旛浦を小盆地に見立てる

シリーズ 花見川地峡の利用・開発史
第1部 縄文弥生時代の交通 その13

2014.08.20記事「弥生時代遺跡密度について考える」を追考します。

弥生時代遺跡密度が高い場所が千葉県には2箇所あるのですが、そのうち佐倉市を中心とする場所がなぜ遺跡密度が高いのか、その理由を簡易な思考実験をして考えました。

「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県、平成19年)にはそこが常陸・下野地域と関わりがあるとは書いてありますが、「なぜその付近の密度が高いのか(遺跡が沢山あるのか、弥生時代に好んで人が生活していたのか)」ということの記述はありません。

1 思考実験
作成した弥生時代密度にA、B、C地域を設定しました。
A地域とC地域は弥生時代遺跡密度が低い地域です。B地域は高い地域です。

思考実験地域の設定

この実験地域を地形段彩図と標高8m以下地域分布図(縄文海進海面イメージ図)に転写してみました。

思考実験地域の地形段彩図転写図

思考実験地域の標高8m以下地域分布図転写図

この二つの転写図から次のしっかりとした情報を得ることができました。

●実験結果
ア B地域は内海世界である奥印旛浦の沿岸地域である。A、C地域は内海とは関係ない地域である。
イ B地域は奥印旛浦に続く沖積地を備える谷津を多数含む、A、C地域は沖積地を備える谷津が少ない。

佐倉市を中心とする弥生時代遺跡密度が高い地域がそこに成立している理由として、その場所が内海世界としての奥印旛浦沿岸地域であるということと、沖積地を備える谷津を抱えているという2点が実験結果から浮かび上がりました。

2 思考実験に基づいた考察
実験結果から、佐倉市を中心とする弥生時代遺跡密度が高い地域がそこに存在する理由を次のように考えました。
1 奥印旛浦という内海は交通軸として機能するので、奥印旛浦沿岸で生活することは、当時のハイテク技術である稲作技術・情報や金属器技術・情報・製品を得やすい。また、政治的動向等の情報も得やすい。従って、奥印旛浦周辺の台地上で、好んで焼畑農業(稲作を含む)が行われた。

2 奥印旛浦には沖積地を備える谷津が多数あり、灌漑技術レベルが低い段階でも水田稲作を行える土地条件を満たしていた。

また、奥印旛浦の地形条件から、次のような地域特性があるのではないかと考えました。

3 奥印旛浦は上流部では花見川谷津を経て東京湾へつながる交通ルートになりますが、陸路の部分があり、一つの障壁となっています。また、下流は角崎大曲など内海形状に大きな屈曲2箇所や狭窄部的地形があり、視線が各所で遮られるため、交通移動上の障壁となり、また治安や軍事的意味でも外海と一線を画する環境が生れます。

従って、奥印旛浦は外部の影響をストレートには受けにくく、その場所の生活が自立、持続する傾向も生まれたのではないかと考えます。

独自文化が発達する盆地世界と同じように、内海世界としての奥印旛浦地域を小盆地みたいに見立ててみてもよいかもしれません。

次の図は関東地方の弥生土器分布図ですが、弥生時代後期にこの付近にだけ、独自の「臼井南式土器」が見られるということです。

関東地方における弥生土器の分布状況
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県、平成19年)から引用

この情報と、奥印旛浦が小盆地みたいな環境にあったという認識と整合すると思います。

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