2014年11月23日日曜日

相模湾と東京湾の古代水運路をつなぐ船越

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.3相模湾と東京湾の古代水運路をつなぐ船越

古代の内海・沿岸・河川水運路は、このブログで「船越」と仮名称を与えた陸運路で結ばれることにより、遠方を含む広域交通ネットワークを形成できたことを既に述べました。(2014.11.22記事「古代「東海道水運支路」(仮説)を理解するためのキーワード「船越」」参照)

この記事では、古代水運路における船越の例として、逗子横須賀船越を紹介します。

船越という用語こそ使っていませんが、古代水運路における船越の様子が「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)の中で紹介されています。

●コラム 海の道「東海道」 一部引用
列島を象徴する山として古来聖山とされてきた富士山は、南西は和歌山県那智勝浦町の妙法山、南は八丈島、東は銚子市犬吠崎、北東は福島県二本松市の日山から遠望することが可能で、その可視範囲は約600キロにわたる。東海道は、日常的に富士山を望むことができる広域な交通路であり、弥生文化の東漸以降、この道を通って東西の文物が盛んに行き交うようになる。特に、天竜川以東の駿河湾、相模湾、三浦半島を経て東京湾東岸に至る海道は、弥生時代中期から後期にかけて、交流圏としてのまとまりを形成し始める。逗子市と葉山市にまたがる長柄・桜山古墳群は、三浦半島の渡海地点を知る重要な遺跡である。やがて、道筋はさらに太くなって古墳時代の社会・経済・文化の動脈となっている。この海道の終着点である東京湾東岸は東漸するあらゆる文物の上陸する所であり、西に向かって開かれた地域であった。

●掲載図

古代の道
情報追記
図版、文章とも「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県、平成19年)から引用
(この図の東京湾横断ルートは、素直に物事を考えると、このようになるということを示しているように考えます。既存の誤った知識に染まると(踏襲すると)、この図は書けなくなります。下記「疑問」参照)

この逗子横須賀船越付近の縄文海進分布資料を次にしめします

縄文海進でつくらた内海
「貝が語る縄文海進」(松島義章、有隣新書、平成18年)より引用

船越付近は古逗子湾が半島の奥深くまで入りこみ、横須賀の内湾との距離は1.2㎞ほどです。
古代(古墳時代~奈良時代)にあってはこれほど深く海が入っていたことはないと考えますが、この海分布の範囲が水運可能な地勢であったことは十分考えられます。
つまり、この場所は相模湾と東京湾を1.2㎞程の陸路で結ぶ稀有な地勢であり、古代水運路の船越であったのです。

さらに、この場所には地名「船越」が横須賀市船越町として現存しています。まさに、正真正銘の船越です。

この場所の空中写真を示すと次のようになります。

逗子横須賀船越付近の地勢と説明

……………………………………………………………………
疑問
この記事で、水運という観点から逗子横須賀船越について合理的な思考が出来たと考えます。

しかし、「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県、平成19年)では別の場所で同種地図を示し、東京湾横断の場所を地名走水の場所にしています。

古代の東海道
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県、平成19年)から引用

「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県、平成13年)では古代駅路網図で走水駅を地名走水の場所としています。

Ⅰ期(8世紀初め~771年)の駅路
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県、平成13年)から引用

走水駅を地名走水(観音崎付近)に比定することは一般的で疑問を持ってこなかったのですが、逗子横須賀船越という検討をしてみると、疑問が湧きます。

相模湾から古逗子湾奥深くに船が入り、一旦人や荷物を降ろし、最短陸運路(約1.2km)で東京湾側(横須賀市田浦付近)に運び、そこから東京湾を横断して上総に着くと考えたのが船越という概念を使って考えてことがらです。

そうではなく、古逗子湾の奥深くまで船が入り、そこで下した人・荷物を地名走水(観音崎)まで陸路約12㎞運び、そこから船で東京湾を横断したと考えることは、あまりに非現実的です。そのような非合理的発想を古代人がしたとは到底考えられません。

古代水運では船越が使われ、一方陸路網としての古代駅路網はそれとは別に地名走水の場所に走水駅が在ったというデュアルモードみたいなことも考えられなくはないですが、説得力がほとんどない思考だと思います。

私は、地名走水(観音崎付近)に走水駅を比定することが間違っていて、走水駅は横須賀市田浦付近(船越町付近)に比定すべきものではないかと考えます。

地名走水は走水神社の設置と関わり、その場所が言葉の元来の意味である走水(東京湾を流れる速い潮流)を眺めるのに好都合な場所であるということに関連していると思います。日本武尊の船出を想う場所としてはうってつけの場所です。

走水駅の駅名「走水」は言葉の元来の意味である走水(東京湾を流れる速い潮流)を渡る場所という意味であり、地名走水と関連付けて考える必然性は無いと思います。
同時に、船越の検討から走水駅は横須賀市田浦付近に比定すべきであると考えます。

船越という概念を使うことによって、走水駅比定の間違いを発見できたと考えます。

余談 なお、船越という概念を使うことによって、花見川付近でも「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県、平成13年)における浮島駅の比定場所の間違いを発見できたと考えています。近々記事にします。

次の記事で長崎県の事例を紹介します。

2 件のコメント:

  1. はじめまして。isanaと申します。
    本記事を拝読し、嬉しくなったもので、コメントさせて頂きます。
    私も古道を取り上げたブログを書いておりまして、以前、船越の記事を書きました。↓
    http://isana-yokohama.tumblr.com/post/95907669742
    走水渡海がなぜか定説化しており、いつも不満に思っておりました。
    今後も貴ブログを楽しみに拝見させて頂きます。

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  2. isana Yokohamaさん
    コメントありがとうございます。

    援軍現る!という感じで、感激です。

    逗子から横須賀市田浦へ抜ける船越についてisana Yokohamaさんがブログ記事を書いて、そうした考えが既にあるということを知り、心が強くなりました。

    船越切通の写真を見せていただき、興味を持ちます。今ある姿の原初形は古代に遡るかもしれません。

    isana Yokohamaさんのブログも拝見させていただきます。

    貴重な情報ありがとうございます。

    よろしくお願いします。

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