2014年11月29日土曜日

Google earthを使った古代東国駅路網変遷文献調査 その3

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.8Google earthを使った古代東国駅路網変遷文献調査 その3

これまでの記事で、2つの図書の駅路網図変遷を紹介しましたが、その2図書の情報を比較(オーバーレイ)しながら、次のような検討を行います。
1 2つの図書の駅路網図変遷の比較と問題点の把握
2 「千葉県の歴史」(千葉県、平成13年)の記述の検討
3 駅路網図変遷と古代「東海道水運支路」(仮説)」との関係

1 2つの図書の駅路網図変遷時代区分の対比
2つの図書の駅路網図の年代区分がほぼ重なります。

2つの図書の年代区分対応

そこで、次のように駅路網図を対応させて、オーバーレイさせて、その違いをみながら、問題点を検討します。

●2つの図書の駅路網図を比較する時の対応
・古墳時代末期 東国A期(「千葉県の歴史」には対応図なし)
・奈良時代前半~中期 東国B期とⅠ期
・奈良時代後期 東国C期①、東国C期②とⅡ期
・平安時代 東国D期とⅢ期

2 古墳時代末期

東国A期の道路網
Google earth(斜め衛星写真)投影

律令国家成立以前の7世紀後半頃(古墳時代)の道路網図は「千葉県の歴史」には掲載されていませんから2図書の比較はできません。

この時期の道路網は、大局的に房総付近をみれば上図のように捉えてよいのではないかと考えます。

上図に、千葉県範囲の古墳時代遺跡分布密度図(カーネル密度推定図=ヒートマップ)を重ねてみると次のようになります。

東国A期の道路網図と古墳時代遺跡分布密度図のオーバーレイ図
(古墳時代遺跡分布密度図は遺跡の住所表示からアドレスマッチングにより経緯度情報を取得し、半径パラメータ5000mによりカーネル密度推定図を作成したもの。)
(遺跡密度図は遺跡分布の高密度→低密度を赤→白→青の色で表現している。)
(遺跡密度図はその時代の地域開発の活発な場所、人々の活動が濃厚に行われた場所を示す地図の意味に読み替えて用いることができると考える。)

房総では遺跡密度図の赤いところ、つまり遺跡密度が高い場所を東国A期の道路が貫いていて、古墳時代の地域開発状況と道路網推定がよく整合している様子を示しています。

「千葉県の歴史」では次の文章記述があります。
「Ⅰ期以前の7世紀後半の路線は、Ⅰ期の路線に近いことが推定できる。それは、Ⅰ期の路線が古墳群や6・7世紀の遺跡付近を多く通ることから、7世紀前半以前の中央と房総を結ぶ路線がⅠ期路線に大きく影響していると考えるからである。」
上記オーバーレイ図通りの説明です。

「千葉県の歴史」では次の文章記述もあります。
「下総国の国府の初歩的施設を8世紀の本格的国府が成立する葛飾郡に求めるか、それとも房総でも屈指の終末期古墳群や初期寺院(龍角寺)が所在する埴生郡に求めるかによって推定する路線が異なってくる。葛飾郡の場合は井上駅-浮島駅-河曲駅ルートが成立していたことになる。」
古墳時代遺跡密度図を見る限り、下総国の国府の場所(市川市付近)は古墳時代遺跡密度が特段高い場所ではありません。したがって大局観としては下総国府はもともとその場所に拠点があったと考えない方が合理的です。国家中央の政策で国府の場所が計画的につくられたと考えます。従って、井上駅-浮島駅-河曲駅ルートは古墳時代には成立していなかったと考えます。上図の東国A期の道路網でよいと思います。

「千葉県の歴史」ではさらに、次の文章記述もあります。
「Ⅰ期以前では、下総国香取郡-常陸国鹿島郡の路線が、下総国荒海駅-常陸国榎浦駅路線以前に機能していたことも想定できる。」
鹿島神宮、香取神宮の香取海一帯における意義を考えた時、この記述通りに考えたくなります。

2図書の8世紀以降駅路網図比較は次以降の記事で説明します。
つづく

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