2014年12月11日木曜日

50㎝刻み地形段彩図で駅家と河口津の関係を考える

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.16 50㎝刻み地形段彩図で駅家と河口津の関係を考える

古代では水運網(津〔直轄港湾、地域支配拠点〕のネットワーク)を活用して駅路網をつくり、順次改革していったと考えています。

水運網とかかわりのない駅家はほとんど存在しなかったと考えます。

東京湾岸の駅家は全て河口津を活用してつくられたものだと考えます。

次の図は駅家と河口津の関係を示した図です。

東京湾岸の駅家と河口津との関係

この記事では、東京湾岸の河口津(直轄港湾、地域支配拠点)と駅家の関係を5mメッシュを活用して、少し掘り下げて予察的に検討してみます。

1 井上(いかみ)駅

井上駅付近の地形と国府、河口津、駅家の位置想定

●地形
50㎝刻みで地形段彩図をつくると、低地の自然地形が浮かび上がります。
(1m刻みでは低地の自然地形は極めて不明瞭にしかわかりませんから5mメッシュの威力には大きなものがあります。)

砂州の付き方が東南東から西北西に向かう沿岸流によってつくられたと考えられ、花見川河口や都川河口とは逆方向です。
奥東京湾から東京湾方向へ流れる湾内主流の反転流で作られたようです。
従って、砂州の出口が西方向を向いています。

●河口津
西側を向いた出入口から入った場所に河口津があったと想定します。

●井上駅家
井上駅家は砂州の先端付近(渡し場付近)にあったと想定します。
河口津の管理者は下総国府であったと考えます。そして下総国府が同時に井上駅家を管理運営していたものと想定します。

2 浮島(うきしま)駅

浮島駅付近の地形と河口津、駅家の位置想定

●地形
東方へ向かう沿岸流で河口部を塞ぐように砂州ができ、その上に砂丘が形成された地形となっています。

●河口津
縄文時代の丸木舟4艘と大賀ハスが出土した谷津(東京大学総合運動場付近)が古代河口津の原初の姿であると考えます。
この河口津のそばの台地には玄蕃所遺跡(律令制下治部省に属する玄蕃寮遺跡と考える)、居寒遺跡(勇(いさむ)=軍港を暗示)等古墳時代~平安時代の遺跡が存在します。
玄蕃寮遺跡が花見川河口にあるということは、この場所に捕虜収容所あるいは友好的蝦夷の接待所みたいな施設があったことが想定できます。この場所が陸奥国と直結していたことを明示しています。
駅路ルートである都川筋ではなく、花見川筋に玄蕃寮遺跡があることから、東京湾と香取の海(ひいては陸奥国)との人的物的流通ルートのメインルートが花見川筋にあったことがわかります。同時に駅路が人流、物流とは一線を画して、高速通信移動機能に純化した施設であったことがわかります。

●浮島駅家
支配拠点対岸の砂丘上にあったと考えます。河口津の管理者、つまり花見川流域の支配者が浮島駅家を管理運営していたと想定します。

3 河曲(かわわ)駅

河曲駅付近の地形と河口津、駅家の位置想定

●地形
古代都川は河口付近で大きくメアンダーしていて、大曲となっています。この地形から河曲という地名が生まれたと考えます。

●河口津
河口津は砂州背後に立地していたと考えます。

●河曲駅家
河口津のある砂州に立地していたと考えます。
河曲駅家は河口津の管理者によって管理運営されていたと考えます。

4 大倉(おおくら)駅

大倉駅付近の地形と国府、河口津、駅家の位置想定

●地形
村田川の河口を砂州が塞ぐように分布しています。

●河口津
砂州の背後に河口津が存在していたと考えます。

●大倉駅家
湾岸の砂州上に大倉駅家が存在していたと考えます。
大倉駅家は河口津の管理者によって管理運営されていたと考えます。
大倉駅はその名称「オオクラ=大蔵」から上総国府と関係のある駅家であったと考えます。しかし上総国府は島穴駅との関係をメインとして、大倉駅は早期に整理して廃止したようです。
また村田川はその流域が狭く、河口津としての意義(地域支配拠点としての意義)が小さかったことも大倉駅の早期廃止に関係すると考えます。

5 島穴(しまあな)駅

島穴駅付近の地形と国府、河口津、駅家の位置想定

●地形
養老川の河口の前に東京湾岸に沿って幅広い砂州が分布します。
この砂州の上から古代の埋蔵文化財が出土しますから、古代には陸化して通行可能であったと考えます。

●河口津
上総国府の専用港としての河口津が現在の西広付近に存在していたと考えます。
その出津(河口津の出先の津)が地名出津付近に存在していたと考えます。

●島穴駅家
河口津の出津付近に島穴駅家が存在したと考えます。出津(出先の津)と駅家は同じ施設だったかもしれません。
島穴駅家は河口津の管理者によって管理運営されていたと考えます。

6 藤瀦(ふじぬま)駅

藤瀦駅付近の地形と河口津、駅家の位置想定

●地形
小櫃川の河口を塞ぐように湾岸沿い砂州が分布しています。

●河口津
河口津は湾岸沿い砂州の内側(東側)に存在し、その出津(出先の津)が坂戸市場付近にあったと考えます。この付近に地名出津もあります。

●藤瀦駅家
河口津の出津付近に藤瀦駅家が存在したと考えます。出津(出先の津)と駅家は同じ施設だったかもしれません。
藤瀦駅家は河口津の管理者によって管理運営されていたと考えます。

7 大前(おおまえ)駅

大前駅付近の地形と河口津、駅家の位置想定

●地形
小糸川が東京湾の出る部分が狭窄部になっています。

●河口津
小糸川が東京湾でる部分の狭窄部に河口津があったと考えます。

●大前駅
大前駅は東京湾横断の起終点ですから、大前駅は河口津と同じ施設であると考えます。

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