2014年12月5日金曜日

駅家と津と船越

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.12駅家と津と船越

東京湾と香取の海の水運路をつなぐ船越(津)及びそれと駅家との関係について考察します。

1 東京湾と香取の海の水運路をつなぐ船越の位置
次の図の水色部分は標高8m以下の土地で、古代では舟運可能な場所です。この図に古代において東京湾と香取の海の水運路をつなぐ船越の位置を描きこんでみました。

東京湾と香取の海の水運路をつなぐ古代船越の位置

東京湾と香取の海の水運路をつなぐ古代船越は3箇所存在します。
1 都川-鹿島川船越
2 花見川-平戸川船越
3 太日川-手賀沼船越

1と2について拡大図を示します。

船越1と2の拡大図

1 都川-鹿島川船越
陸路部分が7㎞ほどあり3つの船越のなかでは最も長い陸路となっています。
しかし、縄文時代や弥生時代では都川と鹿島川それぞれの上流部で船越を設けていたと考えます。(ローカル船越として図示。)

2 花見川-平戸川船越
陸路部分がわずか2㎞であり、3つの船越のなかでは最も交通効率性のよい船越です。
律令国家は東京湾と香取の海の水運連絡船越のメインをこの場所に位置付け、インフラ整備を充実したと考えます。
陸路部分が特段に短い理由は、この場所が河川争奪地形となっているためです。

3の拡大図を示します。

船越3の拡大図

3 太日川-手賀沼船越
奈良時代末期以降には駅路が通る船越です。
陸路部分は6㎞ほどです。
手賀沼と蘭沼(現在利根川がある場所)の水運網を結ぶ船越も同時に存在します。

3つの船越とも縄文時代から使われてきた船越です。

2 香取の海の駅家と津

奈良時代前~中期の香取の海の駅家と津の関係を次図でしめします。

【検討】香取の海の駅家と津
赤線は東国B期(「日本の古代道路を探す」(中村太一))の駅路網
白線はⅠ期(「千葉県の歴史」(千葉県))の駅路網

次の諸点がこのブログで検討した主要点です。
ア 鳥取駅を鹿島川の津として考える。
イ 山方駅を公津(鹿島川の直轄港湾)として考える。
ウ 真敷駅を小野川河口津として考える。
エ 真敷駅と板来駅は水運路でつながっていたと考える。

これらの諸点についての詳細検討は追って記事にしたいと思います。

3 香取の海の水運網イメージ

上記1と2の検討結果に基づいて、奈良時代前~中期の香取の海の水運網イメージをまとめると次図のようになります。

【検討】香取の海の水運網イメージ(奈良時代前~中期)

東京湾と香取の海の水運網が3つの船越で連絡している様子を描いています。

駅制の駅家はすべて既存水運網の津を使ってその場所に建設されていたと考えます。

既存水運網の津は直轄港湾であり、交通面のみならず軍事的・経済的・政治的支配拠点であったと考えます。この津をベースに陸運(=高速)通信移動網としての駅路網を構築したことは合理的であり、またそれ以外の方法(全く新たな場所に駅家を構築するなどの方法)は無かったと考えます。


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