2014年12月9日火曜日

古代国家の戦略的軍事物流施設としての船越

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.14【検討】平津駅へ向かう物流イメージ

律令国家が成立して最初の駅路網が整備された頃、陸奥国における蝦夷戦争が国家的重大事案であり、駅路網はその戦争を遂行するために設けられたといっても過言ではないと思います。

その時代の高速通信移動網が陸路中心の駅路網です。

その時代の戦時動員物流網が水路中心(一部陸路区間〔船越〕を含む)の水運網です。

涸沼河口の平津駅が物流面で陸奥国へ出発する最終拠点であったと考えた時、東国諸国の兵糧等の物資がどのような経路で動員されたか、そのイメージを絵にしてみました。

【検討】下総国、常陸国領域を経由して平津駅へ向かう物流イメージ

下総国に存在する3箇所の船越の開発が行われていなければ、東国諸国からの水運による物資動員が極めて困難であったことがわかります。

下総国の3箇所の船越は蝦夷戦争遂行のために必須の社会インフラだったのです。

3箇所の船越のうち、花見川-平戸川船越はその特異な地勢から最も効率的に陸路部分を越すことができることから、東京湾と香取の海をつなぐメイン船越であったと考えます。

律令国家は花見川-平戸川船越を整備し、それによって蝦夷戦争のための兵員兵糧の輸送を可能としたのです。

さらにこの船越の場所に浮島牛牧、高津馬牧(いずれも延喜式記載)を設けて周辺の地域開発も進めたのです。

花見川-平戸川船越はまことに国家的意義のある戦略的軍事物流施設です。

私が古代「東海道水運支路」(仮説)を唱える所以です。

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