2015年2月24日火曜日

上ノ台遺跡 軍需品としての牛、殺牛・祭神・魚酒

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.73 上ノ台遺跡 軍需品としての牛、殺牛・祭神・魚酒

古墳時代遺跡上ノ台遺跡の住居趾から牛骨が出土したことに関して、第1報として浮島牛牧(奈良・平安時代、上ノ台隣接地)との関連について記事を書きました。(2015.02.14記事「上ノ台遺跡から出土した古墳時代牛骨の重要意義」参照)

この記事に加え、牛骨出土に関して深めた考察内容を記録しておきます。

1 牛骨出土状況
牛骨の出土住居趾は遺跡(集落)のほぼ中央付近に存します。

牛骨出土住居趾の位置

牛骨出土住居趾の西側は住居趾分布がまばらになっていて、おそらくその付近がこの遺跡(集落)の広場があった場所であると考えています。

出土牛骨は、上顎の歯9乃至10個、下顎の歯4個、脛骨切断品1個です。

出土状況写真は次の通りです。

牛骨出土状況写真 1
「千葉・上ノ台遺跡 図版編1」(1983、千葉市教育委員会)より引用

牛骨出土状況写真 2
「千葉・上ノ台遺跡 図版編1」(1983、千葉市教育委員会)より引用

2 古墳時代の牛の意義 -軍需品としての牛-
佐伯有清著「牛と古代人の生活」(日本歴史新書、至文堂、1967)には古墳時代の牛について次のような記述があります。

「家牛が日本に農耕文化とともにはいってきた時代には、すでに牛は一部の共同体の首長の所有物としてであり、当時の牛が水田の耕耘にもちいられたことは、まず考えられず、主として宗教儀礼のために飼養され、とくに共同体の成員のなかでも、首長クラスの葬礼とか、また祭祀的首長の管理のもとに、農耕儀礼か、あるいは病気平癒のための呪術的な儀礼に牛が犠牲とされていた可能性がつよい。」

この文章を読んで、特に水田耕作にもちいられたことは、まず考えられないという記述に、自分に専門的知識が無いにもかかわらず、強く感心し共鳴しました。

上ノ台遺跡では米が食べられたことがあるという証拠はありますが、牛による耕耘が効率化をもたらしたに違いないと考えられるような広い水田があったとは、とてもとても考えられません。(2015.02.19記事「上ノ台遺跡 米・雑穀栽培」参照)

また雑穀や麻等の栽培で牛を使ったとイメージできるような状況を見つけることができません。

従って、上ノ台遺跡の牛は耕耘用に飼養された牛ではなく、別の意義のある牛だと考えます。

以下、上記図書の「官牛牧の成立」の項の記述を参考に、自分なりに上ノ台遺跡の牛について考察を深めてみます。

上ノ台遺跡の牛について考えるヒントは、奈良時代になって上ノ台遺跡隣接砂丘上に官牧としての浮島牛牧が設置されることにあると考えます。

上記図書では官牛牧とは兵部省が所管し、その意味として、牛とは兵器や馬と同じ重要な軍国の資であったことを詳しく説明しています。

つまり牛はもっぱら駄用として、主として戦時の物資輸送に備えるために国家管理していたことが述べられています。私牛についてさえも全て国家が把握していたとのことです。

現代風にいえば、牛はさしずめ軍用トラックです。

奈良時代には、牛は重要な軍需品であったことがわかったのですが、上ノ台遺跡が存在した6-7世紀の古墳時代にあっても、牛のこのような意義がすでに存在したと考えました。

つまり、上ノ台遺跡(集落)の人々によって、隣接砂丘上で牛の繁殖・飼養が行われ、軍需品として出荷されていたのではないかと想像します。

逆に言えば、6-7世紀頃に上ノ台遺跡(集落)で牛の繁殖・飼養が産業となっていたからこそ、奈良時代にその場所が官牧としての浮島牛牧設置に至ったのだと思います。

また、6-7世紀頃に上ノ台遺跡(集落)で牛の繁殖・飼養が産業となっていて、多数の牛を抱えていたからこそ、牛がきわめて貴重な物であるにもかかわらず、集落の人々は1頭の牛を殺して、その骨を住居内に残したのだと思います。

3 住居内出土牛骨の意義 -殺牛・祭神・魚酒-
出土牛骨に切断された脛骨が含まれていることに強い興味を持ちます。

住居内で牛肉を酒の肴にして宴があった証拠であると考えます。

牛の頭骨を置いて、その傍で集落のメイン生業である牛の繁殖・飼養の成功祈願をし、牛肉を一緒に食うことで関係集団の結束を図ったものだと考えます。

殺牛し祭神し魚酒したのだと思います。

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