2015年3月24日火曜日

小型竪穴住居址の住人は誰か

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.95 小型竪穴住居址の住人は誰か

このブログの一連記事の問題意識(花見川-平戸川筋の古代交通)とずれてしまいますが、古代遺跡発掘調査報告書を多数閲覧して気になっている事柄をメモしておきます。

上ノ台遺跡、直道遺跡、白幡前遺跡などの発掘全体平面図に描かれている竪穴住居址をみると、時々小型のものが目に付きます。

竃があるので住居であることに間違いないと思いますが、柱穴があっても1-2であり、柱穴のないものが多いです。住居としては粗末なものであったと考えます。

上ノ台遺跡の小型竪穴住居址の例
「千葉・上ノ台遺跡」(1981、千葉市教育委員会)より引用、追記

直道遺跡の小型竪穴住居址の例
「千葉市直道遺跡」(1995、財団法人千葉市文化財調査協会)より引用、追記

白幡前遺跡の小型竪穴住居址の例
「八千代市白幡前遺跡-萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅴ-本文編」(1991、住宅・都市整備公団首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター)[千葉県文化財センター調査報告第188集]より引用、追記

資料 白幡前遺跡1群Aグループの竪穴住居跡
「八千代市白幡前遺跡-萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅴ-本文編」(1991、住宅・都市整備公団首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター)[千葉県文化財センター調査報告第188集]より引用

小型竪穴住居址は外形が3m×3m程度で、実際の居住部分の広さは2.5m×2.5mよりも狭いものです。
人は腰をかがめて座るか、寝るしかない天井高だったと思われます。

この一段と粗末で狭小な小型竪穴住居址に誰が住んでいたか、気になりました。

しかし、各遺跡発掘調査報告書にはこの小型竪穴住居の用途についての記述はありません。

発掘関係者はこの特徴ある小型竪穴住居の用途、あるいは利用者がだれであるかわかっているのだけれども直接証拠がないので言及をさけているのだと思います。

古代遺跡の竪穴住居址に関する研究論文や専門図書には恐らく、一般論としての確定正解が既に存在すると思います。

しかし、小型竪穴住居址の利用者の問題にも興味を持って論文や専門図書を調べ出すとブログのテーマが発散しすぎて、何が何だかわからなくなってしまいます。
そこで、能動的に調べることは当面しないで、本来テーマを検討することに専念することとします。

この記事では現時点における、正解を見ていない段階での直感レベルでの考えを記録しておきます。

1 小型竪穴住居址の住人あるいは利用法の予想1
直観的には集落リーダ等の私有財産である奴婢(奴隷)の住居であると考えます。

蝦夷戦争で俘囚が陸奥国から多数送られてくるので、奈良時代には奴婢の数も増え、白幡前遺跡の(部分的な)例では小型竪穴住居址群となっていて、奴婢(奴隷)キャンプの様相を呈しています。奴婢は貴重な現場労働力だったのだと思います。

2 小型竪穴住居址の住人あるいは利用法の予想2
つぎのような住人あるいは利用法も考えられますが、私にはいずれも机上の空論のように思えてしまうものです。

・財力のある家族が一種の子ども部屋とか離れとして使っていた。
・貧しい住民(家族)の住居であった。
・来訪者用の臨時宿泊施設であった。
・単身者用住居。
・茶室の起原となるような静謐空間、祈りや信仰の場として利用された。

いつぞに小型竪穴住居址の用途が判った時がきましたなら、その結果をブログ記事で報告します。

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