2015年9月16日水曜日

須恵器窯と土師器焼成遺構 その1

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.206 須恵器窯と土師器焼成遺構 その1

鳴神山遺跡出土土器の中に南河原坂窯跡群に特注して納品されれた遺物が含まれていることがヘラ書き土器の文字によってわかったという調査結果を知りました。
2015.09.15記事「鳴神山遺跡の特注品であることを示すヘラ書き土器(追補情報)

鳴神山遺跡と南河原坂窯跡群は直線距離33㎞はなれ、かつ下総国と上総国という国の違いを乗越えた交易であり、興味を引きます。

ヘラ書き土器は土器生産地で書かれ、墨書土器は土器消費地で書かれたという違いに立脚して始めてわかった事実です。

このような興味深い事実を十分に咀嚼するために、寄り道になりますが、鳴神山遺跡の検討から少し離れて、ヘラ書き土器について学習することにします。

学習は、房総における須恵器釜と土師器焼成遺構について全体像を把握し、それとヘラ書き土器の関係を分析してみたいと思います。

1 房総における須恵器釜と土師器焼成遺構の分布

「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)掲載の「須恵器釜と土師器焼成遺構の分布」を示します。

須恵器釜と土師器焼成遺構の分布
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用

この情報は今後GISに取り込み、詳しく検討したいと思います。

2 南河原坂窯跡群と権現後遺跡のヘラ書き土器の割合

南河原坂窯跡群は須恵器釜と土師器焼成遺構の双方を有する房総で最大級の土器生産施設です。
また権現後遺跡は鳴神山遺跡直線距離6㎞という近い位置にある土師器焼成遺構7基を擁する遺跡です。

この2つの遺跡出土墨・刻土器に占めるヘラ書き土器率を調べてみました。

出土墨・刻土器におけるヘラ書き土器の割合(表)

出土墨・刻土器におけるヘラ書き土器の割合(グラフ)

参考 南河原坂窯群、権現後遺跡、鳴神山遺跡の位置

南河原坂窯跡群出土墨書・刻書土器に占めるヘラ書き土器率はなんと97.5%で残りは「印」です。

南河原坂窯跡群出土の土器全体数を知らないので断定できませんが、生産した須恵器・土師器の多くに「銘」が入れられていたと考えて間違いありません。

その「銘」は鳴神山遺跡の場合は発注者を識別するためのものでした。

一方土師器焼成遺構が存在する権現後遺跡出土墨書・刻書土器に占めるヘラ書き土器率は何と0.5%です。

権現後遺跡で生産された土師器にはヘラ書きは全くされなかったと考えて間違いないと思います。

この二つの遺跡の例から、(発見されていないだけで多数あったと考えられる)土師器焼成遺構ではヘラ書きはほとんどなく、大規模土器生産施設では生産物にヘラ書きをする場合があったという想定が生れます。

ヘラ書き土器はブランド品であるとの考えと整合します。

こうした考えが他の遺跡にも当てはまるのかなどについて、詳しく検討してみます。

つづく

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