2015年9月15日火曜日

鳴神山遺跡の特注品であることを示すヘラ書き土器(追補情報)

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.205 鳴神山遺跡の特注品であることを示すヘラ書き土器(追補情報)

2015.09.14記事「鳴神山遺跡のヘラ書き土器の割合」で「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書 XIV -印西市鳴神山遺跡Ⅲ・白井谷奥遺跡-」(平成12年3月、都市基盤整備公団千葉地域支社千葉ニュータウン事業本部・財団法人千葉県文化財センター)から得た情報として次の記述をしました。

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報告書の中で、鳴神山遺跡Ⅲ225竪穴住居出土須恵器甕底部の「弓」字形と全く同一の記号が千葉市緑区南河原坂窯跡群30号・35号住居出土坏に見られること及び、鳴神山遺跡Ⅰ・Ⅱでは「弓」字形が墨書と線刻の史料が見られることを指摘しています。

同時に、鳴神山遺跡Ⅲ251竪穴住居検出の皿型土器の同一個体表裏面に見られるヘラ書き「工万」がやはり千葉市緑区南河原坂窯跡群63号土壙出土坏底部に同様のヘラ書きが見えることを指摘し、文字を見る限りでは同筆である可能性も否定できないとしています。

この2つの指摘を論拠として、ヘラ書きは生産地において記されるものであり、製品の発注者を表示するものである可能性と製作工人を表示する可能性の双方を検討しています。
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この興味深い発掘調査報告書の記述の素となった史料をデータベースから探して見ましたのでその情報を1枚の絵にまとめてみました。

鳴神山遺跡と南河原坂窯跡群の位置

「弓」字形史料

「工万」史料

ヘラ書き文字は確かに「工万」ですが、漢字知識のない土器製作工人が「千万」の図柄を転写する時に「工万」になってしまった可能性も有り得ると思います。

直線距離で南河原坂窯跡群と33㎞離れた鳴神山遺跡が土器生産を発注し、その特注品に発注者のロゴを入れて納品したという事実は大変興味深い事実です。

なお、鳴神山遺跡出土ヘラ書き土器の文字には上記以外に「万」、「八」、「大ヵ」、「久」などが含まれます。

そして、鳴神山遺跡から「万」が書かれた墨書土器(千万など)が48件、「八」が書かれた墨書土器(大八)が7件、「大」が書かれた墨書土器(大、大加、大八など)が228件、「久」が書かれた墨書土器(久、久弥、久弥良)が27件出土しています。

このデータから、「万」、「八」、「大」、「久」などのヘラ書き文字は生産地で製品の発注者識別のために使われた可能性を濃厚に感じます。

このデータからはヘラ書きの文字が生産地の工人識別用であった可能性は全く感じられません。

もし、ヘラ書き文字が生産地の工人識別用であったなら、上記のような対応はあり得ません。

さらに検討を深めると、もし「弓」、「万」、「八」、「大」、「久」などのヘラ書き文字が発注者識別用であるならば、それらの文字を墨書土器に使った集団毎に土器を特注していたことになります。

萱田遺跡群の検討では、墨書土器の文字を共有する集団はそれぞれ特定の使命を持つプロジェクト集団(職能集団)であるというイメージを持ちました。

墨書土器の文字を共有する集団が33㎞離れた土器生産地に各々別々に土器生産を特注していたとすれば、その集団(プロジェクト集団、職能集団)の独立性を考える上で重要な情報になります。


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