2015年9月9日水曜日

遺構(建物)からみた鳴神山遺跡の特性

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.201 遺構(建物)からみた鳴神山遺跡の特性

2015.09.10
大きなミス(鳴神山遺跡掘立柱建物数の間違い)がありましたので、図表を含めて訂正しました。
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鳴神山遺跡の竪穴住居及び掘立柱建物の数を萱田遺跡群遺跡と比較してみました。

鳴神山遺跡と萱田遺跡群遺跡の建物情報比較
小数点第2位で四捨五入。


竪穴住居10軒あたり掘立柱建物棟数

「竪穴住居10軒あたり掘立柱建物棟数」((掘立柱建物棟数/竪穴住居件数)×10)という指標で見ると鳴神山遺跡の数値は北海道遺跡の倍以上で権現後遺跡に近い値となっています。

北海道遺跡は萱田遺跡群の中では比較劣位な権力関係位置にあったと考え、奴隷労働なども想定される農業生産中心の集落であると想定してきています。

北海道遺跡には集落生産活動の再生産に必要な限りでのベーシックな数の掘立柱建物が存在していたけれども、白幡前遺跡や井戸向遺跡に想定されたような戦略的兵站備蓄倉庫や軍事活動に必要な建物は無かったと考えました。

鳴神山遺跡の指標値はそのような想定をした北海道遺跡のレベルでないことが確認できました。

権現後遺跡は遺構・遺物から土師器生産団地であることは確実です。白幡前遺跡が周辺に持つ特定プロジェクト開発地の一つであると想定しています。

「竪穴住居10軒あたり掘立柱建物棟数」という指標値だけから見て、また、鳴神山遺跡は銙帯出土数が少ないこと(配置された官人が少なかったこと)などの情報も勘案して、鳴神山遺跡はより上位拠点の支配下にあったものと考えます。

鳴神山遺跡を支配していた上位拠点が白幡前遺跡であるのか、あるいは別の場所にある拠点であるのか、これから検討を深めたいと思います。

鳴神山遺跡は墨書土器出土が多いので、組織された集団が活発に活動していたと考えられます。

現時点では組織集団の活動内容の1つに印旛浦と於賦駅家方面(布佐付近)を結ぶ台地越えの輸送活動があったと想定しています。

輸送活動というサービス業務以外にどのような活動を行っていたのか、どのような生業で暮らしていたのか、今後検討を深めたいと思います。

参考 鳴神山遺跡の位置

参考 鳴神山遺跡遺構配置図
赤丸は掘立柱建物、青丸は竪穴住居を示す

「千葉北部地区新市街地造成整備事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ-印西市鳴神山遺跡・白井谷奥遺跡-」(平成11年3月、千葉県企業庁・財団法人千葉県文化財センター)から引用した図をGIS画面に埋め込み

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