2015年12月25日金曜日

鳴神山遺跡道路遺構に対する疑問 4

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.253 鳴神山遺跡道路遺構に対する疑問 4

鳴神山遺跡の直線遺構について、台地上の溝であることから野馬堀に違いないと強い先入観の元に考えましたが、発掘調査報告書をよく読むと、発掘調査報告書に書いてあるように、それが道路であると考えるようになりました。

自分の思考に盲点があったことが判りました。

その盲点とは、古代道路の断面形状についての基礎知識が無いことでした。

次の図は「千葉県の歴史 資料編考古3(奈良・平安時代)」(千葉県発行)に掲載されている新山(しんやま)遺跡の台地上の道路例です。

新山遺跡
道路跡は第1地点では上部幅3.5~4.6m、底部幅3.0~3.5m、深さ0.85~1.0m(確認面を基準とした値)の浅い溝状を呈する。底面には幅0.4~1.8mの2条または3条の硬化面が0.8mほどの間隔をあけて南北方向に延びている(図3)。第2地点では上部幅3.5~3.7m、底部幅1.5~2.0m、深さ0.1~-0.4mの溝状を呈し、底面には0.3~0.6mの硬化面が2条南北方向に延びる。覆土は自然堆積を示し,硬化面は両端がわずかに高く、中央部がくぼんでおり浅い皿状を呈している。
「千葉県の歴史 資料編考古3(奈良・平安時代)」(千葉県発行)から引用

台地上の古代道路が全体として大きな溝となっています。堀と表現してもよいと思います。切通と表現してもよいと思います。

このような下総台地における古代道路事例を知っていなかったということに気が付かなかったというお粗末盲点でした。(*)

台地上の道路が溝(堀、切通)になっている理由について知りたいと思います。

現段階ではその大きな理由として牛馬の通行が関係していると考えました。

古代の道路では人だけの通行ではなく、牛馬の円滑な通行が重要であり、牛馬が確実に道を歩くためには、道と道以外の土地を牛馬にもわからせる必要があり、そのために溝を掘り、段差を設ける必要があったのではないかと推察しました。

鳴神山遺跡のM004遺構が道路であると自分が確信するために、寄り道として下総台地の発掘古代道路事例を調べてみたいと思います。

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2015.12.26 追記
* 上記文章で最初「お粗末」と書いたのですが、違和感を感じたので、盲点と訂正しました。

その後、お粗末と感じるか、盲点と感じるかの差異に、自分にとっての大きな情報が含まれていることに気が付き、最初はお粗末と感じたという記録を残すために、お粗末盲点と再訂正しました。

ブログ「花見川流域を歩く番外編」2015.12.26記事「私のお粗末・盲点論争」記事参照







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