2016年1月18日月曜日

鳴神山遺跡紡錘車の年代別出土イメージ

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.269 鳴神山遺跡紡錘車の年代別出土イメージ

2016.01.16記事「鳴神山遺跡鉄鏃の年代別出土イメージ」と同じ趣旨・方法・データ源で紡錘車の検討を行います。

(この記事のデータは「「千葉北部地区新市街地造成整備事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ-印西市鳴神山遺跡・白井谷奥遺跡-」(平成11年3月、千葉県企業庁・財団法人千葉県文化財センター)」掲載資料から作成しました。)

上記記事では、鉄鏃つまり経済(生産)と関わらない武器(対人殺傷兵器)の出土状況を検討しました。

武器の出土率が9世紀第2四半期から急に高い値となることから、その頃から武器の装備水準を特段にアップする必要があるような、治安の急速な悪化を想定しました。

この記事では、その検討と対照させるために、集落の主要生業の一つであったと考える麻生産・紡績・織物に関わる道具のうち遺物として出土する紡錘車について検討します。

紡錘車の年代別出土竪穴住居軒数イメージを次に示します。

鳴神山遺跡 年代別紡錘車出土竪穴住居軒数イメージ
紡錘車の数は石製・土器片リサイクル品・鉄製を全て含んだものです。

このグラフのパターンは竪穴住居軒数消長パターンとほぼ同じです。

参考 鳴神山遺跡 竪穴住居の消長

集落の消長と紡錘車出土竪穴住居軒数変動が類似するので、紡績(とその前後の麻生産・織物)活動は集落の安定した生業であったことを類推させます。

次に竪穴住居100軒当たり紡錘車出土竪穴住居軒数を見てみます。要するに竪穴住居における紡錘車出土率です。

鳴神山遺跡 竪穴住居100軒当たり紡錘車出土竪穴住居数イメージ

蝦夷戦争準備時代から蝦夷戦争時代までの間は紡錘車出土率が上昇します。集落の成長に伴って紡績活動が盛んになったと考えることができます。経済活動が発展していった状況を感じることができます。

律令国家が8世紀第1四半期に蝦夷戦争の兵站基地として開発着手して、8世紀第4四半期には生産活動(紡績とその前後の活動)がフル回転状態になった様子を見ることができます。

動員解除・戦後時代になると、趨勢的には紡錘車出土率が若干アップしますが、それ以前のような急速なアップは見られません。集落における紡績(とその前後の麻生産・織物)活動の意義は少しずつ大きくなっているのですが、蝦夷戦争時代までに骨格が完成してしまい、それ以上の急速な成長はなかったからだと想像します。

このグラフと鉄鏃に関する同じ出土率グラフを対照すると、そのパターンが異なることから、新たな情報(類推)を生むことができます。

つまり、紡錘車出土率が動員解除・戦後時代に大幅にアップしたわけではありませんから、紡錘車出土率が暗示する集落資産の伸びは大幅なものではないと考えることができます。

ですから、盗賊による略奪圧が一定なら、その資産を守るべき武器(鉄鏃)の伸びは大幅である必要はありません。

ところが、9世紀第2四半期以降の鉄鏃出土率は特段に高くなっています。

これは守るべき資産が増大したことによるのではなく、盗賊による略奪圧が大幅に強まったためであると考えることができます。

集落資産の伸びが大きくないのに(紡錘車出土率の伸びが大きくないのに)、武器の伸びが大幅に大きくなっている(鉄鏃出土率の伸びが大きくなっている)理由を、外的要因(盗賊による略奪圧の増大)に求めることができると考えます。

参考 鳴神山遺跡 竪穴住居100軒当たり鉄鏃出土竪穴住居軒数イメージ

次に時代別紡錘車出土分布イメージ図を掲載します。

鳴神山遺跡竪穴住居からの紡錘車出土イメージ 8世紀第1四半期

直線道路南側から1件出土します。

鳴神山遺跡竪穴住居からの紡錘車出土イメージ 8世紀第2四半期

直線道路南側から2件出土します。

鳴神山遺跡竪穴住居からの紡錘車出土イメージ 8世紀第3四半期

直線道路南側からの出土が多くなっています。

鳴神山遺跡竪穴住居からの紡錘車出土イメージ 8世紀第4四半期

直線道路南側からの出土が多くなっています。

鳴神山遺跡竪穴住居からの紡錘車出土イメージ 9世紀第1四半期

この時代の最初期に直線道路が埋め立て廃棄されたと想定しています。地域分断の状況はなくなっています。
紡錘車出土は直線道路南側で増えています。
蝦夷戦争の動員が解除されてから直線道路南側が紡績の主な場所であったと考えます。

直線道路東端南側の台地が張り出した部分に初めて紡錘車出土竪穴住居が密集します。この場所は9世紀中紡錘車出土密集場所となります。

鳴神山遺跡竪穴住居からの紡錘車出土イメージ 9世紀第2四半期

直線道路南側で紡錘車出土が増えていて紡績の中心地域を形成しています。
この状況から直線道路の北側では紡績以外の生業が存在していたと想像します。

鳴神山遺跡竪穴住居からの紡錘車出土イメージ 9世紀第3四半期

集落が凋落傾向にあっても、紡績の中心は直線道路南側となっています。

鳴神山遺跡竪穴住居からの紡錘車出土イメージ 9世紀第4四半期

集落の終末期でも同じ直線道路(跡)南側が紡績の中心となっています。

集落のメイン生業の一つであった紡績(室内での製糸)活動という面から見るとその分布域は直線道路(跡)の南側であり、動員解除・戦後には直線道路東端南側のその中心が存在していたと捉えることができます。

紡績の原料となる麻栽培がどこで行われていたのか、今後検討します。

絹生産の可能性にも今後触れます。

また、紡績(製糸)だけでなく、織物縫製が行われ、衣類が作られていたと考えますが、その検討も今後行います。

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