2016年2月3日水曜日

鳴神山遺跡 万(マンドコロ)の検討1

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.280 鳴神山遺跡 万(マンドコロ)の検討1

2016.02.01記事「墨書土器文字検討メモ 万(マンドコロ)」で、鳴神山遺跡に多出する墨書文字「万」をマンドコロと読み、政所(財政や訴訟などの日常政治実務を処理した政庁)と理解しました。

その理解から、「千万」は銭政所(財政中心の政所)、「七万」は質政所(質屋)、「酒万」は酒政所(酒製造販売)、「中万」は中政所(仲間内の中級レベルの政所)、「上万」は上政所(集団を超えた上級レベルの政所)という解釈を導きました。

また、文字「大」、「大加」、「久弥良」、「山本」、「依」、「工」などは生業を一にする集団の祈願語であると考えましたが、「万」は各集団の中で政所機能を担う者(あるいは家族)がその機能全うの祈願語であると考えました。「万」という特定集団は存在しないと考えます。

万(マンドコロ)が出土した竪穴住居は(あるいはその場所をごみ溜めとして使った近隣の竪穴住居は)政所機能が存在していて、現在社会の機能で考えれば、銀行、質屋(サラ金)、酒屋、裁判所などの機能が圧縮して全部備わっていたことになります。

この政所を意味する文字「万」の年代別出土状況を次に示します。

鳴神山遺跡竪穴住居 文字「万」墨書土器出土イメージ

蝦夷戦争準備時代には全く出土しません。

蝦夷戦争時代に2点だけ出土します。政所という機能が蝦夷戦争時代に初めて導入されたと考えます。

動員解除・戦後時代の9世紀第1四半期に増加し、9世紀第2四半期にピークとなります。その後、集落の衰退傾向とともに出土数が減少します。

政所という機能は9世紀第1四半期に発展し、9世紀第2四半期に完成されたと考えます。

次に、文字「万」出土竪穴住居からの遺物出土状況を見てみます。

文字「万」出土竪穴住居からの遺物出土状況

「万」出土竪穴住居とサンプル全数を比較してみると、「万」出土竪穴住居は鉄製紡錘車、鉄鏃、刀子でサンプル全数と比べてその出土数が顕著に多くなっています。

この結果から「万」出土から想定される政所機能を担った竪穴住居は、生業の道具においては高機能品を装備し、自衛のための武器もより多く備えていたことがわかります。

一言でいえば、集落の中で支配の側にポジションを持つ資産のある竪穴住居であることを確認できます。

次に、文字「万」出土割合を年代別に見てみました。

鳴神山遺跡竪穴住居 文字「万」出土割合

8世紀第4四半期は4.0%、9世紀第1四半期は12.1%ですが、9世紀第2四半期になると22.9%となります。そしてそれ以降は25.8~25%です。

政所機能が定着したと考える9世紀第2四半期以降は4~5軒に1軒の割合で政所機能を備えた竪穴住居が存在していたと考えることができます。

つまり、4~5軒の隣組が存在していて、そのリーダーが政所機能を担っていたということです。

現時点では、この情報から、9世紀の鳴神山遺跡では、いくつかの生業集団が存在していて、各集団の末端組織が4~5軒で構成されていて、そのリーダーが政所機能(銀行、質屋(サラ金)、酒屋、裁判所)を担っていたと考えます。

政所機能を担う竪穴住居(家族)が近隣の3~4軒の竪穴住居(家族)を相手にするという、その規模を考えると、4~5軒のこの末端組織は、行政支配下部組織であるとともに、相互扶助的機能も備えていたと考えざるをえません。

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ウィキペディアの「保」の項に次のような古代律令制における五保の記述があります。

このような古代の行政末端単位と、この記事で検討した万(マンドコロ)の単位が対応するものかどうか、今後学習を深めます。

古代律令制における「保」[編集]

5戸を単位としたことから、五保(ごほ/ごほう)とも称した。5戸をまとめて保という。保長が責任者となって相互扶助・治安や徴税などに関して連帯責任を負った。

中国には秦の商鞅が定めた什伍に源流を持つ唐の隣保の影響を受けて成立したとされている。日本の戸令では「隣」の制度は設けず、郷・里の下に5戸を1単位とした「保」の制度のみを設けている。戸令には唐の規定を元にして「凡そ戸はみな五家相保れ、一人を長とせよ」(戸令・五家条)という規定が設けられていたが、当時の日本では、唐のように「戸=家」という形態になっていなかったために後に問題を残すことになった。なお、25戸以下の僻遠地には里長を置かず保長が代理する規定があった(「古記」)。

保は同じ保に属する戸に関して、戸が逃走した時には3年間は追訪、不在の間はその田を耕して租や調を納める連帯責任を負っていた。また、保内で犯罪が発生した場合の犯罪者の告発と被害者の救済義務や保内の人が他の場所に赴く際や外部の人間を止宿させる場合には相互告知の義務を負うなど、民衆を公民として本貫に拘束するとともに相互監視や貢租確保のための規定が設けられていた。

白雉3年(652年)に五保の制度が導入されたとする『日本書紀』の記述から、中大兄皇子による大化の改新の一環として導入されたとする見方もあるが、この記事自体を後世の脚色(大宝律令からの転載)とする見方もあり、確実な記述としては大宝2年(702年)に作成された御野国戸籍に記されているの(「正倉院文書」)が最古のもので、以後いくつかの保や保長に関する記述のある文献・木簡・漆紙文書が存在するほか、その記録は乏しい。これについては、当時の日本における戸の規模が大き過ぎた(実際には1戸が血縁関係のある複数の家(族)によって構成されていた)ために、地縁的な家をもって編成されるようになり、法文と実体に相違が生じたこととの関係と言われているが詳細は不明である。ただ、戸籍制度が形骸化した時期のものではあるものの、寛弘元年(1004年)に作成された讃岐国戸籍では、保を構成する戸の数は不定でむしろ地縁・地域を重視した編成になっていることを伺わせている。

また、律令法においては出挙や奴婢売買の連帯保証人として最高5名までの「保人」が必要であったことが、公式令に記されている。平安時代の土地売買文書に登場し、その後も用語として定着した「保証」の語はこの規定に由来していると考えられているが、「保人」が「五保」と同一の「保」を意味するのか、別のものなのかについては意見が分かれている。

ウィキペディアから引用
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