2016年2月4日木曜日

鳴神山遺跡 万(マンドコロ)の検討2

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.281 鳴神山遺跡 万(マンドコロ)の検討2

鳴神山遺跡出土墨書文字の「万」は政所(マンドコロ)であるとの解釈に基づいて検討を展開しています。

この記事では年代別「万」分布状況と特徴的な共伴出土文字について検討します。

なお、「万」は8世紀第3四半期までの出土はありません。


鳴神山遺跡竪穴住居からの墨書土器「万」出土イメージ 8世紀第4四半期

蝦夷戦争時代
「万」出土竪穴住居は2軒で、一方は「工」集団、「大」集団、「依」集団の祈願文字が出土します。この付近は掘立柱建物群の近くで「依」集団の本拠地であり、鳴神山遺跡の最初の拠点であったことは間違いないと考えます。

釈文「≡」という墨書土器が出土しますが、これをミソ(味噌)と読んで、この政所で味噌の製造販売が行われていたと想像します。

もう一方の「万」は直線道路すぐ脇であり、この時代にはまだ直線道路が機能していたので、この政所と直線道路が関係していたかもしれません。特にその位置が直線道路に近いだけでなく、この台地の中央部に位置していて、道路利用者にとって便利の良い場所にあるように感じます。今のところこの政所と道路をそれ以上に結びつける情報はありません。近々詳しく検討する予定です。

鳴神山遺跡竪穴住居からの墨書土器「万」出土イメージ 9世紀第1四半期

動員解除・戦後時代

「万」に共伴出土する生業集団に関わる文字は「大」、「山本」、「依」、「工」の4種類が出土します。

この時代の最初期までには直線道路が破棄埋め立てされたと考えられていますから、この図の情報は道路機能との関係が無いことになります。従って、直線道路の存在がその後の鳴神山遺跡集落形成に及ぼした影響はほとんど無かったと結論付けることができそうです。

直線道路跡を超えて北側に「万」の分布が広がります。

生業集団「山本」と一緒に「丈部」を含む長文土器が出土します。「山本」集団と集落の最高権力者「丈部」一族が結びつきます。



鳴神山遺跡竪穴住居からの墨書土器「万」出土イメージ 9世紀第2四半期

集落最盛期を迎え、「万」分布も最も広がります。

「万」に共伴する生業集団祈願文字は「山本」、「依」、「大」、「大加」、「久弥良」、「工」の6つが確認でき、集落内生業集団が最も増えた年代になります。「大加」「久弥良」は外部から集落に新たに移住したと考えています。「久弥良」(クビラ…金毘羅)は関西から移住してきた集団であると考えています。

「山本」に共伴して「丈部」が、また別の場所で「山本」の近くで「本家」が出土します。

このような「万」(政所…拠点)-「山本」-「丈部」「本家」という情報のつながりから、鳴神山遺跡がピークだった9世紀第2四半期では最高権力集団は丈部氏族であり、その氏族は「山本」を名乗り(実際に山=耕地の元締めであり)、他集団から本家として位置づけられていたことが判ります。

「山本」と一緒に「田に□」が出土する「万」がありますが、「山本」集団が水田耕作の元締めであったことを示していると考えます。

「大」と「依」が出土する政所から「申牛」という文字が出土します。これは「牛の所有を叶えてください」という祈願であると考えます。

耕地で使う牛を希望していたようですから、この付近が耕作地で、「大」あるいは「依」集団が農耕に従事していたことがわかります。
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参考

もう・す まうす【申】
〖他サ五(四)〗 (上代は「まをす」。上代末ごろから、それの変化した「まうす」の形が現われた)
③ (神仏や朝廷など支配者に)お願い申しあげる。所望申しあげる。
書紀(720)継体元年二月「神祇を敬祭、天皇の息(みこ)を求(まう)して」
『精選版 日本国語大辞典』 小学館
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「申牛」出土の近くの政所で「大」「久弥良」とともの「富長ヵ」が出土します。「富長ヵ」は「長(オサ…指導者)の役割を果たしている自分が富むように」という祈願だと考えます。「長」(オサ)という言葉がある程度の上級指導者であると考えると、この出土場所一体付近が、この年代の集落中心地であると考えることができます。

「万」の文字多出遺構が重なり、その場所から「大」、「長」、「卅」が出土します。「長」(オサ)に注目すると、この場所は「大」集団の根拠地であることが確認できます。

「卅」はミソと読み政所で味噌製造販売が行われていたと考えます。

「大」「大加」と「攴」が出土する政所があります。「攴」は鞭打つという意味で、刑罰執行を意味すると考えます。

「攴」は警察業務の祈願語であると考えます。

「大加」集団は「弓」(戦闘業務)の文字も使っていますから、戦闘員(武士)であり、同時に刑罰執行人でもあったと考えます。

「大」集団が親元になり、「大加」集団を外部から招き、集落の警備と治安維持を図っていたと考えます。


鳴神山遺跡竪穴住居からの墨書土器「万」出土イメージ 9世紀第3四半期

9世紀第2四半期と似た状況が続きます。

鳴神山遺跡竪穴住居からの墨書土器「万」出土イメージ 9世紀第4四半期

集落の衰退とともに「万」出土遺構(政所)も減少します。

「山本」の出土がありませんから、この頃には盛時の権力構造は失われていて、最古参の「依」集団と「山本」配下であった「大」集団やさらにその配下「久弥良」集団により集落が構成されていたようです。

鳴神山遺跡竪穴住居からの墨書土器「万」出土イメージ 10世紀第1四半期

「万」と共伴する文字は「依」だけです。

竪穴住居数はたった4軒(183軒サンプル調査)になりましたが、「万」が出土しますから、政所が存在していたことが確認できます。この場所に10世紀になっても行政機構が存在していたことを知ることができました。

鳴神山遺跡竪穴住居からの墨書土器「万」出土イメージ 10世紀第2四半期

10世紀第1四半期と状況は同じです。


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