2016年5月24日火曜日

古代房総の海人(あま)の活動

古代地名「イラ」の分布拡大と海人(あま)の活動が重なるものと考え、房総の「イラ」地名は海人(あま)がつけた地名であると考えました。

その考えに基づき、房総における海人(あま)の活動について、次のような想像図を作成しました。

2016.05.22記事「古代地名「イラ」の追考」参照

海人(あま)の活動領域(想像)

説明


海人(あま)の列島展開を調べると次のような記述が見つかりました。

……………………………………………………………………
あま 【海人】

古文献に海人,海部,蜑,白水郎などと記す。

海を主なる生業の舞台とし,河川,湖沼で素潜〘すもぐ〙りする漁民をはじめ,釣漁,網漁,塩焼き,水上輸送・航海にたずさわる人々を,今日いう男あま(海士),女あま(海女)の区別なく〈あま〉と総称する。

【系統と分布】
日本民族の形成過程のなかで,かなり明瞭にあとづけられるのは南方系であり,インド・チャイニーズ系とインドネシア系に大別されよう。

前者は,古典にみえる阿曇〘あずみ〙系およびその傍系である住吉系漁労民で,中国南部の閩越〘びんえつ〙地方の漂海民の系統をひき,東シナ海を北上し,山東半島から遼東半島,さらに朝鮮半島西海岸を南下し,多島海,済州島方面を経て玄界灘に達する経路をたどったと推定される。

後者は,宗像〘むなかた〙系海人と呼ばれ,フィリピン付近海域から黒潮の流れに沿ってバシー海峡,台湾,沖縄,奄美諸島などサンゴ礁の発達した島嶼〘とうしよ〙を伝って南九州に達したと考えられ,古典にいう隼人〘はやと〙系に属する。

両系の種族が日本へ達した前後関係は明らかでないが,玄界灘で交差し,混血も行われたであろう。

阿曇・住吉系はしばらく北九州海域を根拠地とし,のち,瀬戸内海中心にその沿岸と島々,さらに鳴門海峡を出て紀州沿岸を回り,深く伊勢湾に入り込み伊勢海人として一大中心点を構成し,さらに外洋に出て東海道沿岸から伊豆半島ならびに七島の島々に拠点をつくった。

それより房総半島から常陸沿岸にかけて分布した。

彼らは航海に長じ,漁労をも兼ねる海人集団とみられる。

これに対し,宗像系海人は,もっぱら手づかみ漁,弓射漁,刺突漁など潜水漁を得意とした。

本拠を筑前宗像郡鐘ヶ崎に置き,筑後,肥前,壱岐,対馬,豊後の沿岸に進出,さらに日本海側では向津具半島の大浦,出雲半島と東進,但馬,丹波,丹後から若狭湾に入り,なお能登半島,越中,越後,佐渡に渡り,羽後の男鹿半島に及んだ。

両系統とも,なかには河川を遡上し内陸部へ進み陸化したものもあった。

彼らの定住地の跡には,その記念碑ともいうべき関連地名が残されている。

海部そのままの名や,4~5世紀のころ,朝廷から海人族を宰領する役割を担った▶阿曇氏に関係あるものが目だつ。

また,その奉斎する祭神から移動,分布が推定される。

三島神社の祭神大山祇〘おおやまつみ〙神は,《古事記》によれば,薩摩半島笠佐岬付近にまつられたが,早く摂津淀川の中流の三島,伊予の大三島,さらに伊豆の白浜のち三島に移された。

宗像系による宗像神社の分布も津々浦々に及び,住吉の神は長門,摂津,播磨などのほか全国的に広く勧請された。

『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ から引用

……………………………………………………………………

海人(あま)は航海に長じ,漁労をも兼ねる海人集団であり、なかには河川を遡上し内陸部へ進み陸化したものもあったとあります。

またその奉斎する祭神から移動,分布が推定されるとして、宗像神社の分布にも触れています。

そこで、「海人(あま)の活動領域(想像)」図とこれらの記述から展開導出された、海人(あま)活動に関する思考(想像)を次にメモしておきます。

● 房総における海人(あま)の活動

その1 アワビ生産と西日本出荷

海人(あま)の主な漁撈域は岩場であり、アワビ生産ができる場所です。

海人(あま)は漁業生産一般の増大をもとめて房総にまでやってきたのではなく、アワビをもとめて房総にやってきたと考えます。

古代ではアワビは特別な海産品で、房総の特産物であったと考えます。大和政権に対する献上品として価値が特段に大きなものであったと考えます。

……………………………………………………………………
アワビ【鮑】 
abalone

【民俗】
《延喜式》にアワビの加工品の名が多く見え,多くの料理に利用されていた。

アワビは乾燥して中国にも輸出され,貝殻は細工用となるほか眼病の薬ともなり,真珠も採取されるなど古来海人〘あま〙と呼ばれた漁民の生活の対象であった。

加工品の中でも〈熨斗鮑〉は貴人や神祭の食物として供された。

また,武士の出陣,帰陣にも吉例としてこれを出した。

アワビは海産の食物として代表的であり,また常時準備しておくことが可能なものだったからであろう。

このことから他の人への贈物としてもアワビは貴重であり,品物に添えて形ばかりでもこれを供したのが,現今の熨斗紙の起りである。

また,各地にアワビを祭る神社のあることが知られているが,南方熊楠は,アワビが一枚貝で内面の真珠質の部分に光線のぐあいで神仏の像に似た模様が浮き出るのを神秘と見た結果ではないかと論じた。

千葉 徳爾

『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ から引用

……………………………………………………………………

その2 西日本から房総へ向かう移住者の東海道運搬

弥生時代中期後葉以降西日本から房総への人の移動が急増します。

この人の移動は、海人(あま)が構築整備した列島規模の水運ルートを活用して実施されたと考えます。

この列島規模の水運ルートが古代東海道ということになります。

参考 西日本から房総への人移動が最初に急増した頃の拠点集落

弥生時代中期後葉における拠点集落の分布
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)から引用

弥生時代中期後葉における拠点集落は環濠集落のものが多く、西日本社会の影響を強く受けており、その住民の多くは西日本からの移住者であった可能性が指摘されています。(「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行))

それ以前の房総弥生時代社会は在地の縄文人が弥生文化に染まっていった社会であると考えます。

西日本から房総に移住した集団と、その集団の出身地域との交流も存在していたと考えます。(移住集団の先遣隊と出身地域との連絡等)

その3 西日本から到着した移住者の現場ガイド

海人(あま)は房総内の水運ルート網を構築整備して、西日本から到着した移住者集団の定着場所探しをガイドしていたと考えます。

次の図は印旛古代4氏族の入植ルート及び順番を想像した図です。

印旛古代4氏族の入植順番(想像)

2015.10.29記事「参考メモ 房総古代の開拓に関する空間大局観」参照

一族郎党を引き連れて西日本から房総に到着できても、現場ガイドなしでは適切な場所に入植できる保証はありません。

移住者集団は必ず現場ガイドの助力を必要としたと考えます。

その現場ガイドが海人(あま)です。

移住者集団は海人(あま)から入植可能地がどこにあるか、そこまでの移動ルート、先着している移住者集団の様子、先住民(縄文人)の様子などの情報を得ていたと考えます。

海人(あま)も現場ガイドを生業の一つにしていたと考えます。

その4 入植地定着と入植地における水運活動

その3掲載図中の「宗像神社を祀る古代氏族」とは海人(あま)族である宗像一族です。

九州からやってきました。

海人(あま)みずからが印旛沼に定着して、印旛沼-香取の海の水運に関わって、印旛沼開発の一翼を担っています。

その5 先住民との交易活動について

その1~その4以外に、海人(あま)が先住民と交易していたことも考えられます。

しかし、房総の先住民が生産する品物で海人(あま)が全国に供給するような価値のあるものがあったのかどうか、情報がありません。

先住民が生産する品物で価値のあるものがなければ、房総では海人(あま)は先住民と交易をしていなかったかもしれません。

この項目は今後の検討課題とします。


0 件のコメント:

コメントを投稿