2016年7月31日日曜日

上谷遺跡 遺構別墨書土器出土数

上谷遺跡の遺構別墨書土器出土数について、これまで検討した近隣遺跡と比較して、特徴があるか検討してみました。

近隣遺跡の遺構別墨書土器出土数の表とグラフを示します。

上谷遺跡と近隣遺跡の遺構別墨書土器出土数 グラフ1

上谷遺跡と近隣遺跡の遺構別墨書土器出土数 グラフ2

上谷遺跡と近隣遺跡の遺構別墨書土器出土数 表

上谷遺跡は、竪穴住居から出土する墨書土器の%は他の遺跡と同様ですが、掘立柱建物から出土する墨書土器の%が高くなっています。

一般に、掘立柱建物からの遺物出土はすくないので掘立柱建物の利用目的等を知ることが困難です。

しかし上谷遺跡で全体の5.5%である57点の墨書土器が掘立柱建物から出土していますから掘立柱建物の利用状況の推察に墨書土器が利用できる可能性が他の遺跡より高まります。

なお近隣遺跡で掘立柱建物からの墨書土器出土が最も高いのは井戸向遺跡6.9%(19点)で上谷遺跡が2番目に多い遺跡になります。

3番目に多い遺跡は船尾白幡遺跡3.3%(16点)ですが、この遺跡では掘立柱建物の柱穴に「小」の墨書土器が出土し、「子」(コ)=蚕(コ)であることから、掘立柱建物の用途が繭を生産する蚕小屋であることが判明しました。

2016.03.25記事「船尾白幡遺跡における養蚕を示す墨書文字「子」「小」」参照

2016年7月30日土曜日

上谷遺跡出土墨書土器の概要

上谷遺跡遺構のGIS化に時間がかかりそう(*)なので、遺跡内空間分析は追って行うこととし、最初に公開データベースを利用して出土墨書土器の概要を検討します。

*2016.07.29記事「千葉県八千代市上谷遺跡の学習検討方針」参照

1 遺構別墨書土器出土数

遺構別に墨書土器出土数を整理すると次のようになります。

上谷遺跡 遺構別墨書土器出土数

竪穴住居からの出土が多く、掘立柱建物からの出土が少ないのはどの遺跡も同じですが、今後近隣遺跡の同様統計と比較して確認することとします。

土坑や溝状遺構からの出土が少なく、その点で他の遺跡との違いがありそうです。

2 墨書土器 文字別出土数

墨書土器の文字別出土数をまとめると次のようになります。

上谷遺跡 墨書土器 文字別出土数

多く出土する文字は限られていて、得、西、竹、万が該当します。

これらの文字の意味の検討はこの記事ではなく、今後墨書土器データをGISデータベース化して空間分析できるようになってから行います。

なお、萱田遺跡群、鳴神山遺跡、船尾白幡遺跡などでは得、西、竹はほとんど出土しませんから興味が深まります。

また人面土器、長文土器が多数出土しますので、今後じっくり検討します。

近隣他遺跡と比べて文字のバリエーションが貧弱であるような印象を受けますが、本当にそうであるか、統計的に近隣遺跡と今後比較します。

文字別出土数カウントの資料を次に示します。

文字別出土数カウント資料 1

文字別出土数カウント資料 2

3 器質器種別出土数

墨書土器の器質器種別出土数を次に示します。

上谷遺跡 墨書土器 器質器種別出土数

土師器坏が圧倒的に多くなっていて、この傾向は近隣遺跡と同様の結果となっている考えますが、今後統計的に確認作業を行います。

土師器坏が祈願用に使われる個人所有食器であったと考えます。

4 墨刻別出土数

墨書土器の墨刻別出土数を次に示します。

上谷遺跡 墨刻別出土数

墨書が圧倒的多くなっています。

朱書は墨書よりも祈願に特別な意味を含ませていると考えますので、その文字等の検討を今後行います。

ヘラは焼成前に土器製造職人が書いた文字(記号)ですから、土器利用者が書いた墨書・刻書とは意味が異なります。

従ってヘラの文字(記号)等の意味について墨書・刻書等とは分けて検討するつもりです。


2016年7月29日金曜日

千葉県八千代市上谷遺跡の学習検討方針

遺跡文献の悉皆閲覧計画」(2015.01.18記事)の一環として千葉県八千代市上谷遺跡について、その発掘調査報告書の学習検討に着手します。

1 学習検討に使う報告書

学習検討対象発掘調査報告書は次の6冊です。

「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第1分冊-」(2001、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)

「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第2分冊-」(2003、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)

「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第3分冊-」(2004、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)

「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第4分冊-」(2004、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)

「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第5分冊-」(2005、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)

「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第1分冊本文編-」(2005、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)

学習検討対象の発掘調査報告書

なお、第1分冊、第2分冊は貸出可能図書館がないため、必要部分をコピーして利用し、それ以外は八千代市立中央図書館の貸出サービスにより自宅で利用できます。

2 学習方針

近隣の遺跡について白幡前遺跡、井戸向遺跡、北海道遺跡、権現後遺跡、鳴神山遺跡、西根遺跡、船尾白幡遺跡の順番で学習してきて次のような点に興味を深めてきています。

●花見川-平戸川筋遺跡に関して深めている興味

ア 奈良・平安時代新規開発地が印旛浦に立地した理由(蝦夷戦争との関連、交通との関連)

イ 奈良・平安時代新規開発地の生業

ウ 奈良・平安時代の新規開発地が9世紀末頃に一斉に衰退、廃滅した理由

エ 墨書土器活動の新規開発地での意義(生業や「祭祀」からみた文字の意味等)

上谷遺跡学習ではこのような興味をさらに深める方向で学習したいと思います。

具体的な学習方針は次のように設定します。

●学習方針

ア 分析対象を奈良・平安時代の墨書土器及び土器以外の遺物等に絞って検討する

イ 遺構・遺物の具体情報を徹底してGISデータベース化してGIS空間上で分析検討する

ウ 既学習近隣遺跡との比較を検討の各段階で行い、奈良・平安時代新規開発地の特徴を考察する。

3 上谷遺跡の位置

現在の地図の上に上谷遺跡の位置をプロットすると次のような図になります。

上谷遺跡の位置

背景は地理院地図(標準地図・色別標高地図)

本来の地形の様子がよくわかるように旧版2万5千分の1地形図にプロットすると次のようになります。

上谷遺跡の位置

背景は旧版2万5千分の1地形図、地理院地図(色別標高地図)

上谷遺跡は印旛沼に注ぐ谷津沿いに存在し、その谷津の出口付近(保品)の沖積地から縄文時代の丸木舟が出土しています。

2011.08.10記事「縄文丸木舟と大賀ハス8」参照

また保品の東に須賀という砂洲の存在を示す地名があります。

これらの情報から、上谷遺跡から谷津を下った印旛浦は古代にあってもミナト機能が存在していたと想定できます。

つまり上谷遺跡は印旛浦水運と密接にかかわっていたことがわかります。

4 上谷遺跡の概要

上谷遺跡の奈良・平安時代遺構を整理すると次のようになります。

上谷遺跡 奈良・平安時代遺構

竪穴住居200軒に対して掘立柱建物194棟は大きな値であると考えます。

その理由についての検討を深める予定です。

船尾白幡遺跡では掘立柱建物を蚕小屋として利用していたことが判りましたが、上谷遺跡で掘立柱建物の利用についての情報や有力な推論が得られるか、検討が楽しみです。

参考として竪穴住居200軒の分布をプロットすると次のようになります。

上谷遺跡 地区区分と竪穴住居

なお、上谷遺跡の特徴として墨書土器出土数が千葉県下第2位であることがあげられます。

参考 千葉県墨書土器出土数上位遺跡リスト

参考 千葉県内墨書土器出土数上位遺跡

上谷遺跡の墨書土器データからどのような有益情報を引き出すことができるか楽しみです。

5 参考 第4分冊報告書でぶち当たっているGISデータベース化の障害

第4分冊報告書の遺構配置図は次の通りです。


第4分冊報告書の遺構配置図

第4分冊報告書遺構配置図では遺構番号が一切書かれていません。

文章中には遺構の場所がグリッド番号で書かれています。

しかし、遺構配置図にグリッドは全く書かれていません。

グリッドを想定してそれを遺構配置図に書き込むとある程度の遺構番号と地図上のものとの対応が判ります。

しかし、記載されているグリッド表記もいい加減で間違いが沢山あります。

それでも竪穴住居については、平面スケッチの形状と配置図での形状を対比させて、遺構番号を配置図になんとかふることができました。

上に掲載した「上谷遺跡 地区区分と竪穴住居」の竪穴住居分布はこのような大格闘の末に作ったものです。

一方掘立柱建物と土坑は現在お手上げ状態です。グリッド表記でたどることができません。

八千代市教育員会(八千代市遺跡調査会の母体)に遺構配置図と遺構番号の対応をとる方法があるかどうか、現在問い合わせ中です。









2016年7月27日水曜日

参考 私家版千葉県墨書土器GISデータベースのGEグラフ表現

私家版千葉県墨書土器GISデータベースの全墨書土器を遺跡別に集計してGoogle earth pro上で立体グラフ表現してみました。

立体グラフ表現が可能となるKMZファイル作成はGE-Graph: Graph for GoogleEarth というソフトを使いました。

千葉県全墨書土器の遺跡別分布 1
地理院地図(色別標高地図)をオーバーレイ Google earthから引用

千葉県全墨書土器の遺跡別分布 2
Google earthから引用

千葉県全墨書土器の遺跡別分布 3
地理院地図(色別標高地図)をオーバーレイ Google earthから引用

千葉県全墨書土器の遺跡別分布 4
Google earthから引用

千葉県全墨書土器の遺跡別分布 5
地理院地図(色別標高地図)をオーバーレイ Google earthから引用

千葉県全墨書土器の遺跡別分布 6
Google earthから引用

千葉県全墨書土器の遺跡別分布 7
Google earthから引用

GEグラフ表現はプレゼンテーションで使えることはもちろんですが、私はむしろ個人の分析用としての意義が大きいと考えます。

Google earth pro上で俯瞰の状況を方向、俯角、縮尺等について自由に連続的に変化させてグラフを観察できますから、他のGIS(地図太郎PLUS、QGIS)と違って思考が受ける刺激がとても多くなります。

各種発想がマウスやキーボードを操作する手の動きに応じて沸き上がります。

北が上とか、全体を円満にみるとかの無意識の規制から外れることができるということは、重要な発想刺激要因となります。


2016年7月26日火曜日

私家版千葉県墨書土器GISデータベースの分布図表現の検討

私家版千葉県歴史・地名GISデータベースの構築を目指していて、現在次のような段階に来ています。

私家版千葉県歴史・地名GISデータベースの構成と現状

このうち私家版千葉県墨書土器GISデータベースの分布図表現について検討します。

この記事では千葉県の全墨書土器出土状況を分布図にしてみました。

千葉県墨書土器出土遺跡分布図

この分布図は墨書土器が1点でも出土する遺跡を単純にプロットしたものです。

墨書土器1点出土遺跡も、1000点以上出土遺跡も1ドットで表現されてしまいますから、墨書土器出土状況の全体像を知りたいときは注意が必要です。

墨書土器出土件数(点数)を加味した分布図表現は次のようになります。


千葉県墨書土器出土分布図

この分布図は墨書土器出土数グラフの分布図です。

GISソフト地図太郎PLUSの簡易グラフ作成機能で作成しました。

墨書土器出土数が多い遺跡がどの付近にあるのか、感覚的に把握することができます。

プレゼンテーションとしては優れた地図ですが、この地図を分析に使うことは困難です。

この分布図をさらにヒートマップで表現して、分析に使いやすくしてみました。

千葉県墨書土器出土ヒートマップ

カーネル密度推定という統計手法で作画したものです。(密度推定のための半径パラメータは400m)

GISソフトQGISのヒートマップ作成機能を利用して作成しました。

ヒートマップにすると墨書土器出土数の分布を色分けしたゾーンで把握できますから、出土数グラフ分布図より他の情報との比較・対応関係の検討に便利な分布図となります。

参考までに遺跡分布図とそれから作成したヒートマップを示します。

参考 千葉県奈良・平安時代遺跡分布図

参考 千葉県奈良・平安時代遺跡ヒートマップ

墨書土器出土ヒートマップと遺跡ヒートマップを比較すると、奈良・平安時代社会の活動が活発であった地域(遺跡密度が高い地域)とその時代における組織活動が活発であった地域(墨書土器が多数出土する地域)の関係を知ることができます。

この2つのヒートマップの比較検討は別記事で行います。

つづく

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お知らせ

現在、上谷遺跡検討のための準備作業(遺構・遺物情報のGIS化)をしています。

この準備作業が終了して検討出来るようになるまでGISデータベースについての記事を掲載します。




2016年7月24日日曜日

メモ 墨書土器DBのGISDB化の原理 その2 遺構レベル

公開されている墨書土器データベースを遺構レベルでGISデータベース化する原理をメモしておきます。

1 墨書土器データベースの項目

データベースを特定の遺跡(例 船尾白幡遺跡)で検索した結果は次のようになります。

墨書土器データベース画面(一部)

この画面の出土遺構の緯度経度情報を上記データベースに追加することとします。


2 遺構別緯度経度情報の取得方法

ア 発掘調査報告書掲載遺構分布図をGIS空間に貼り付けます。

イ GIS空間で遺構を点情報レイヤとしてプロットします。プロットする際に出土遺構名称をタイトルに書き込みます。

遺構(この絵では竪穴住居)別にプロットした様子(拡大図)

遺構(この絵では竪穴住居)別にプロットした様子(全体図)

ウ プロットした遺構レイヤのエクスポート

プロットした遺構レイヤーをcsvファイルとしてエクスポートします。

遺構レイヤのエクスポートファイル

これで出土遺構別緯度経度情報を取得できました。

3 墨書土器データベースへの緯度経度情報流し込み方法

位置情報流し込み方法は遺跡レベルの場合と同じです。

墨書土器データベースはデータベースソフトFile Makerに構築されています。

この墨書土器データベースファイルに新規テーブルとして出土遺構位置情報ファイルを読み込みます。

File Makerのリレーション機能を使って墨書土器のテーブルと出土遺構位置情報テーブルの間を「出土遺構」でリレーションシップをつなぎます。

(実務的には墨書土器データベースの出土遺構表現(例 2竪穴住居)を出土遺構位置情報ファイルの表現(例 SⅠ002)に変換するステップが必要です。) 

「出土遺構」でリレーションシップをつなぐと、墨書土器のテーブルに出土遺構の緯度、経度の項目を表示させることができます。

このような操作で墨書土器データベースに位置情報を流し込むことができます。

次のデータベースは、検討に必要ない項目を省き、出土遺構の年代区分や出土遺物情報を加えた、遺跡レベルでGIS化した墨書土器データベースの画面例です。

遺跡レベルでGIS化した墨書土器データベースの画面例

4 データベースの利用例

データベースファイルから特定釈文の年代別データを作り、頻度分布図としてGISにプロットした例を示します。

特定釈文の年代別頻度分布図例

遺構レベルでGIS化した墨書土器データベースに発掘調査報告書の年代別情報や出土遺物情報等を加えると様々な空間分析が可能となります。

分析と分布図表現が短時間(数分程度)で可能となりますから、思考の試行錯誤が自由にできるようになります。







2016年7月23日土曜日

メモ 墨書土器DBのGISDB化の原理 その1 遺跡レベル 

公開されている墨書土器データベースをGISデータベース化する原理をメモしておきます。

このブログでは墨書土器データベースのGISデータベース化を遺跡レベルと遺構レベルの2段階で行っていますので、それぞれの原理をメモします。

この記事では遺跡レベルについてメモします。

1 墨書土器データベースの項目

墨書土器データベースの画面を示します。

墨書土器データベース画面

この画面に遺跡の緯度経度情報を追加することにします。


2 遺跡GISデータベースの項目

公開されている遺跡データベース(ふさの国文化財ナビゲーション)では位置情報項目はありませんが、利用した遺跡GISデータベースの画面は次の通りです。

ふさの国文化財ナビゲーションではWEB上にGIS画面が表示されていて位置情報を取得できます。(※)、

※ブログ花見川流域を歩く番外編2015.09.06記事「遺跡のGIS用位置情報取得方法(千葉県)」参照

遺跡GISデータベース画面

遺跡GISデータベースと墨書土器データベースは「遺跡名」が共通項目として存在します。

この共通項目を使って墨書土器データベースに、遺跡データベースから緯度・経度情報を流し込むという方法を使います。

その方法の原理は次の通りです。

3 位置情報流し込みの原理

墨書土器データベースはデータベースソフトFile Makerに構築されています。

この墨書土器データベースファイルに新規テーブルとして遺跡GISデータベースを読み込みます。

File Makerのリレーション機能を使って墨書土器のテーブルと遺跡GISのテーブルの間を「遺跡名」でリレーションシップをつなぎます。

「遺跡名」でリレーションシップをつなぐと、墨書土器のテーブルに遺跡GISの緯度、経度の項目を表示させます。(他の項目を表示することも可能です。)

このような操作で墨書土器データベースに位置情報を流し込むことができます。

遺跡レベルでGIS化した墨書土器データベース画面

一つの遺跡から3桁の墨書土器が出土することも珍しいことではありませんが、その場合その3桁の墨書土器レコード(データ)に全て々緯度、経度情報が流し込まれます。

こうして作成したファイルをcsv出力すればそのままGIS(地図太郎PLUS)にプロットできます。

次の図は釈文「大万」で検索したデータベースの結果をそのままプロットしたものです。

墨書土器「大万」が出土する遺跡

複数の出土がある遺跡には同じ場所にデータ(レコード)がプロットされるので、遺跡分布図のようになります。

csvファイルを多少いじれば、GIS(地図太郎PLUS)では次のような頻度分布図のような表現も可能となります。

墨書土器「大万」の出土数イメージ

なお、実務的には墨書土器データベースの遺跡名と遺跡GISデータベースの遺跡名が異なる場合があり、多少のファイル調整が必要になります。

見た目では同じ遺跡名でも「ニカ領」と「ニヵ領」「ニヶ領」の違いをパソコンは同じものとして認識しません。

また「○○遺跡」と「○○遺跡 A地区」も同じものとして認識してもらえません。

2016年7月22日金曜日

墨書文字「大万」(オオマンドコロ)の千葉県分布

墨書文字「大万」(オオマンドコロ)は船尾白幡遺跡において9世紀第3四半期において優勢な文字となり、そのころ外部からやってきた勢力ではないだろうかと想定しています。

2016.07.21記事「船尾白幡遺跡 墨書文字に関する空間思考」参照

大万(オオマンドコロ)を千葉県墨書土器データベースで検索すると、千葉県では13遺跡から60件の出土が見つかりました。

その出土時期の多くは9世紀中葉から後葉が多く、また組文字になっているものが多くなっています。

その分布は次のようになります。

墨書土器「大万」が出土する遺跡

墨書文字「大万」を共有する一つの勢力が房総に、9世紀中後葉に急速に展開していった可能性を今後検討したいと思います。

参考図

東中山台遺跡群が存在する東京湾岸と船尾白幡遺跡付近とは馬搬送用の陸路で結ばれていた時期があり、その関係が気になっています。


2016年7月21日木曜日

船尾白幡遺跡 墨書文字に関する空間思考

2016.07.20記事「船尾白幡遺跡 ゾーン別年代別墨書文字推移」で自分が想定していた以上に、墨書文字の詳しい年代的空間的状況を把握できたと感じました。

この有用性の強いデータの咀嚼をより一層進めるために、出土墨書文字表(画像)を全墨書土器分布図に散布してみました。

さらに参考として鉄鏃と刀子の出土数グラフも散布してみました。

船尾白幡遺跡 墨書文字、鉄鏃、刀子 ゾーン別年代別出土状況

この分布図を見ながら、船尾白幡遺跡の墨書土器検討を箇条書きでまとめます。

1 Ⅰ期からⅤ期まで墨書文字が出土するのはDゾーンだけであり、またDゾーンは他のゾーンよりⅡ、Ⅲ期の墨書文字出土数が多くなっています。これからDゾーンが船尾白幡遺跡の中枢拠点であることがわかります。

2 FゾーンはⅡ期からⅤ期まで墨書土器が期毎に倍増していて、発展が最も顕著なゾーンです。Fゾーンの北に広がる台地が生産の現場となっていて、その生産現場に対する拠点であったと想定します。

3 Ⅳ期(9世紀第2四半期)になるとAゾーン、Cゾーン、Eゾーン、Gゾーンで墨書土器が出土します。この年代に開発が一気に進んだことが判ります。

4 Ⅳ期では帀(アマ)が各ゾーンで多数出土し、船尾白幡遺跡全体に関わる共通の祈願語であったことがわかります。帀(アマ)は集落支配勢力の影響下にある人々が使ったと考えらます。Ⅳ期に既成集落支配勢力の影響力(求心力)が最大になったと考えられます。

5 Ⅳ期になるとEゾーンで千(セン)が、Gゾーンで門(カド)が多数出土するようになります。集落の再開発が行われ、そこに外部化から千や門を祈願語として使う集団が入ってきたと考えます。
Eゾーン、GゾーンともにⅤ期になると帀(アマ)が出土しなくなるので、既存の集落支配勢力が弱体化した様子が観察できます。

6 Ⅴ期(9世紀第3四半期)になるとFゾーンで大(オオ)、大万(オオマンドコロ)が多出します。Ⅳ期の代表的文字任(ミブ)が全く出土しなくなり、それと交代したような印象を受けます。つまり任勢力が大・大万勢力に駆逐されたという印象を受けます。

7 中枢拠点のDゾーンでも、大・大万がⅤ期に出土します。同時に帀(アマ)出土数が激減します。これから、Ⅴ期になると集落全体の支配に大・大万勢力が重要な位置を占めていたことが判ります。権力の交代があったのかもしれません。

8 乾漆に関わる墨書文字がAゾーン(Ⅳ期)、Dゾーン(Ⅱ、Ⅴ期)、Fゾーン(Ⅲ期)から出土しました。

9 養蚕に関わる墨書文字がBゾーン(Ⅴ期)、Cゾーン(Ⅳ期)、Dゾーン(Ⅳ期、Ⅴ期)、Fゾーン(Ⅴ期)から出土しました。

10 BゾーンⅤ期から寺が出土し、寺院の存在が推定できます。

11 武器である鉄鏃、刀子と墨書土器分布の関係を観察しましたが、墨書土器出土数と鉄鏃・刀子出土数がほぼ相関し、それ以上の特徴はとらえられませんでした。

しかし、CゾーンⅣ期の刀子出土数6だけが突出していて、その理由は不明です。

Cゾーンの東には宗像神社を祀る古墳時代から続く既存集落があります。ですから、船尾白幡遺跡つまり新開発地と当時の既存集落の間に武力に関わるような緊張関係があったことを示す可能性もあります。

……………………………………………………………………
船尾白幡遺跡の検討をこの記事でとりあえず終了します。

墨書文字「大万」(オオマンドコロ)を千葉県墨書土器データベースで検索したところ、別の複数の遺跡から多数検出されましたので、その検討を次に記事で行います。

墨書文字「大万」を共通に使う勢力の実在が感じられます。

2016年7月20日水曜日

船尾白幡遺跡 ゾーン別年代別墨書文字推移

船尾白幡遺跡の主な墨書文字がゾーン別年代別にどのように推移したか詳しくみてみました。

ゾーン区分は便宜的にこのブログで分けたもので、竪穴住居分布の密集域にほぼ対応します。

船尾白幡遺跡のゾーン別全墨書土器分布

年代区分は次の通りです。

Ⅰ期 8世紀前葉
Ⅱ期 8世紀後葉~9世紀初頭
Ⅲ期 9世紀第1四半期
Ⅳ期 9世紀第2四半期
Ⅴ期 9世紀第3四半期
Ⅵ期 9世紀末~10世紀前半頃

なおこの区分及びこのブログで利用している情報は次の発掘調査報告書にもとづきます。

「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書ⅩⅥ-印西市船尾白幡遺跡-」(平成16年3月、都市基盤整備公団千葉地域支社千葉ニュータウン事業本部・財団法人千葉県文化財センター)

「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書ⅩⅦ-印西市船尾白幡遺跡Ⅱ-」(平成17年3月、都市基盤整備公団千葉地域支社千葉ニュータウン事業本部・財団法人千葉県文化財センター)

1 Aゾーンの出土墨書文字

ゾーンAの出土墨書文字

息(ソク)が出土します。「息」は乾漆を示す文字ですから、Aゾーンで乾漆が行われていたと考えます。

2016.04.09記事「船尾白幡遺跡で乾漆を示す墨書文字(息)を認識」参照

2 Bゾーンの出土墨書文字

Bゾーンの出土墨書文字

Ⅱ期に千(セン)が出土し、銭であると解釈しています。

Ⅴ期に寺(テラ)が2点出土します。

Bゾーンにこの時期に寺があったと考えます。

白幡前遺跡では8世紀から続いた寺が9世紀第2四半期頃までに破壊されてしまいましたが、船尾白幡遺跡では9世紀第3四半期まで(集落最後期まで)寺が存続しているので、その違いがどうしてなのか興味が湧きます。

Ⅴ期に小(コ)が出土し、このゾーンで養蚕が行われていたことがわかります。

2016.03.26記事「船尾白幡遺跡における養蚕を示す墨書文字「子」「小」」参照

またⅤ期に任(ミブ)が出土します。Ⅴ期に任が出土するのはこのゾーンだけです。他のゾーンでは任は別の墨書文字に置き換わるように消えています。

Bゾーンに特殊的に任が残った理由は判りませんが、寺の存在と関わりがあるのか興味が湧きます。

3 Cゾーンの出土墨書文字

Cゾーンの出土墨書文字

Ⅳ期の小(コ)が出土しますから養蚕が行われていたと考えます。

千(セン)も出土します。

Ⅴ期に大(オオ)ヵが出土します。他のゾーンでもⅣ、Ⅴ期になると大(オオ)、大万(オオマンドコロ)が多数出土するようになります。

4 Dゾーンの出土墨書文字

Dゾーンの出土墨書文字

Ⅰ期に大(オオ)が出土します。大は鳴神山遺跡のメイン墨書文字ですから、8世紀前半頃は戸神川西岸の鳴神山遺跡と東岸の船尾白幡遺跡の二つの集落は密接な関係だった可能性があります。

大(オオ)の出土はⅡ~Ⅳ期に途絶え、Ⅴ期に大(オオ)、大万(オオマンドコロ)が出土します。

この大、大万はⅠ期の継続ではなく全く新たに外部から持ち込まれた墨書文字であり、人も新たな集団が入り込んだと考えます。

Dゾーンは船尾白幡遺跡の支配(行政)の中核拠点であると考えられます。

船尾白幡遺跡を特徴づけるメイン墨書文字の帀(アマ)がⅡ期~Ⅳ期まで継続して、特にⅣ期に集中出土します。

Ⅱ期とⅣ期に知(シル)、七(シチ)、息(ソク)、麻(アサ)という漆関連の文字が、Ⅳ期とⅤ期に小(コ)という蚕を表す文字が出土していて、このゾーンが乾漆や養蚕という付加価値の高い産業の拠点であったことがわかります。

Ⅴ期には千(セン)、千万(センマンドコロ)が出土し、貨幣が社会の中で大きな比重を占めるようになったことが判ります。

なお、Dゾーンでは×(ほとんど線刻)の出土が他のゾーンと比べて特段に多く、理由があると考えます。

現時点ではその理由は不明ですが、このゾーンの住民はもともとこの船尾に住んでいた住民の系統であると考えますので、それと関係するのではないかと想像しています。

5 Eゾーンの出土墨書文字

Eゾーンの出土墨書文字

EゾーンはⅣ期とⅤ期だけから墨書土器が出土しています。

千(セン)の出土が最も多く、銭(セン)つまり貨幣との結びつきが強い集団が存在していたと考えます。

千万(センマンドコロ)(=銀行機能)はありませんから、この多数の千は労働で貨幣を得ることを最大の関心事とした集団の存在を想定できます。

大万(オオマンドコロ)がⅣ期、Ⅴ期ともに出土します。大万は大国玉神を祀る集団を統括する機関というような意味であり、現場指揮所を意味していたと考えます。

大万を祈願語とした集団が千や帀(アマ)を祈願語とした集団を指揮していた可能性を想像します。

6 Fゾーンの出土墨書文字

Fゾーンの出土墨書文字

Ⅲ期の知(シル)、Ⅴ期に小(コ)が出土しています。

また年代は不明ですが掘立柱建物柱穴から子(コ)が出土していて、掘立柱建物が蚕小屋であったことがわかっています。

このようなことから、FゾーンはDゾーンとならんで乾漆、養蚕という付加価値の高い産業の拠点であったと考えます。

帀(アマ)はⅡ期からⅤ期まで連続して出土します。

任(ミブ)はⅡ期からⅣ期まで出土し、そこで途切れます。

任(ミブ)に入れ替わるように、Ⅴ期になると大(オオ)、大万(オオマンドコロ)が出土します。

任を祈願語とした集団の役割を大、大万を祈願語とする集団がとって替わったように見えます。

ゾーン内の支配権力が交代したように見えます。

帀(アマ)集団に対する支配権を有していた任一族が去り、大・大万一族が入り込んだように見えます。

Ⅴ期に門(カド)が出土します。門部(かどべ)を意味する祈願語であり、武力にかかわる集団であると考えます。

なお、大万の墨書文字の多くは組文字になっています。

組文字となっている大万(船尾白幡遺跡)

鳴神山遺跡には大加(オオカ)という墨書文字が9世紀後半に多く出土し、その文字も多くが組文字です。

組文字となっている大加(鳴神山遺跡)

そして鳴神山遺跡の大加は集落防衛戦闘員(武士)である可能性が濃厚となっています。


大万集団と大加集団は文字「大」を共通とし、同じような組文字を使い、同じ年代に隣接した集落で活動していたのですから、おそらく根を共有する近縁武力集団であると考えます。

7 Gゾーンの出土墨書文字

Gゾーンの出土墨書文字

Ⅳ期には帀(アマ)と門(カド)が、Ⅴ期には門(カド)が出土します。

空間的にGゾーンはFゾーンと一体的であると考えますから、Ⅳ期は任が門を管理下に置き、Ⅴ期には大万が門を管理下に置いたと考えます。

帀(アマ)は門の下位に位置していたと考えます。


以上、パズルを解くような感じで墨書文字相互の関係を検討してきましたが、Ⅳ期(9世紀第2四半期)とⅤ期(9世紀第3四半期)の間に集落内権力の変動があったことが推察できました。

Ⅴ期(9世紀第3四半期)になると大、大万の勢力が入り込みますが、その勢力と戸神川を挟んで隣接する鳴神山遺跡の大、大加勢力との近縁性が指摘できます。



この記事の検討は年代推定が行われている遺構から出土した墨書土器を対象に検討しています。