2016年7月20日水曜日

船尾白幡遺跡 ゾーン別年代別墨書文字推移

船尾白幡遺跡の主な墨書文字がゾーン別年代別にどのように推移したか詳しくみてみました。

ゾーン区分は便宜的にこのブログで分けたもので、竪穴住居分布の密集域にほぼ対応します。

船尾白幡遺跡のゾーン別全墨書土器分布

年代区分は次の通りです。

Ⅰ期 8世紀前葉
Ⅱ期 8世紀後葉~9世紀初頭
Ⅲ期 9世紀第1四半期
Ⅳ期 9世紀第2四半期
Ⅴ期 9世紀第3四半期
Ⅵ期 9世紀末~10世紀前半頃

なおこの区分及びこのブログで利用している情報は次の発掘調査報告書にもとづきます。

「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書ⅩⅥ-印西市船尾白幡遺跡-」(平成16年3月、都市基盤整備公団千葉地域支社千葉ニュータウン事業本部・財団法人千葉県文化財センター)

「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書ⅩⅦ-印西市船尾白幡遺跡Ⅱ-」(平成17年3月、都市基盤整備公団千葉地域支社千葉ニュータウン事業本部・財団法人千葉県文化財センター)

1 Aゾーンの出土墨書文字

ゾーンAの出土墨書文字

息(ソク)が出土します。「息」は乾漆を示す文字ですから、Aゾーンで乾漆が行われていたと考えます。

2016.04.09記事「船尾白幡遺跡で乾漆を示す墨書文字(息)を認識」参照

2 Bゾーンの出土墨書文字

Bゾーンの出土墨書文字

Ⅱ期に千(セン)が出土し、銭であると解釈しています。

Ⅴ期に寺(テラ)が2点出土します。

Bゾーンにこの時期に寺があったと考えます。

白幡前遺跡では8世紀から続いた寺が9世紀第2四半期頃までに破壊されてしまいましたが、船尾白幡遺跡では9世紀第3四半期まで(集落最後期まで)寺が存続しているので、その違いがどうしてなのか興味が湧きます。

Ⅴ期に小(コ)が出土し、このゾーンで養蚕が行われていたことがわかります。

2016.03.26記事「船尾白幡遺跡における養蚕を示す墨書文字「子」「小」」参照

またⅤ期に任(ミブ)が出土します。Ⅴ期に任が出土するのはこのゾーンだけです。他のゾーンでは任は別の墨書文字に置き換わるように消えています。

Bゾーンに特殊的に任が残った理由は判りませんが、寺の存在と関わりがあるのか興味が湧きます。

3 Cゾーンの出土墨書文字

Cゾーンの出土墨書文字

Ⅳ期の小(コ)が出土しますから養蚕が行われていたと考えます。

千(セン)も出土します。

Ⅴ期に大(オオ)ヵが出土します。他のゾーンでもⅣ、Ⅴ期になると大(オオ)、大万(オオマンドコロ)が多数出土するようになります。

4 Dゾーンの出土墨書文字

Dゾーンの出土墨書文字

Ⅰ期に大(オオ)が出土します。大は鳴神山遺跡のメイン墨書文字ですから、8世紀前半頃は戸神川西岸の鳴神山遺跡と東岸の船尾白幡遺跡の二つの集落は密接な関係だった可能性があります。

大(オオ)の出土はⅡ~Ⅳ期に途絶え、Ⅴ期に大(オオ)、大万(オオマンドコロ)が出土します。

この大、大万はⅠ期の継続ではなく全く新たに外部から持ち込まれた墨書文字であり、人も新たな集団が入り込んだと考えます。

Dゾーンは船尾白幡遺跡の支配(行政)の中核拠点であると考えられます。

船尾白幡遺跡を特徴づけるメイン墨書文字の帀(アマ)がⅡ期~Ⅳ期まで継続して、特にⅣ期に集中出土します。

Ⅱ期とⅣ期に知(シル)、七(シチ)、息(ソク)、麻(アサ)という漆関連の文字が、Ⅳ期とⅤ期に小(コ)という蚕を表す文字が出土していて、このゾーンが乾漆や養蚕という付加価値の高い産業の拠点であったことがわかります。

Ⅴ期には千(セン)、千万(センマンドコロ)が出土し、貨幣が社会の中で大きな比重を占めるようになったことが判ります。

なお、Dゾーンでは×(ほとんど線刻)の出土が他のゾーンと比べて特段に多く、理由があると考えます。

現時点ではその理由は不明ですが、このゾーンの住民はもともとこの船尾に住んでいた住民の系統であると考えますので、それと関係するのではないかと想像しています。

5 Eゾーンの出土墨書文字

Eゾーンの出土墨書文字

EゾーンはⅣ期とⅤ期だけから墨書土器が出土しています。

千(セン)の出土が最も多く、銭(セン)つまり貨幣との結びつきが強い集団が存在していたと考えます。

千万(センマンドコロ)(=銀行機能)はありませんから、この多数の千は労働で貨幣を得ることを最大の関心事とした集団の存在を想定できます。

大万(オオマンドコロ)がⅣ期、Ⅴ期ともに出土します。大万は大国玉神を祀る集団を統括する機関というような意味であり、現場指揮所を意味していたと考えます。

大万を祈願語とした集団が千や帀(アマ)を祈願語とした集団を指揮していた可能性を想像します。

6 Fゾーンの出土墨書文字

Fゾーンの出土墨書文字

Ⅲ期の知(シル)、Ⅴ期に小(コ)が出土しています。

また年代は不明ですが掘立柱建物柱穴から子(コ)が出土していて、掘立柱建物が蚕小屋であったことがわかっています。

このようなことから、FゾーンはDゾーンとならんで乾漆、養蚕という付加価値の高い産業の拠点であったと考えます。

帀(アマ)はⅡ期からⅤ期まで連続して出土します。

任(ミブ)はⅡ期からⅣ期まで出土し、そこで途切れます。

任(ミブ)に入れ替わるように、Ⅴ期になると大(オオ)、大万(オオマンドコロ)が出土します。

任を祈願語とした集団の役割を大、大万を祈願語とする集団がとって替わったように見えます。

ゾーン内の支配権力が交代したように見えます。

帀(アマ)集団に対する支配権を有していた任一族が去り、大・大万一族が入り込んだように見えます。

Ⅴ期に門(カド)が出土します。門部(かどべ)を意味する祈願語であり、武力にかかわる集団であると考えます。

なお、大万の墨書文字の多くは組文字になっています。

組文字となっている大万(船尾白幡遺跡)

鳴神山遺跡には大加(オオカ)という墨書文字が9世紀後半に多く出土し、その文字も多くが組文字です。

組文字となっている大加(鳴神山遺跡)

そして鳴神山遺跡の大加は集落防衛戦闘員(武士)である可能性が濃厚となっています。


大万集団と大加集団は文字「大」を共通とし、同じような組文字を使い、同じ年代に隣接した集落で活動していたのですから、おそらく根を共有する近縁武力集団であると考えます。

7 Gゾーンの出土墨書文字

Gゾーンの出土墨書文字

Ⅳ期には帀(アマ)と門(カド)が、Ⅴ期には門(カド)が出土します。

空間的にGゾーンはFゾーンと一体的であると考えますから、Ⅳ期は任が門を管理下に置き、Ⅴ期には大万が門を管理下に置いたと考えます。

帀(アマ)は門の下位に位置していたと考えます。


以上、パズルを解くような感じで墨書文字相互の関係を検討してきましたが、Ⅳ期(9世紀第2四半期)とⅤ期(9世紀第3四半期)の間に集落内権力の変動があったことが推察できました。

Ⅴ期(9世紀第3四半期)になると大、大万の勢力が入り込みますが、その勢力と戸神川を挟んで隣接する鳴神山遺跡の大、大加勢力との近縁性が指摘できます。



この記事の検討は年代推定が行われている遺構から出土した墨書土器を対象に検討しています。

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