2016年8月31日水曜日

上谷遺跡 養蚕関連墨書文字

2016.08.30記事「上谷遺跡 紡錘車、鉄鎌の出土状況」で上谷遺跡の主産業(主生業)の1つが養蚕であることを出土物と多文字墨書土器から突き止めました。

主産業であるからには、他にも墨書土器があるに違いないと考え、あらためて上谷遺跡墨書文字リストを見てみました。

2016.07.30記事「上谷遺跡出土墨書土器の概要」参照

すると、時々発生する思考の予定調和的現象が発生して、2つの養蚕関連墨書文字を発見(認識)することができました。

A036竪穴住居出土多文字墨書土器の文の中に次のような対応を既に発見しています。

A036竪穴住居出土多文字墨書土器からわかった事柄

つまり「家」は養蚕用家屋(掘立柱建物)であるというこです。

その「家」が上谷遺跡で4点出土します。

「後 家家」A024
「家」A078
「大家」A171
「家」A164

の4点です。

「家」「家」は養蚕家屋建設の祈願、「大家」は大きな養蚕家屋建設の祈願と考えられます。

しかし「後 家家」の意味が判然としません。「家家」は養蚕家屋建設祈願に間違いないと考えますが、「後」の意味が養蚕と結びつきません。

一方「後」は同じA024遺構からと、近くの別の遺構から2点出土しています。A036遺構とも隣接しています。

後も養蚕と関連している可能性が感じられだします。

辞書を調べたところ、なんと後をキヌと読む情報を得ることができました。

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後をキヌと読む用例

きぬ‐ぎぬ【衣衣・後朝】

〖名〗 (「衣(きぬ)」を重ねた語で、それぞれの衣服の意)

① 男女が共寝をして、ふたりの衣を重ねてかけて寝たのが、翌朝別れる時それぞれ自分の衣をとって身につけた、その互いの衣。衣が、共寝のあとの離別の象徴となっている。

*古今(905‐914)恋三・六三七「しののめのほがらほがらとあけゆけばおのがきぬぎぬなるぞかなしき〈よみ人しらず〉」

② 男女が共寝して過ごした翌朝。またその朝の別れ。きぬぎぬの別れ。こうちょう。ごちょう。

*新勅撰(1235)恋三・七九一「後朝の心を きぬぎぬになるともきかぬとりだにもあけゆくほどぞこゑもおしまぬ〈源通親〉」

『精選版 日本国語大辞典』 小学館 から引用
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恋歌にでてくる「きぬ‐ぎぬ【衣衣・後朝】」の用例を知った上で、わざとキヌの音に漢字「後」を当てて書いたことに間違いないと判りました。

キヌを衣ではなく後と書く風流が存在していて、確かに後の墨書文字は大変達筆です。

後を後戸の神(宿神)ではないだろうかなどと考えた自分の生半可な知識が恥ずかしくなります。

蚕(コ)の当て字に子(コ)を用いる背景には「雄略天皇の命令を聞き違えて〈蚕〘こ〙〉でなく〈児〘こ〙〉を集めた少子部蜾蠃〘ちいさこべのすがる〙の伝説」(『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズから引用)があるように、墨書土器文字には当時の教養が隠されている場合が多いと考えます。

子…蚕、後…絹、家…養蚕用家屋の文字分布を示すと次のようになります。

上谷遺跡 養蚕関連墨書文字の分布

広義の意味で子(=蚕)、後(=衣、キヌ)、家(養蚕用家屋)は養蚕に関わる生業の発展祈願文字であることがわかりました。

ここで、さらに思考を深めたいと思います。

後(=衣、キヌ)は恋歌の用例にあるように男女が共寝で体の上にかけ、あるいは翌日の朝身にまとう衣(コロモ)です。絹糸ではなく、絹の布製品です。

ですから、後(キヌ)は絹糸を機(ハタ)で織った絹織物としての布(あるいは縫製した服)であると考えるのが妥当です。

つまり、後(キヌ)とは機織り作業を意味していると考えます。

そのように考えると、後(キヌ)と一緒に出てくる家(掘立柱建物)は機織用家屋を意味することになります。

子(蚕)と一緒に出てくる家は養蚕用家屋(蚕を飼育する家屋)、後(衣)と一緒にでてくる家は機織用家屋(機織機械を設置して絹織物を作製する家屋)ということになります。

家(掘立柱建物)の養蚕関連用途として2種類の存在を確認できます。

上谷遺跡 家(掘立柱建物)の用途として養蚕家屋と機織家屋の2通りが確認できる情報


墨書文字「後」と「家」が近隣遺跡でどうなっているか、早速知らべ直すことにします。

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