2017年2月14日火曜日

千葉県の貝塚学習 縄文時代早期後葉

この記事では縄文時代早期後葉の学習をします。

1 図書の記述

学習している図書(「千葉県の歴史 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行))では次の貝塚分布図と説明文が示されています。

縄文時代Ⅱ期(早期後葉・条痕文期) 貝塚分布図

説明文の概要
・Ⅱ期に様相は激変する。遺跡の分布は明らかに拡大し、集中する地帯は古鬼怒湾水系と東京湾水系の広範囲に広がる。

・Ia期以来の中心であった取香川谷と高谷川谷の分水嶺付近や大須賀川流域も引き続き利用されたが、県北東部はむしろ分布の希薄な地域となった。

・印旛沼周辺と東京湾沿岸の広域でおびただしい数の遺跡が見つかっている。

・炉穴(ろあな)群と遺物包含層が広域に存在して遺跡群を形成するのが特徴である。

・住居跡を伴う遺跡が前時期に比べるとかなり多い。1遺跡で数軒ないし10数軒という例もあり、また、竪穴住居を数軒つなぎ合わせたような大型住居が出現することも特筆すべきであろう。

・沿岸地域では、ハマグリ・ハイガイ・マガキを主体とする小規模な遺構内貝層を形成している例が多い。

・貝層から獣骨・魚骨が出土する例はきわめてまれである。

・沿岸地域に進出した目的のひとつは、海産貝類の利用にあったものと推定される。

・この時期は縄文海進のピークにあたり、奥まった海域に干潟が発達していったという環境的な要因が背景となった。

2 疑問・興味

●Ia期以来の中心であった大須賀川流域の遺跡集中域に貝塚が生まれていないこと。
●太平洋岸(九十九里)で貝塚や遺跡分布が疎らであること。

次の図は標高8m以下の土地を青塗したもので、縄文海進クライマックス期の略海面分布を表現しています。

標高8m以下の土地(青色)

縄文時代早期前葉・中葉にかけて海が徐々に近づいてきたのですが、後葉になり台地を刻む谷津深くまで海面が広がります。

このような自然環境の激変に対応して、海の幸を生活の糧にすることが容易となり、「沿岸地域に進出した目的のひとつは、海産貝類の利用にあったものと推定される。」という記述が正鵠を得ていると感じ入ります。

さて、Ⅰb期からⅡ期にかけて貝塚・遺跡分布が激変した様子をもう一度分布図で比べてじっくり観察してみました。

貝塚・遺跡分布の劇的変化

海面分布の広がりに対応してどこでも貝塚が増えているのではないことが明白です。

分布変化の観察結果を次のまとめてみました。

Ⅱ期貝塚・遺跡分布図の検討

A地区

A地区(大須賀川流域)はⅠb期から引き続き遺跡が集中します。しかし貝塚が現れません。

この現象に興味が湧きます。

A地区の人々も海の幸を利用したに違いありませんが、Ⅱ期になっても遺跡集中している主な理由が海産物利用にあるとは考えにくいです。

Ⅰa期で検討したように、大須賀川谷は周辺の谷とくらべて特段に深く、いち早く海が浸入してきました。Ⅰa期には千葉県最初の貝塚ができているほどです。

しかしⅠb期には貝塚は発見されていません。それにもかかわらず海に近い流域に遺跡集中域が移動してきています。

その理由は香取の海を通じた交易・交流の拠点に関係していたからに違いないと想定しました。

Ⅱ期になっても大須賀川流域に遺跡が集中する理由も同じようにこの付近が東北と房総を結ぶ交易・交流の結節機能が存在していたからであると想像します。

大須賀川流域の人々の生活は対岸を含めた香取の海沿岸の広範な人々と関係していたと想像します。

このような想像を遺跡情報に投影して考察すると、あらたな気づきが生まれるかもしれないと考えます。

B地区

B地区は貝塚も継続して増えています。D地区と同じような生活が営まれていたと考えます。

C地区

C地区はD地区と比べて貝塚・遺跡の増分が著しく貧弱です。

C地区は後世には優れた漁場となっていますから、D地区と比べて自然環境が貧しく海産物が少ないとか、特段に利用しにくいマイナス条件があるとかは考えずらいです。

C地区は食べるだけなら十分に可能だけれども、文化的生活ができない地区だったと想像します。

この時代の交易・交流ルートの本流が東京湾-香取の海となり、房総南端経由太平洋ルートが廃絶してしまったのだと思います。

海面がまだ十分に上昇していないために、東京湾の海を利用できなかった時代(旧石器時代~縄文時代早期中葉)までは房総南端を経由して神奈川-房総-東北という海上交易・交流ルートが存在していたのですが、そのルートは海面上昇で東京湾が利用できるようになると廃絶したのだと想像します。

交易・交流ルートから外れたC地区は当時の過疎地であったと考えます。

D地区

海面が台地を刻む谷津の奥深くまで浸入し、海産物を容易に入手できる環境が生まれた土地であり、なおかつ、その海を通して遠方と新たな交易・交流が可能となった地区です。

分布図を見るとまるで貝塚のまわりに遺跡(炉穴、住居)がセットで配置されているように観察できます。

貝塚と周辺遺跡のセットが当時の生活実態を表現しているに違いありません。

獣骨のほとんどでない貝塚があるとのことであり、海産物だけを食していて集団がいたというよりも、海産物だけを専門的に採り、近隣周辺との交易によってそれが周辺地域に分配されていたと考えたくなります。

E地区

D地区の印旛沼域と東京湾域が連坦しているように観察できます。

この連坦域が東京湾と香取の海を結ぶ交流・交易ルートの本流であると考えます。

同時にこの連坦域と大須賀川流域の遺跡密集域の連坦も観察できます。

縄文時代早期後葉にE地区が東京湾と香取の海を繋ぐ場所になったのですが、その機能は後世に延々と引き継がれ、古墳時代・奈良時代にはその場所が東海道のルートになったと考えます。



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