2017年2月15日水曜日

千葉県の貝塚学習 縄文時代前期初頭~中期前葉

この記事ではⅢ期(縄文時代前期初頭~中期前葉)の貝塚について学習します。

1 細時期区分毎分布図の作成

学習している図書(「千葉県の歴史 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行))では次の貝塚分布図が示されています。

Ⅲ期(縄文時代前期初頭~中期前葉) 貝塚分布図

貝塚分布図の背景図の色が濃くて、またⅢ期が5つに細時期区分されていますので、情報を直観的に把握できません。

そのため、理解を促進するために細時期区分毎分布図をIllustratorレイヤを活用して作成し、学習しました。

なお、Ⅲ期貝塚分布図にはⅡ期までのような貝塚を含まない遺跡が掲載されていませんから、Ⅲ期の人の活動の全体像を検討することはできません。

2 Ⅲ期の貝塚分布

●Ⅲ期貝塚分布図

●図書の記述
県北西部に貝塚が集中し、ほかの地域には少ないことが明らかである。
この集中は図4のように奥東京湾(狭義の奥東京湾と古入間湾)を囲むように存在した遺跡群の一部といえる。

参考 図4

3 Ⅱ期(縄文時代早期後葉・条痕文期)との比較

Ⅱ期の貝塚分布図から貝塚だけを抜き出すと次のような図になります。

Ⅱ期貝塚分布図

Ⅱ期からⅢ期にかけての変化の特徴を次のようにまとめることができます。

・Ⅱ期で貝塚分布が密であった印旛沼周辺、村田川河口、花見川河口付近がⅢ期にはその密度が低下する。
・Ⅲ期になるとⅡ期に比べ県北西部(市川、手賀沼付近から西)の貝塚分布密度が高まる。
・Ⅲ期になるとⅡ期に比べ古鬼怒湾湾口部の貝塚分布密度も高まる。

4 Ⅲ期の細時期区分別記述

4-1 Ⅲa期(前期初頭)

Ⅲa期(前期初頭)貝塚分布図

●図書の記述

Ⅲa期(前期初頭)は、松戸市幸田貝塚・大原町新田野貝塚という大きな貝塚があって、ほかには小さな貝塚が存在しない。
幸田貝塚は,Ⅲa~Ⅲb期の大規模な集落である。
中央に広場をもち、住居跡が環状に並ぶ「広場集落」であり、これまでに住居跡は154軒検出されている。
住居跡内貝層は70か所に認められ、規模の大きな面状貝層をもつ。
貝層はハマグリ・ハイガイを主体とし、面状貝層からはイノシシ・シカや、マダイを中心とした大型魚の遺体が多数出土している。
この時期の集落のなかでは、貝層の規模や大型獣・魚骨の出土量が突出している。
図4にみえる南から入った水道(海底谷部分)がぶつかり進路を変える位置にあり、良好な漁場となった可能性が高い。
また、磨石類が比較的多いので、植物食も一定の割合を占めていたと推定される。
このような傾向は、Ⅳ期(中期中葉)の通年定住型集落でのあり方に近い。
しかし、一方で竪穴住居跡に建替えの痕跡が多いこと、廃絶後の竪穴を埋め戻さず、床面に直接貝層を形成する例が多いことなどⅣ期と明らかに異なる点もある。
頻繁な移動と回帰を想定すべきという意見もあって、生産・居住様式の根幹にかかわる部分が未解決といえる。

4-2 Ⅲb期(前期前葉)

Ⅲb期(前期前葉)貝塚分布図

●図書の記述

Ⅲb期(前期前葉)もⅢa期の傾向が継続する。

●メモ

Ⅲb期(前期前葉)はⅢa期の傾向からⅢc期の傾向へ変化する中間段階のように観察できます。

4-3 Ⅲc期(前期中葉)

Ⅲc期(前期中葉)貝塚分布図

●図書の記述

Ⅲc期(前期中葉)には、古五田沼低地・座生沼低地(A)、矢切低地(B)、真間川低地(D)、手賀沼低地・柏-我孫子低地(C)の広域に、それぞれ貝塚の集中がみられる。
Ⅲc期(黒浜期)には、幸田貝塚のような大規模集落がなくなり、竪穴住居が数軒から数十軒という集落が数多く存在した。
野田市槙の内貝塚・流山市若葉台遺跡・我孫子市柴崎遺跡・同市西大作遺跡は広場集落である。
野田市飯塚貝塚・市川市庚塚貝塚・船橋市飯山満東遺跡などの規模の大きな集落は、Ⅲd期(諸磯期)に継続する例が多い。
全体として貝層からは骨の出土例が少ないが、庚塚貝塚や富津市大坪貝塚では魚骨や大型獣骨が比較的多かった。

4-4 Ⅲd期(前期後葉)

Ⅲd期(前期後葉)貝塚分布図

●図書の記述
Ⅲd期(前期後葉)は、前時期の主要な貝塚が継続する。
Ⅲd期には奥東京湾沿岸の貝塚数が激減する。

4-5 Ⅲe期(中期初頭)

Ⅲe期(中期初頭)貝塚分布図

●図書の記述
Ⅲe期(五領ヶ台期~阿玉台Ⅱ期)は、奥東京湾沿岸に圧倒的に集落・貝塚の分布が集中していたⅢa~Ⅲd期とは異なり、古鬼怒湾水系に中心が移った。
現在の利根川下流域や霞ヶ浦周辺で、県内では小野川・黒部川水系に大型貝塚群を形成する。
山田町向油田貝塚はこの時期のみ、佐原市三郎作貝塚・小見川町木之内明神貝塚・同町阿玉台貝塚はこの時期からⅣ期まで、白井大宮台貝塚はⅢd期からⅣ期まで継続する。
いずれも大規模な斜面貝層について調査が行われており、貝類採取や魚類の網漁・刺突漁がさかんに行われたことが判明している。
大規模な貝層や想定される生業の内容は、東京湾沿岸におけるⅣ期の貝塚群との共通点が多い。
実際にⅣ期まで継続する例が存在することもあり、大型貝塚の出現と通年定住型集落を特徴とするⅣ期のはじめを阿玉台IaないしIb期とすべきかとも考えたが、東京湾沿岸の大型貝塚が阿玉台Ⅲ期に一斉といってよいくらいに現れることを重くみることにした。
なお,小野川・黒部川水系の貝塚群は広場集落を形成していたのではないかと想像するが、集落域の調査例が皆無に近いため不明である。
石器総数がかなり少なく、特に打製石斧が少ないなど東京湾沿岸との相違点も存在するようである。

5 疑問・興味

●貝塚分布だけでは貝塚以外の遺跡がプロットされていないので、人集団の活動を総合的に把握できません。
この時期の終盤に大型貝塚出現と通年定住型集落の特徴が現れるとのことですから、終盤について、また終盤以外について、貝塚以外の遺跡がどうなっているのか知りたくなります。

●Ⅱ期で貝塚分布が密であった印旛沼周辺、村田川河口、花見川河口付近がⅢ期にはその密度が低下する理由が知りたくなります。
印旛沼周辺はⅡ期だけ貝塚密度が密であり、Ⅲ期以降貝塚分布が密になることはないことから、淡水化による漁場価値の低下など自然環境的要因によるような印象を持ちます。

●Ⅲ期だけみると貝塚数と分布が思った以上に変化していることについて知り、その理由について知りたくなります。
主な貝塚は房総で2カ所というⅢa期から奥東京湾における貝塚密集Ⅲc期にかけて貝塚数が増大します。
ついで全体として貝塚数を減じながらⅢe期に分布の中心が古鬼怒湾湾口部に移動します。
図書ではこの変化事実が把握されていて、その把握自体がとても素晴らしいことだと思いますが、読者としてはその理由について推測したくなります。

自然環境変化(漁場価値変化)という要因も大きな背景にはあると考えます。
Ⅱ期が縄文海進クライマックス期で海面が最も内陸に入り込み、Ⅲ期に少しずつ海退が進み、その中でⅢc期頃好適な干潟が奥東京湾で形成していたと想像することが可能です。
その後海退がさらに進み、奥東京湾が陸地化、淡水化して漁場価値が縄文人にとって徐々に低下したと考えることも大局観としては成り立ちます。

しかし、そのような大局観だけでは奥東京湾から古鬼怒湾湾口部に分布中心が移動したことの説明はできません。

おそらく貝塚数変化、分布変化の説明要因として社会的要因が大きな割合を占めていると考えます。

その社会的要因が何であるか、今後学習・想像を深め楽しみたいと思います。

6 感想

直観による想像ですが、奥東京湾→東京湾をテリトリーとしていた縄文人ネットワークと古鬼怒湾をテリトリーとしていた縄文人ネットワークの2つのネットワークが存在していて、その交流の場が下総台地であったような気がします。

千葉県という行政区域に思考を縛っていると、奥東京湾ネットワークと古鬼怒湾ネットワーク、及びその交流についての正常な思考が妨げられるような気がします。

しかし、基本情報が県単位で整備されているので、如何ともしがたい事情があります。




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