2017年2月9日木曜日

千葉県の貝塚学習 縄文時代早期前葉

大膳野南貝塚発掘調査報告書の学習をするための基礎知識習得のために「千葉県の歴史 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)の貝塚の項の学習をしています。

この記事では縄文時代早期前葉の学習をします。

1 図書の記述

図書では次の貝塚分布図と説明文が示されています。

縄文時代Ⅰa期(早期前葉・撚糸文期) 貝塚分布図

説明文の概要
・貝塚は約9000年前のⅠa期に現れた。
・遺跡は古鬼怒湾水系と九十九里水系の分水嶺付近に集中している。この時期としては竪穴住居跡の検出例も多い。
・この付近に遺跡が集中するのは、旧石器時代末から続く傾向といえる。
・一方、最古の貝塚として知られる西之城貝塚と、やや遅れて現れた佐原市鴇崎貝塚は、いちはやく海水が浸入古鬼怒湾の湾奥部付近に形成されたものであろう。
・鴇崎貝塚では汽水域(海水と淡水の混じった水域)のヤマトシジミが主体となるが、ハマグリ・マガキ・アカニシの大きな個体も数多く混じる。味のよい貝種の大きな個体を選んで採取した可能性が高い。
・獣骨や魚骨もかなり多い。
・この時期の貝塚は、縄文時代の定住生活の開始を象徴するものとして評価されている。

2 疑問・興味
2-1 縄文海進以前の貝塚がなぜ現存しているのか?
約9000年前の海面が現在より低かった時代の貝塚が、なぜ現在の地表面に存在しているのかという素朴な疑問が生まれます。

9000年前の海岸線の東京湾付近の姿は次の図に示されています。

縄文早期の海岸線

東京湾側では現在の台地からみて9000年前の海岸線は高度的、距離的に離れていてその当時の貝塚は現在の台地には存在していなかったと理解します。

一方、西之城貝塚や鴇崎貝塚がなぜ現存しているのか、その理由を調べたいと思います。

次のような理由があるのかもしれないと想像します。
・海面上昇速度と同等程度の地殻上昇があった。
・貝塚形成された位置が海面より特段に高かった。
・撚糸文土器が出土しているが、貝塚形成時代は撚糸文土器期の中でも新しい時代のものである。

文献を読んだり、専門家のご意見を聞けばある程度の理由は判ると思います。

現時点では、想像に想像を重ねれば、最終氷河期の古鬼怒湾の谷は東京湾の谷よりはるかに急峻であったことが関係していると考えます。

つまり、海面上昇が始まった初期には、現在台地端と海岸線までの直線距離は東京湾と比べて古鬼怒湾の方がはるかに近いので、高度差は同じでも古鬼怒湾の方が東京湾より海漁に出やすかったと思います。

台地狩猟を生業とする人々の一部が台地の端に活動域を移し、急峻な谷底に浸入した海域まではるばる降りて海漁を行い、収穫物を全部台地まで運んだのだと想像します。

2-2 (貝塚以外の)遺跡がなぜ特定域に集中するのか?

古鬼怒湾水系と九十九里水系の分水嶺付近に遺跡が集中していることに強い興味が湧きます。

次の図は旧石器時代遺跡分布図です。

旧石器時代遺跡分布図

確かに旧石器時代にも古鬼怒湾水系と九十九里水系の分水嶺付近に遺跡が集中していますが、旧石器時代には別の場所…村田川流域とか市川市付近など…にも遺跡集中域があります。

縄文時代早期前葉に古鬼怒湾水系と九十九里水系の分水嶺付近に遺跡が集中した理由について学習を深めたいと考えます。

現時点では次のような想像をメモしておきます。

旧石器時代遺跡分布図は海の影響がゼロの時代の狩猟好適場所分布図であると考えます。

縄文時代早期前葉になると台地狩猟民の生活と海漁が切り離すことができないほどの関係になり、台地狩猟民が距離的に近い場所にある急峻な谷底の海に時々出て漁をしたのではないかと空想します。

古鬼怒湾水系と九十九里水系の分水嶺付近から台地開析谷底を下りて、はるか下に存在する古鬼怒湾や九十九里の海(現在はともに埋没)に出て漁を行うことがあり、その漁に出やすい場所でもあった陸域狩猟好適地が主な活動拠点となり、遺跡集中域になったのではないかと空想しておきます。

遺跡集中域には貝塚は無いけれども、海との関係があるに違いないという空想です。




0 件のコメント:

コメントを投稿