2017年3月31日金曜日

大膳野南貝塚 縄文時代前期後葉竪穴住居と土坑

大膳野南貝塚の陥し穴と炉穴(早期後半頃)の学習に区切りをつけ、縄文時代前期後葉の竪穴住居と土坑の学習に移動します。

出土土器から判明する前期後葉の竪穴住居は16軒、土坑は113基です。

発掘調査報告書では「住居の分布範囲がやや散漫ではあるが、環状を呈する集落と考えられ、住居と土坑が場所を区別して構築されたものと推定される。また、遺構から検出された土器は、諸磯b式ないしは浮島Ⅰ~Ⅲ式期にほぼ限定されることから、短期間に営まれた集落祉と考えられる。」と記述されています。

竪穴住居と土坑の分布は次の通りです。

大膳野南貝塚 縄文時代前期後葉 竪穴住居と土坑の分布

竪穴住居と土坑の分析学習に入る前に、この記事で陥し穴との関係について考察します。

次に陥し穴(縄文時代早期後半頃)と前期後葉の竪穴住居・土坑のオーバーレイ図を示します。

大膳野南貝塚 縄文時代早期後半ぼろ陥し穴の分布と前期後葉竪穴住居・土坑の分布 オーバレイ

このオーバーレイ図から次の2点について気が付きましたのでメモしておきます。

1 陥し穴と竪穴住居・土坑の分布は完全に重なりますから竪穴住居・土坑が作られた時期(前期後葉)に陥し穴が罠猟として利用されていたことは完全に否定されます。

陥し穴からは早期後半の土器細片と前期後葉の土器細片が出土しますが、前期後葉の土器細片は竪穴住居・土坑が利用されていた時代に、当時の陥し穴覆土層表面にたまたま落ちたものであることが確認できます。

つまり陥し穴の時期は出土物からみると、早期後半であることが判明します。

2 早期後半に狩場であった大膳野南貝塚発掘区域が前期後葉になると集落区域として開発されてしまったことに着目します。

この場所に集落をつくってしまえば、この場所のみならず周辺の土地が狩場として機能しなくなります。
狩場を失っても集落をつくる必要があったという強い縄文社会要請が働いたということが見て取れます。

早期後半と比べて前期後葉になると人口急増が発生して、これまでの狩場が住居ゾーンとして開発されたものと考えます。

前期後葉113の土坑はほとんど堅果類の貯蔵に使われていたことが判明しています。
これから、狩猟という獲得食物エネルギー総量の劣悪な生業から、植物食という獲得食物エネルギー総量の優良な生業に社会が転換した様子と人口急増が重なっている様子が推察できます。

また竪穴住居からは獣骨や貝が出土していますから、この場所から恐らく東方向に狩場を新規開発し、また海にも出て動物タンパクを補給していたと想定します。

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なお、大膳野南貝塚付近が早期後半頃に狩場であり、炉穴で干し肉や燻製を作っていたころ、その縄文人達の主要な居住地がどこであったのか、検討していないことに気が付きました。

早期後半頃大膳野南貝塚付近で狩をしていた縄文人達の拠点がどこであるか、追って検討することにします。

 

2017年3月29日水曜日

千葉県 陥し穴と炉穴の関係

参考学習として、千葉県の陥し穴分布と炉穴分布の関係を考察してみました。

1 千葉県 陥し穴分布ヒートマップ

千葉県 陥し穴分布ヒートマップ
半径パラメータ5㎞、輪郭をトレース

陥し穴の時期はデータベース(ふさの国文化財ナビゲーション)で中近世の「シシ穴」を別建てにしていますから、ほとんど全て縄文時代のものであると考えます。

陥し穴の時代区分

2 千葉県 炉穴分布ヒートマップ

千葉県 炉穴分布ヒートマップ
半径パラメータ5㎞、輪郭をトレース

炉穴の時期はほとんど縄文時代早期であると考えます。

炉穴の時代

3 陥し穴と炉穴の関係

陥し穴と炉穴のヒートマップ対照図

陥し穴分布ヒートマップの赤色地域を炉穴分布ヒートマップに白点線でプロットしてみました。

陥し穴が赤色で炉穴も赤色の地域(A)は縄文時代早期の狩猟好適地を示していて、その場所に狩猟に従事した人々の生活があり、獲得した動物の干し肉や燻製を作成した場所であると想定できます。

陥し穴が赤色で炉穴は黄色や青色の地域(B)は縄文時代早期には未開発で、縄文時代前期以降に新規開発された狩猟好適地であると考えます。

陥し穴は黄色や青色で炉穴が赤色の地域(C)は縄文時代早期に、主に狩猟以外の生業に従事した人々の生活の場所であり、海産物や堅果類などの産物を乾燥させ保存食品を作った場所であると考えます。



2017年3月28日火曜日

千葉県 陥し穴分布ヒートマップ 2

昨年末から大膳野南貝塚の学習を始め、縄文時代早期の陥し穴についての学習に関連して、千葉県の陥し穴一般について参考学習を行っています。

ここで扱っている陥し穴は縄文時代を通しての陥し穴であり、縄文時代早期に限られているものではありません。

また、陥し穴分布は陥し穴罠猟だけでなく、それと一緒に行われていたと考える追い込み猟の指標でもあると考え、陥し穴分布は広義の狩猟適地の指標になると考えます。

2017.03.27記事「千葉県 陥し穴分布ヒートマップ」では陥し穴分布と旧石器時代遺跡分布を比較して、旧石器時代と縄文時代を比べると縄文時代の狩猟好適地が大幅に限定されてしまった様子を考察しました。

この記事では陥し穴分布と縄文時代遺跡分布を比較して、狩猟という生業の好適地と他の生業の好適地との関係を考察します。

1 千葉県 陥し穴分布ヒートマップ

千葉県 陥し穴分布ヒートマップ
半径パラメータ5㎞、輪郭をトレース

この分布図で赤地域は縄文時代の狩猟好適地を表現していると考えます。

2 千葉県 縄文時代遺跡分布ヒートマップ

千葉県 縄文時代遺跡分布ヒートマップ
半径パラメータ5㎞、輪郭をトレース

縄文時代草創期から晩期までの6553遺跡をプロットして作成したヒートマップです。

この分布図で赤地域は縄文時代人の生活・活動が活発に行われた地域を表していて、より具体的には貝塚集落などに象徴される漁業が盛んであった地域、堅果類の採集が盛んであった地域、狩猟が盛んであった地域、その他の生業(漆、道具づくり、交易、…)が盛んであった地域が複合的に表現されていると考えます。

この縄文時代分布ヒートマップと陥し穴分布ヒートマップを比較すると、縄文時代の生業が盛んであった地域のほとんどが狩猟以外の生業が盛んであった地域であるとことが判ります。

海岸や入り江付近の漁業と内陸の堅果類採集が大きな比重を占め、狩猟はさほどでもないことが判ります。

3 千葉県中央部付近のヒートマップ

千葉県中央部付近のヒートマップ比較

千葉県中央部付近のヒートマップを比較すると陥し穴分布ヒートマップで赤色地域であり、かつ縄文時代遺跡分布ヒートマップで赤色地域になっている部分(B)は陥し穴分布ヒートマップの赤色地域(B、C)の半分程度にすぎません。

これは陥し穴分布が縄文時代全遺跡分布に与える影響が極めて限定されていることを物語っています。

陥し穴分布が縄文時代全遺跡分布に与える影響が極めて限定されていることの最大の意味は狩猟好適地が他の生業の適地と比べて狭いということです。

そのほかに、狩猟好適地では施設は陥し穴程度であまり必要がないので、つまり自然的環境を保つ必要があるので、他の生業適地(貝塚など)と比べて遺構が少ないという意味もあると考えます。




2017年3月27日月曜日

千葉県 陥し穴分布ヒートマップ

2017.03.26記事「千葉県 陥し穴分布」で千葉県の陥し穴分布図を作成し、それを旧石器時代遺跡分布図と比較して考察しました。

点情報の分布の様子を把握し、比較するということは大きな特徴を大ざっぱに説明することになり、客観性が乏しくなるので、この記事では陥し穴分布図と旧石器時代遺跡分布図のヒートマップを作成して、それに基づいて、改めて考察します。

1 千葉県 陥し穴分布ヒートマップ

千葉県 陥し穴分布ヒートマップ

半径パラメータ5㎞でヒートマップを作成しました。ドットプロット情報を等高線図のような平面分布図に集約したことになります。

半径5㎞圏に存在する陥し穴数を計算して、その数が多いところが赤、少ないところが青とした5段階評価を行い分布図にしたものです。

分布図の粗密を相対的に5段階区分したということです。

陥し穴分布は縄文時代狩猟好適地の分布であると考えますから、赤色地域付近は縄文時代の有数な狩猟好適地で、その分布は千葉県中央部に存在します。

2 旧石器時代遺跡分布ヒートマップとの比較

千葉県 旧石器時代遺跡分布ヒートマップ

半径パラメータ5㎞です。

旧石器時代の狩猟好適地は下総台地各所に点在しています。

縄文時代狩猟好適地の分布とは大いにその特性が異なります。

旧石器時代には下総台地各所に動物が生息していて、その狩が生業として成立していたのですが、縄文時代の狩が生業として成立する地域の主要部は千葉県中央部付近に限定されてしまったということです。

縄文時代にはオーバーキルで動物生息数が減少して台地での狩猟が徐々に困難になり、山に近い村田川付近の台地だけが主要な狩場になったと考えます。

3 千葉県中央部付近のヒートマップ比較

千葉県中央部付近のヒートマップ比較

千葉県中央部付近のヒートマップを比較すると、旧石器時代には赤(狩猟好適地)であったけれども縄文時代にはそこから外れた地域(A)と、旧石器時代には赤ではなかったけれども縄文時代には赤になった地域(C)が存在します。

A地域は貝塚集落地域として開発されたので狩猟地域から外れ、C地域はおそらく縄文時代に狩猟地域として新たに開発した地域であると考えます。

2017年3月26日日曜日

千葉県 陥し穴分布

大膳野南貝塚の陥し穴について学習していますが、知見を広めるために千葉県全体の陥し穴について検討します。

1 千葉県陥し穴分布図の作成

次の図は千葉県陥し穴分布図です。

千葉県陥し穴分布図
データはふさの国文化財ナビゲーションによる

陥し穴分布図はこれまでの検討から単純に陥し穴の存在を示しているだけでなく、陥し穴罠猟とセットで行われていた追い込み猟の存在も示していると考えます。

つまり、陥し穴分布図とは狩猟分布図であると考えます。

このデータを時代別にみると次のようになります。

陥し穴の時代区分

時代情報が欠落している陥し穴データが多くなっていますが、陥し穴の大半は縄文時代のものであると仮定して検討を進めることにします。(ふさの国文化財ナビゲーションでは中近世の陥し穴である「シシ穴」は別項目として扱っています。)

そのように考えると、千葉県陥し穴分布図は縄文時代の千葉県狩猟分布図であると考えることができます。

その目でみると、縄文時代狩猟は県域どこでも満遍なく行われていたのではなく、特段に狩猟が集中して行われていた地域、狩猟が行われていた地域、狩猟は行われていない地域にある程度明白に区分して捉えることができます。

2 旧石器時代遺跡分布図の作成と縄文時代との比較

縄文時代より以前の旧石器時代狩猟は旧石器時代遺跡分布図から判るものと考えます。

千葉県旧石器時代遺跡分布図
データはふさの国文化財ナビゲーションによる

旧石器時代遺跡は全て狩猟現場を指していると考えます。

ですから、千葉県旧石器時代遺跡分布図は旧石器時代の狩猟分布図であると考えます。

旧石器時代と縄文時代の狩猟分布図を比較すると千葉県の北部では(つまり下総台地では)縄文時代の狩猟分布密度が薄くなっているように観察できます。

旧石器時代には千葉県中央部から北部にかけて狩猟が盛んにおこなわれていた状況と比べて、縄文時代には千葉県中央部に狩猟が集中していく様子を読み取ることができます。

恐らく旧石器時代の狩猟人口(つまり全人口)と動物の関係では生まれていなかった動物のオーバーキルという問題が縄文時代には発生して、狩猟好適地が減少したのだと考えます。

千葉県中央部付近の縄文時代陥し穴分布図と旧石器時代遺跡分布図を示すと次のようにな
ります。

千葉県中央部付近縄文時代陥し穴分布図
データはふさの国文化財ナビゲーションによる

千葉県中央部付近旧石器時代遺跡分布図
データはふさの国文化財ナビゲーションによる

2つの分布図は見た目には似ていますから、千葉県中央部は旧石器時代から引き続き縄文時代も狩猟好適地が集中していた様子を知ることができます。

同時に子細に比較すると旧石器時代には狩猟が行われていたけれども縄文時代には狩猟が行われなくなった地域も部分的に見られます。

次の記事で点分布図をヒートマップ(面分布図)に変換してより分布変化をより客観的に観察してみます。




2017年3月24日金曜日

大膳野南貝塚 陥し穴誘導柵遺構存在の可能性

1 陥し穴誘導柵遺構の存在可能性検討 1

大膳野南貝塚の縄文時代遺構地図3枚を重ねて陥し穴遺構と多数存在する「縄文ピット」との関係を観察してみました。

重ね合わせた3枚の縄文時代遺構地図
・付図1 縄文時代早期遺構分布図
・付図2 縄文時代前期後葉遺構分布図
・付図3 縄文時代中期末葉~後期中葉遺構分布図

多数存在する「縄文ピット」は付図1には記載されていませんが、付図2と3には全く同じものが記載されています。

多数存在する「縄文ピット」は前期後葉集落及び中期末葉~後期中葉集落で作られたものがほとんどであるという推察と、一つ一つ時期の特定ができないという理由から、このような付図記載になったと考えます。

しかし、多数存在する「縄文ピット」のなかに縄文時代早期に作られたものが存在するという考えを否定することはできませんから、早期遺構である陥し穴と縄文ピットの関係を観察してみました。

その結果は次の通りです。

大膳野南貝塚 陥し穴誘導柵遺構の存在可能性検討 1

7か所で陥し穴誘導柵遺構の可能性のある縄文ピット線形列を観察しました。

この結果は陥し穴付近の縄文ピットを見て、無数に観察できる線形列のなかから誘導柵と考えられるものを抽出したものですから、主観的な要素が入り込んでいることは否定できません。

この観察は、その場所に存在することを期待する線形列を探したという操作の結果です。

しかし、単純な創作とは全く異なり、陥し穴誘導柵遺構を発見する重要な手がかりの一つになると考えます。

2 陥し穴誘導柵遺構の存在可能性検討 2

この結果のうち、3つの陥し穴を結ぶように観察できる縄文ピット線形列について検討します。

大膳野南貝塚 陥し穴誘導柵遺構の存在可能性検討 2

11号、13号、2号の3つの陥し穴を誘導柵で連携した大きな罠であるように観察できます。

13号陥し穴はその発掘写真に写っている縄文ピットが誘導柵遺構そのものであるように観察できます。

発掘調査報告書における13号陥し穴のスケッチには縄文ピットは書かれていませんから、発掘担当者はこれらの縄文ピットは陥し穴関連の遺構であるとは考えていなことは明白です。

しかし、13号陥し穴付近の縄文ピットが誘導柵遺構である可能性を、現場を知らない素人であるが故に感じてしまいます。

13号陥し穴の罠猟を次のように想像してしまいます。

13号陥し穴罠猟のイメージ(想像)

このような観察・想像が意味のないものであるか、それとも意味があるのか、つまり縄文ピットの中に陥し穴関連遺構が混じっていないのか、いるのか、その可能性についていつか専門家に聞いてみることにします。

なお、想像を発展させれば、3つの陥し穴を利用した施設型罠猟は、西にある谷筋(A谷)から動物を台地に追い上げて、捕獲する装置のように考えることもできます。

そのように想像すると、動物を追わない罠猟であったかもしれないし、動物を追う罠猟であったかもしれないと二つの狩猟スタイルの可能性を検討する必要があるように感じます。

根拠薄弱ですが、この施設型罠猟の主要な獲物はイノシシであるように感じます。

3 陥し穴誘導柵遺構の存在可能性検討 3

斜面に存在する陥し穴の付近に、縄文ピットが寄り添うように観察できます。

陥し穴とは全く別にたまたま縄文ピットが作られたということが、斜面であるが故に考えにくいように感じ、斜面における陥し穴と縄文ピットは関連した遺構であるという疑いを持ちます。

これらの縄文ピットは単純な線形になっていませんが、動物を陥し穴に誘導する装置(結局は誘導柵)であったと、とりあえず仮説することにします。

斜面付近の陥し穴と縄文ピットのパターンを沢山集めれば、類似したものが集まり、その意味が判るかもしれません。

大膳野南貝塚 陥し穴誘導柵遺構の存在可能性検討 3


2017年3月22日水曜日

大膳野南貝塚 炉穴と狩との関係

陥し穴が追い込み猟で使われていたと考えていた時点では炉穴と狩の関係を次のように捉えていました。
2017.03.13記事「大膳野南貝塚 陥し穴猟は待伏猟か追込猟か」参照

陥し穴が追い込み猟で使われていたと考えていた時点での炉穴と狩との関係イメージ

その後、大膳野南貝塚付近の縄文時代早期狩猟は地形を利用した追い込み猟(集団猟)と陥し穴罠猟(個人猟)のセットで行われていたと考えを変更しました。
2017.03.20記事「縄文時代狩猟モデル(仮説)」参照

この新しい狩猟モデルにより炉穴と狩の関係を次のように改訂します。

炉穴と狩との関係イメージ(改訂)

炉穴の分布空間は陥し穴罠猟空間とほぼ一致し、それは追い込み猟空間の主要部に一部重複、大部分は隣接して存在していたと考えました。

トータルでざっくり捉えれば、炉穴分布空間・陥し穴罠猟空間・追い込み猟空間主要部は一体的空間に存在していたと考えます。

機能から捉えれば大膳野南貝塚縄文時代早期狩猟空間は炉穴ゾーン(宿泊活動機能)、陥し穴罠猟ゾーン、追い込み猟主要部ゾーンの3つにゾーニングできると考えます。

炉穴ゾーンでは犬を伴う人集団が調理宿泊しながら逗留し、動物捕獲施設や誘導柵の設置補修、追い込み猟の実施、捕獲動物の解体と製品化(皮革製品、歯牙製品、骨製品、肉製品)などに携わったと考えます。

追い込み猟の実施では広大な台地空間に散らばる動物を集めて群れにする作業、群れを狩場付近まで移動させる(追う)作業、誘導柵と深い谷頭地形を利用して一気に動物を捕獲施設に追い込む作業、捕獲施設内の動物を仕留める作業などが順次行われたと考えます。

同時に炉穴ゾーンの一部は陥し穴罠猟のための陥し穴と誘導柵の設置補修及び罠猟の見廻り・動物捕獲活動のための宿泊逗留に使われたと考えます。

2017年3月21日火曜日

大膳野南貝塚 狩猟モデルの投影

2017.03.20記事「縄文時代狩猟モデル(仮説)」で学習促進のための自分専用縄文時代狩猟モデル(仮説)の作成をメモしました。

早速このモデルを大膳野南貝塚陥し穴作成時代(縄文時代早期を想定)に投影して、そのころの狩の様子を想像してみました。

1 大膳野南貝塚付近の追い込み猟ポイントの想定

大膳野南貝塚付近 縄文時代追い込み猟ポイントの想定

下総台地が東京湾水系によって開析され谷壁が切り立っている谷頭に追い込み猟ポイントを投影することができました。

追い込み猟は台地面と谷頭の地形の変換が急激であるほど効率的であると考えますので、浅い谷は追い込み猟に適さないと考えます。

また、台地面とは繋がらない丘陵開析谷域は動物を集めることができませんから追い込み猟は行われなかったと考えます。

動物を追い込むのに不都合な方向の谷も追い込み猟には使われなかったと考えます。

なお、上図から大膳野南貝塚発掘区域は大金沢支谷A谷、B谷、C谷の3つの追い込み猟フィールドであったことが判ります。

2 陥し穴長軸方向から想像する誘導柵列

A谷追い込み猟に対応する誘導柵列を陥し穴長軸方向から推察してみました。

大膳野南貝塚 A谷追い込み猟 陥し穴長軸方向から想像する誘導柵列

33の陥し穴のうち8つの陥し穴の長軸方向から狭い台地を分断するような誘導柵列を想像しました。

このような誘導柵列を活用して、勢子と犬の共同作業としてのA谷追い込み猟が行われたと考えます。

A谷の谷底には追い込んだ動物を仕留める捕獲装置が設置されていたと考えます。

誘導柵列の所々に設置した陥し穴は、追い込み猟で使うのではなく、日常的罠猟として使われたと考えます。

誘導柵の主な効用は集団追い込み猟であり、陥し穴罠猟は誘導柵を副次的に利用して行われたと考えます。

B谷C谷追い込み猟に対応する誘導柵列は次のように推察できます。

大膳野南貝塚 B谷C谷追い込み猟 陥し穴長軸方向から想像する誘導柵列

13の陥し穴長軸方向から狭い台地を通路のように区画する誘導柵列を想像しました。

この誘導柵列の意義と陥し穴との関係はA谷追い込み猟と同じように考えることができます。

なお、想像した誘導柵が全て同時に存在したとは、陥し穴が全て同時に存在したと考えないのと同じように、考えません。

誘導柵は立木にツタを使って作るなどの場合が多かったと考えますから構造物とは言えない部分が多く、遺構としては残りずらいと考えます。

なお、陥し穴の長軸方向が誘導柵方向に略一致するという仮定でモデルを投影していますが、それで本当によいのか、詳しい情報はもっていません。

2017年3月20日月曜日

縄文時代狩猟モデル(仮説)

縄文時代狩猟構成要素が追い込み猟と罠猟であることを理解しました。
2017.03.19記事「縄文時代狩猟構成要素としての追い込み猟と罠猟」参照

この理解に基づいて縄文時代狩猟モデル(仮説)を作成してみました。
狩猟モデル(仮説)を作成することにより大膳野南貝塚の遺構の理解を促進できると考えます。
遺構の理解や解釈とモデルが著しく齟齬をきたすようならば、モデル(仮説)は変更修正します。
モデル(仮説)はあくまでも発掘調査報告書の理解促進のための道具として利用します。
モデル(仮説)は旧石器時代の検討をベースに作成しました。

1 大膳野南貝塚における旧石器時代狩猟イメージ

大膳野南貝塚付近に旧石器時代遺跡分布は次の通りです。

大膳野南貝塚付近の旧石器時代遺跡分布
2017.01.16記事「大膳野南貝塚 旧石器時代ブロック出土の意義」参照

この遺跡分布と近隣草刈遺跡の旧石器時代検討から次のような旧石器時代狩猟イメージを導きました。

旧石器時代狩場の地形イメージ(仮説)
2017.01.16記事「大膳野南貝塚 旧石器時代ブロック出土の意義」参照

より具体的には次のように狩をイメージしました。

大膳野南貝塚付近の後期旧石器時代の狩の様子(想定)
2017.01.19記事「大膳野南貝塚 旧石器時代狩の様子」参照

後期旧石器時代ブロックと対応する狩場(想定)
2017.01.20記事「大膳野南貝塚 旧石器時代ブロックと狩場の対応」参照

2 縄文時代狩猟モデル(仮説)

旧石器時代の狩猟モデルは、上記の通り台地末端の狭窄谷地形を利用した追い込み猟であると考えました。
縄文時代の狩猟モデルは、旧石器時代から引き続き行われた追い込み猟に加えて、陥し穴罠猟が追加されたと考えます。

追い込み猟と陥し穴罠猟は集団猟(主要な猟)と個人猟(落ち穂拾い的罠猟)として連携していたと考えます。
また、動物の季節移動主要ルート上に列状陥し穴を設置した罠猟も千葉市内野第一遺跡の例のように存在していたと考えました。

縄文時代狩猟モデル(仮説)

この仮説の有効性が担保されるためには、誘導柵設置遺構と動物捕獲遺構の発見が必要です。

誘導柵設置遺構は発掘者がその遺構の存在を意識すれば発見できる可能性があると考えます。
2017.03.15記事「大膳野南貝塚 発掘面の黒斑点列は陥し穴誘導柵か」参照

動物捕獲遺構は谷底に位置するので、流水によって破壊されるので発見が困難ですが、そのような遺構があるかもしれないという発掘担当者の意識があれば、いつか発見されるに違いないと想像します。




2017年3月19日日曜日

縄文時代狩猟構成要素としての追い込み猟と罠猟

佐藤宏之著「北方狩猟民の民族考古学」を学習しました。
2017.03.16記事「学習 佐藤宏之著「北方狩猟民の民族考古学」」参照

その結果縄文時代陥し穴が全て罠猟として使われた可能性が高いことを学習しました。
2017.03.17記事「陥し穴は罠猟か追い込み猟か」参照

同時に、上記図書では規模の大きな追い込み猟(集団猟)と規模の小さな罠猟(個人猟)の組み合わせが狩猟の一般的姿であると何度も書いていて、縄文時代狩猟についても次の記述の通り、特にシカ猟に着目すると罠猟(陥し穴猟)はむしろ補完的であり、メインの猟法は追込み猟であることを暗示しています。

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参考 佐藤宏之著「北方狩猟民の民族考古学」の縄文時代狩猟の組み合わせに関する記述
北方狩猟民の民族誌にみる罠猟
●民族考古学の視点
陥し穴に関する民族誌例は世界中の狩猟採集民や農耕民に見られることはこれまでも繰り返し述べてきた。
その意味で陥し穴は極めて普遍的な文化要素である。
従って適応システムの構造的対比という民族考古学的視点を採用しなければ、どのような解釈にも類似資料は見いだせることになる。
このような視点から見て陥し穴猟の構造を探るために、以下のような理由から北方狩猟民のシカ等の偶蹄目狩猟に注目する。
第一に、縄紋時代の狩猟システムは生態的には中緯度温帯狩猟採集民に相当するが、これに対応する現生狩猟採集民の民族誌はほとんど存在せず、わずかに北アメリカ先住民の民族誌資料に留まる。
この民族誌資料でも、集団狩猟の方法は南方よりも北方の狩猟採集民と共通する要素が多い。
第二に、縄紋時代の土器型式構造から推測される社会構造の動的安定性から見て、縄紋時代の狩猟システムは臨機的な個人・小集団狩猟を中心とする南方的なものに留まったと考えるよりも、より組織化された狩猟法に重きを置く北方型の狩猟システムにまで発達したと推定する方が合理的である。
第三に、縄紋時代の動物食糧の主体はシカとイノシシであり、陥し穴猟はこの両者を主要な狩猟対象とした狩猟システムの一部を形成すると考えられることから、シカ類を中心とする偶蹄目の組織的狩猟法の発達する北方民族例の検討は重要と考えられる。
第四に、先述したオズワルト等の検討によれば、熱帯の穀物農耕民・根菜農耕民や一部の温帯の狩猟採集民の陥し穴利用は昆虫・小動物・鳥用の小型のものが多く、縄紋期の陥し穴とは規模の点で相違する。
一部の大型獣用の陥し穴は農地防御用を主としている。
やや北方の温帯狩猟採集民や亜極北・極北の狩猟民はもっぱらシカ・トナカイを狩猟対象としており、より組織的である。
従って陥し穴の規模と構造から考えても、北方狩猟民型により近いのではないかと考えられる。

●北方狩猟民のシカの追い込み猟
北方狩猟採集民の居住する環境は広大であるが、より南の諸地域に比べて比較的単純である。
北極海を取り巻くツンドラ帯の南には森林ツンドラが分布し、さらに南にはタイガが広がっている。
東西の差よりも南北の環境格差が大きく、グリーンランドからユーラシア北方・北アメリカにかけての東西の差異は驚くほど小さい。
北方狩猟民はツンドラ帯ではトナカイを、森林帯ではエルク・ヘラジカ・アカシカ・シカ等を主に狩猟しており、狩猟対象獣の生態行動によく適応した狩猟法を発達させている。
この地域の狩猟法には非常に広範囲に共通する特徴が多い。
北方狩猟民は高度に発達した集団猟を行い、個人猟は補完的に行っていると考えられる。
彼等の主要な狩猟法はトナカイやエルク等の追い込み猟による大量捕獲である。
代表的な猟としては、シベリアにおけるポポールカ猟があり、同種の猟法はグリーンランドから北アメリカまで広範囲に見られる。
二本一組の木柵列・丸太列・石柱列・石積列等によって獣群を水辺に誘導し、水中に追い込んで動きがにぶったところを船上より撲殺・射殺・刺殺する方法である。
ツンドラか森林かで誘導施設(石か木か)に変異があり、単純に追い落とすだけのものから、逃亡防止用の射手や罠を誘導施設の途中に配置するなどの変異はあるが、シカ類の捕獲にはもっとも有効である。
ポポールカ猟と並んで北方狩猟民に大変よく使われる狩猟法は、ポポールカ猟と基本的な仕組みは同じで、追い込む先におり・囲い・大規模な窪地・狭い通路等を設けたり、崖の上から追い落とす方法である。
追い込み先の施設は必要上数メートル以上の規模をもたねばならず、縄紋の陥し穴のような小型の陥し穴が選択されることはまずない。
岩手県九戸郡山形村で観察された列島の民俗例に見られる追い込み猟でも、追い込み先に使用された穴の規模は径7メートル、深さ3~4メートルと報告されている。
これらの狩猟に使われる誘導施設の長さは通常数キロメートル単位の規模であるが、70キロメートルにもおよぶ例も報告されている(図54、55)。
いずれも大規模な追い込み猟であり、北方狩猟民にとってはもっとも重要な狩猟法のひとつであるが、さらに重要な点は、これらが罠や個人猟と無関係に存在しているわけではなく、むしろ両者が一体となって狩猟システムを構成している点である。
大規模な追い込み猟は群生し集団で移動するシカ類の生態行動に高度に適応した狩猟法であり、従って普通は越冬地への移動といったシカ類の集団移動の時に最も効果が発揮される。
このことは追い込み猟には季節性があり、他の時期や資源の獲得のためには罠猟や個人猟と相補的関係をもたねばならないことを意味している。
なおより温帯の狩猟民も、対象となる獣はバイソンや山ヤギのように異なるが追い込み猟を行っていた記録があり、先史時代には温帯でも追い込み猟が行われていたことは確実である。
図54
図55
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この図書の著者は縄文時代狩猟は集団猟としての追い込み猟と個人猟としての陥し穴罠猟から構成されると考えています。

しかし残念ながら縄文時代追い込み猟の記述はこの図書には全くありません。

ですからこの図書を最初にうっかりして読んでいたときは、縄文時代の猟は陥し穴罠猟だけから構成されているように錯覚してしまいました。
(そのように錯覚したので、追い込み猟自体を否定されたように受け止め、この図書の考えを受け入れるのに心理的抵抗が生まれ、時間もかかりました。)

縄文時代追い込み猟に関わる遺跡・遺構・遺物が見つかっていないから、(これまでの研究がないから)この図書では縄文時代追込み猟の記述がないのだと想像します。

大膳野南貝塚の学習を進めていく上で、縄文時代早期頃の狩猟はメインの集団追込み猟とサブの個人陥し穴罠猟から構成されていたと仮説することにします。

これまで私は、陥し穴の検討をすれば、陥し穴が使われていた頃の狩猟の全貌が判ると考えていたのですが、それは間違いだと気が付きました。

陥し穴の検討から直接導くことができるのは、それが使われていた頃の狩猟の一部事象だけであるということです。

広域的な陥し穴の検討から、間接的に集団追込み猟の情報が得られないものか、興味深く検討してみることにします。


2017年3月17日金曜日

陥し穴は罠猟か追い込み猟か

2017.03.13記事「大膳野南貝塚 陥し穴猟は待伏猟か追込猟か」で大膳野南貝塚の縄文時代早期後半頃と考えられる陥し穴が追込み猟で使われてきたという推測を書きました。

一方入手した良書佐藤宏之著「北方狩猟民の民族考古学」(北方新書)では「陥し穴は罠猟か追い込み猟か」という設問を立て、罠猟と追い込み猟の違いを説明して、縄文時代の陥し穴は全て罠猟でつかわれたと結論付けています。

自分の想定と真っ向から異なる専門家所見に宗旨替えすべきかどうか、検討してみました。

1 陥し穴の罠施設としての認識

陥し穴は動物をだまして穴に落とす施設であることが基本であると考えます。

追ってきた動物を誘導柵等で陥し穴に落とすということを考えると、陥し穴をカムフラージュしていても、跳ねて逃げている動物が陥し穴を飛び越してしまう確率があります。

つまり追ってきた動物を確実に捉える施設としては大きな弱点があります。

一方、罠施設としてカムフラージュした陥し穴を利用すれば動物を捕捉できる確率が高まります。

図書でいうように縄文時代の陥し穴は、それに誘導柵を併設して罠施設として利用したと考えることに納得します。

これまでの考え…陥し穴の追込み猟利用…から図書の考え…陥し穴の罠猟利用…に宗旨替えすることにします。

2 民族誌情報の尊重

民族誌情報で陥し穴を利用した追込み猟で陥し穴を利用した例がほとんど無いという情報を尊重することにします。

陥し穴に誘導柵を併設して構える世界の罠猟について学習を深めることにします。

ノルウェーの誘導石垣を伴う陥し穴猟(シカ猟)

この図書のルーデワ猟の記述に着目します。
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さらに興味深い例としては、極東地域の探検家として著名なアルセーニエフによって報告された、シホテ=アリニ山地で20世紀初頭(1906年)に行われていたルーデワ猟である。
ルーデワは、長大な誘導柵と罠として陥し穴を組み合わせた罠猟で、長いものでは24キロメートルの間に74の陥し穴が設置されていたと報告されている。
さらに重要な点は、筆者等によって1995~6年に調査されたジャコウジカのフカ猟と全く同じと思われる誘導柵猟をもアルセーニエフがルーデワと呼んでいる点である。
ルーデワとは、長大な誘導柵を伴う罠猟を指したらしく、使われた罠が括り罠か陥し穴かは関係ないと認識されていたのであろう。
実はこのルーデワの陥し穴は、筆者等の聞き取り調査によれば、土地の人間によって新しい時期に中国方面から導入された新式の罠である可能性が高いと思われる。
筆者等の調査によれば、もともとこの地域には陥し穴の存在は伝承されておらず、新しくもたらされた陥し穴というのは長軸2メートル程度の方形で坑底面に何本もの槍を突き刺したものであったり、または土坑上面に×字状の切れ目をいれた板で覆ったものであったらしい。
以上のことからわかるのは、誘導柵と罠を組み合わせた罠猟では、罠の部分は効率性等によってかなりたやすく変換可能な構造的特徴を有することである。
誘導柵と罠の組み合わせた使用が肝要なのであって、罠の種類に拘泥することが問題なのではない。
従ってこうした狩猟の技術構造研究では、システムの内実の把握と変換可能な要素の識別が重要となる。
そしてこの罠猟の技術構造のうち仕掛け弓やくくり罠等を陥し穴に置換すれば、縄紋時代の陥し穴猟の技術構造を解釈するモデルとなりうるのではないかというのが筆者の仮説である。
佐藤宏之著「北方狩猟民の民族考古学」(北方新書)から引用
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この図書によれば、次のカリブーの誘導柵を伴う罠猟の罠をくくり罠から陥し穴に置換すれば、縄文時代の陥し穴猟を解釈できることになります。

カリブーの誘導柵を伴う罠猟
佐藤宏之著「北方狩猟民の民族考古学」(北方新書)から引用

3 大膳野南貝塚の陥し穴の再解釈

これまで大膳野南貝塚の陥し穴は追い込み猟として利用されていたとイメージしてきましたが、罠猟であるとイメージしなおして、主な過去記事について順次検討し直して新たな記事とします。(煩雑になるので、過去記事そのものの訂正は行いません。)

4 千葉市内野第1遺跡陥し穴列の再解釈
ブログ花見川流域を歩く番外編2015.04.20記事「千葉市内野第1遺跡 縄文時代大規模落し穴シカ猟」等で検討した縄文時代陥し穴列についても、追い込み猟解釈から罠猟解釈に解釈変更して記事を書きなおします。(煩雑になるので、過去記事そのものの訂正は行いません。)

参考 ブログ花見川流域を歩く番外編2015.04.20記事「千葉市内野第1遺跡 縄文時代大規模落し穴シカ猟」掲載図版

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自分としてはかなり大きな宗旨替えとなりました。
以前鳴神山遺跡(奈良平安時代遺跡)の直線道路について、その解釈について宗旨替えしましたが、今回はそれ以上の解釈変更です。
2015.12.25記事「鳴神山遺跡道路遺構に対する疑問 4」参照


2017年3月16日木曜日

学習 佐藤宏之著「北方狩猟民の民族考古学」

WEBで縄文時代陥し穴について情報を渉猟していると佐藤宏之著「北方狩猟民の民族考古学」(北方新書)という図書にたどり着き、購入してみました。

佐藤宏之著「北方狩猟民の民族考古学」(北方新書)

この図書では過去及び現在の狩猟民の調査を行い、特に多摩ニュータウンにおける縄文時代陥し穴の調査研究を通して、「縄文時代陥し穴が罠猟として使われたものであり、追い込み猟でつかわれたものではない」という結論を導いています。

この図書のメインテーマはまさに「陥し穴は罠猟か追い込み猟か」という点にあるように感じます。

これまで、このブログでは大膳野南貝塚の陥し穴の使われ方を追込猟として想定してきていますから、自分の考えと真正面から異なる結論をこの図書では詳細に説明しています。

この図書の内容が自分が知りたいことばかりでありとても充実しているので、それだけに、説明通りであり自分が宗旨替えするのか、あるいは宗旨替えは必要でないだけの情報が発掘調査報告書分析で用意できているのか、どちらかの選択を強引に迫られているようで、ハラハラドキドキします。

学習の醍醐味の瞬間です。

この記事では図書の「陥し穴は罠猟か追い込み猟か」という小見出しと「追い込み猟での陥し穴の使い方」という小見出しの部分を引用して、著者の論点を整理します。

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陥し穴は罠猟か追い込み猟か
今村は、陥し穴の狩猟法を罠と追い込み猟の二種に弁別し、単独または少数の陥し穴を配置性に乏しく設置した場合には罠としての性格を、列状配置の多くには追い込み猟の可能性を認めている。
その他多くの研究者はより単純にどちらかの機能を想定しているようであり、大規模な列状配置のタイプには後者説の採用が一般的なようである。
しかしながらいずれにしてもその根拠は不明瞭で、「このような大規模な陥し穴群を単なる罠として作るには大変(=無駄)」だからといった素朴な印象=感慨の域を脱する論拠は見あたらない。
陥し穴資料自体の属性分析は細を穿つのと対照的である。

しかしながら民族考古学の立場から見た場合、先史狩猟採集民にとって罠か追い込みかといった問題は狩猟システムの根幹、従って活動系全体を評価するきわめて根本的な問題となる。
この問題の評価は、今後の陥し穴研究の進展が、狩猟システム研究に止揚していくのかどうかを分岐する重要な研究課題なのである。
そしてこうした狩猟システムの研究には、民族考古学研究が方法としてもっとも重要になろう。

陥し穴の全てが罠である可能性が高いことは、現生民族誌例やこれまでの筆者の民族考古学的調査から明らかである。
その根拠は次節において詳述する。

罠猟と追い込み猟のもっとも大きな違いはその運用にある。
追い込み猟は大規模な集団猟であることから、この猟を行う時には他の生業の実行を困難にすることが普通である。
つまり他に重要な生業がない時期か、他の生業を一定程度犠牲にしてもそれに見合う成果が期待される場合に実行可能となる。
肉や毛皮の質が向上し見通しのきいた森の中でも猟がしやすくなる等通常猟にもっとも適する時期と考えられる秋~晩秋は、木の実が繁りサケ等も遡上するので他の生業も本格化していることが多く、集団の労力の割り振りが生業スケジュールの上で問題となる。
現代人の感覚では不釣り合いに思われるような大規模な罠を製作・実行する意義はまさにここにある(図49)。

追い込み猟と比べて罠は、掛ける時期とは異なる時期からあらかじめ時間をかけて製作することが可能である。
従って、比較的少人数でも多くの猟果を期待できる大規模な罠は製作可能である。
何よりも猟の瞬間にその場にいなくともよいので、他の活動スケジュールとの調整が容易となる点が優れている。

一般に先史人の狩猟採集活動では、季節的変動に適応した資源開発の行動システムを構築していることが知られているが、その際もっとも重要な問題は時間の管理time budgetingである。
資源開発行動における時間の管理の精緻化は、適応システムの形態とその高度化を保証するのである。
そして罠の導入は、まさに時間管理の側面からもより効率的なリスク回避戦略として位置づけられよう。

追い込み猟での陥し穴の使い方
これら北方狩猟民のシカの追い込み猟では陥し穴が主な捕獲装置として使われることはない。
たとえ使用される場合でも、誘導柵・列の途中に切れ目を設け、群から離れて単独で逃げる獣を対象に付帯的に設置されている例しか認められない。
また逆に、長大な誘導柵に陥し穴のような罠を併設する例は各地の民族誌例に見られるが、これらは全て追い込み猟ではないことが重要である(図55)。

つまり重要なことは、こうした民族誌を点検する限りいずれの例でも、陥し穴は罠として機能しているということである。
追い込まれて興奮している動物が陥し穴にうまくはまることを期待することは困難でありまた、せいぜい1~2個体しか捕獲できないような陥し穴は、大量捕獲を目的とする追い込み猟にはふさわしくないのである。
従って縄紋の陥し穴は罠であり、陥し穴猟の展開は罠猟としての陥し穴猟の発達と考える方が現実的である(図56)。
文・図ともに佐藤宏之著「北方狩猟民の民族考古学」(北方新書)から引用
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著者は陥し穴が罠か追い込みかという問題は狩猟民を評価する根本的な問題であると認識した上で、次のような理由から、縄文時代の陥し穴は全て罠であった可能性が高いと結論づけています。

1 時間管理の有利性
陥し穴を罠として使えば、時間管理上、猟の最盛期に猟にかける時間を減らして、他の生業にかける時間を増やすことができる。
・季節前の準備が可能
・捕獲の瞬間にその場にいなくてもよい

2 少人数でも多数罠を用意できる
多数の罠を用意することによって、罠猟は少人数でも多くの猟果を期待できる。

3 民族誌では陥し穴は罠として機能
民族誌を点検する限りいずれの例でも、陥し穴は罠として機能している。
・北方狩猟民のシカ追い込み猟で陥し穴が主な捕獲装置として使われることは無い。
・長大な誘導柵に陥し穴のような罠を併設する例は各地の民族誌例に見られるが、これらは全て追い込み猟ではない。

4 追い込まれた動物は陥し穴に落ちにくい
追い込まれて興奮している動物が陥し穴にうまくはまることを期待することは困難である。

5 陥し穴では大量捕獲できない
せいぜい1~2個体しか捕獲できないような陥し穴は、大量捕獲を目的とする追い込み猟にはふさわしくない。

これらの理由にはそれぞれうなずけるものがありますから、まさに宗旨替えを迫られてしまいます。

次の記事で、大膳野南貝塚の例で、この考えを受け入れるべきか否か検討します。

2017年3月15日水曜日

大膳野南貝塚 発掘面の黒斑点列は陥し穴誘導柵か

千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書の第Ⅳ分冊写真図版編の発掘現場写真をじっくり眺めていると、いくつかの陥し穴の周辺類似位置に黒斑点列が観察できます。

もしかしたら意味のある情報かと考えて、とりあえずメモしておきます。

陥し穴29号を例に黒斑点を示します。

陥し穴29号写真 1
千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書の第Ⅳ分冊写真図版編から引用

陥し穴29号 私が観察した黒斑点列
千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書の第Ⅳ分冊写真図版編から引用加筆

陥し穴29号付近写真 2
千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書の第Ⅳ分冊写真図版編から引用
9号炉穴は発掘作業途中

陥し穴29号付近2 私が観察した黒斑点列
千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書の第Ⅳ分冊写真図版編から引用加筆
9号炉穴は発掘作業途中

この黒斑点列を地図に示すと次のようになります。

陥し穴29号付近の黒斑点列

黒斑点は無数にあります。私が着目したものだけではありません。

黒斑点は垂直に切った断面で垂直方向に延びていますから、木や竹を刺した跡あるいは木の根の跡などであると考えます。

黒斑点列は、私がそこにあることを期待して観察したために、観察できた可能性もあります。つまりあまり意味のない偶然の情報である可能性もあります。

一方、発掘調査ではサイズの関係で発掘対象とならなかった穴であり、事情が許せば調査対象にすべき遺構であったものかもしれません。

プロットした黒斑点列に実体と意味があるとすれば、次のように解釈できる陥し穴誘導柵であった可能性があります。

陥し穴29号と長い誘導柵がセットで存在していた可能性

なお、陥し穴29号の平面形状が動物を追う方向に進む船の形のようになっています。

つまり陥し穴29号は動物が落ちる方向を想定して前後が異なる線形をしています。

他の陥し穴にも同様に平面形状前後が異なるものがかなり見られます。

このことから、陥し穴は付近を自由に徘徊している動物が隠された罠としての穴にたまたま落ちることを想定してつくられたものではなく、追われて逃げる方向の定まった動物が落ちるように設計されていると考えることができます。


参考 陥し穴29号
千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書の第Ⅳ分冊写真図版編から引用

参考 陥し穴29号の位置
千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書の第Ⅳ分冊写真図版編から引用加筆


2017年3月13日月曜日

大膳野南貝塚 陥し穴猟は待伏猟か追込猟か

1 陥し穴猟の3ルート

2017.03.10記事「大膳野南貝塚 陥し穴」で陥し穴の時期を縄文時代早期後半がメインであると推測しました。

同時に長軸方向を指標にして、陥し穴猟の追い詰めルートを3つ設定しました。

陥し穴の長軸方向から推測する動物追い詰めルート

この3つのルートは縄文人が狩で動物を追い詰め陥し穴で捕獲するルートであるとともに、動物本来の周遊ルートにも近似していると考えます。

さて、この考え方は陥し穴を追込猟で使っていたことを前提にしています。

ところが、WEBで情報を収集すると、縄文時代の陥し穴について、一般論としてどちらかというと待伏猟(罠としての静的利用)で利用していたとする考えの方が有力多数であることに気が付きました。

そこで、追い詰めルート検討の途中ですが、大膳野南貝塚における縄文時代早期広範の陥し穴利用の基本が待伏猟であるのか、それとも追込猟であるのか検討してみました。

2 狩猟ゾーンからみた大膳野南貝塚の位置

これまでの検討で縄文時代早期後半の狩猟ゾーンを次のように考えてきています。

狩猟ゾーンと炉穴の位置関係

大膳野南貝塚の位置は、縄文時代早期には動物を仕留める場所(捕獲する場所)であったと考えます。

動物を仕留める(収穫する)ゾーンであったからこそ沢山の陥し穴が動物捕獲装置として設置されたと考えます。

同時にその同じ場所に炉穴があり、狩人がキャンプしているのです。この事実から陥し穴が待伏猟ではなく、追込猟で使われていたことを導くことができます。

3 陥し穴と炉穴の位置関係からみた陥し穴活用法

次の図は陥し穴と炉穴の地形との関係です。

陥し穴と炉穴の地形との関係

地形の違い、つまり台地面、台地斜面境界、斜面それぞれに陥し穴が分布していて、地形の特性に合わせて動物を捕獲していたと考えますが、同時に地形3区分のすべてに炉穴(狩人のキャンプ地)も分布します。

もし、陥し穴が待伏猟として使われていたと考えると、陥し穴を設置したすぐそばに自ら居住することが根本的に矛盾します。

同時に炉穴の位置が動物移動ルートのど真ん中に位置していて、動物がこの付近に移動してこなくなってしまいます。

一方、陥し穴を追込猟で使っていたと考えると、狩が一定期間の限定行為であるという条件の設定が容易になり、陥し穴と炉穴(狩人のキャンプ)が同じ場所に存在できるようになります。

陥し穴を捕獲装置とした季節的追込猟を行い、獲物が十分に溜まったらしばらくその場所でキャンプをはるという生活を想定できます。

この想定を次のように検討しました。

炉穴と狩との関係

狩場とキャンプ地が同じ場所であるという関係は旧石器時代から続いてきたものであると考えています。

縄文時代の陥し穴が待伏猟で使われていたという思考は、おそらく農耕民が余業で行う狩猟を参考にしている思考だと考えます。

縄文時代の狩猟民は狩で生計を立てていたのですから、能動的に獲物を求めていたと考えます。

また、主な狩猟対象がシカであり、集めて追い立てることが比較的容易だと考えられますので、その面からも待伏ではなく追込であったと考えます。

なお、陥し穴が追込猟でつかわれた証拠をもっと積極的に集める必要があると考えます。

追込猟で陥し穴を使うとすれば、陥し穴に併設して動物が陥し穴に落ちざるを得ないような仕掛け(ついたてのようもの、柵)を作ったにちがいありません。

そのような陥し穴に併設する施設の遺構が、もしかすると無数に存在する時期不詳縄文ピットの中に含まれている可能性があるかもしれないと空想しています。