2017年3月19日日曜日

縄文時代狩猟構成要素としての追い込み猟と罠猟

佐藤宏之著「北方狩猟民の民族考古学」を学習しました。
2017.03.16記事「学習 佐藤宏之著「北方狩猟民の民族考古学」」参照

その結果縄文時代陥し穴が全て罠猟として使われた可能性が高いことを学習しました。
2017.03.17記事「陥し穴は罠猟か追い込み猟か」参照

同時に、上記図書では規模の大きな追い込み猟(集団猟)と規模の小さな罠猟(個人猟)の組み合わせが狩猟の一般的姿であると何度も書いていて、縄文時代狩猟についても次の記述の通り、特にシカ猟に着目すると罠猟(陥し穴猟)はむしろ補完的であり、メインの猟法は追込み猟であることを暗示しています。

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参考 佐藤宏之著「北方狩猟民の民族考古学」の縄文時代狩猟の組み合わせに関する記述
北方狩猟民の民族誌にみる罠猟
●民族考古学の視点
陥し穴に関する民族誌例は世界中の狩猟採集民や農耕民に見られることはこれまでも繰り返し述べてきた。
その意味で陥し穴は極めて普遍的な文化要素である。
従って適応システムの構造的対比という民族考古学的視点を採用しなければ、どのような解釈にも類似資料は見いだせることになる。
このような視点から見て陥し穴猟の構造を探るために、以下のような理由から北方狩猟民のシカ等の偶蹄目狩猟に注目する。
第一に、縄紋時代の狩猟システムは生態的には中緯度温帯狩猟採集民に相当するが、これに対応する現生狩猟採集民の民族誌はほとんど存在せず、わずかに北アメリカ先住民の民族誌資料に留まる。
この民族誌資料でも、集団狩猟の方法は南方よりも北方の狩猟採集民と共通する要素が多い。
第二に、縄紋時代の土器型式構造から推測される社会構造の動的安定性から見て、縄紋時代の狩猟システムは臨機的な個人・小集団狩猟を中心とする南方的なものに留まったと考えるよりも、より組織化された狩猟法に重きを置く北方型の狩猟システムにまで発達したと推定する方が合理的である。
第三に、縄紋時代の動物食糧の主体はシカとイノシシであり、陥し穴猟はこの両者を主要な狩猟対象とした狩猟システムの一部を形成すると考えられることから、シカ類を中心とする偶蹄目の組織的狩猟法の発達する北方民族例の検討は重要と考えられる。
第四に、先述したオズワルト等の検討によれば、熱帯の穀物農耕民・根菜農耕民や一部の温帯の狩猟採集民の陥し穴利用は昆虫・小動物・鳥用の小型のものが多く、縄紋期の陥し穴とは規模の点で相違する。
一部の大型獣用の陥し穴は農地防御用を主としている。
やや北方の温帯狩猟採集民や亜極北・極北の狩猟民はもっぱらシカ・トナカイを狩猟対象としており、より組織的である。
従って陥し穴の規模と構造から考えても、北方狩猟民型により近いのではないかと考えられる。

●北方狩猟民のシカの追い込み猟
北方狩猟採集民の居住する環境は広大であるが、より南の諸地域に比べて比較的単純である。
北極海を取り巻くツンドラ帯の南には森林ツンドラが分布し、さらに南にはタイガが広がっている。
東西の差よりも南北の環境格差が大きく、グリーンランドからユーラシア北方・北アメリカにかけての東西の差異は驚くほど小さい。
北方狩猟民はツンドラ帯ではトナカイを、森林帯ではエルク・ヘラジカ・アカシカ・シカ等を主に狩猟しており、狩猟対象獣の生態行動によく適応した狩猟法を発達させている。
この地域の狩猟法には非常に広範囲に共通する特徴が多い。
北方狩猟民は高度に発達した集団猟を行い、個人猟は補完的に行っていると考えられる。
彼等の主要な狩猟法はトナカイやエルク等の追い込み猟による大量捕獲である。
代表的な猟としては、シベリアにおけるポポールカ猟があり、同種の猟法はグリーンランドから北アメリカまで広範囲に見られる。
二本一組の木柵列・丸太列・石柱列・石積列等によって獣群を水辺に誘導し、水中に追い込んで動きがにぶったところを船上より撲殺・射殺・刺殺する方法である。
ツンドラか森林かで誘導施設(石か木か)に変異があり、単純に追い落とすだけのものから、逃亡防止用の射手や罠を誘導施設の途中に配置するなどの変異はあるが、シカ類の捕獲にはもっとも有効である。
ポポールカ猟と並んで北方狩猟民に大変よく使われる狩猟法は、ポポールカ猟と基本的な仕組みは同じで、追い込む先におり・囲い・大規模な窪地・狭い通路等を設けたり、崖の上から追い落とす方法である。
追い込み先の施設は必要上数メートル以上の規模をもたねばならず、縄紋の陥し穴のような小型の陥し穴が選択されることはまずない。
岩手県九戸郡山形村で観察された列島の民俗例に見られる追い込み猟でも、追い込み先に使用された穴の規模は径7メートル、深さ3~4メートルと報告されている。
これらの狩猟に使われる誘導施設の長さは通常数キロメートル単位の規模であるが、70キロメートルにもおよぶ例も報告されている(図54、55)。
いずれも大規模な追い込み猟であり、北方狩猟民にとってはもっとも重要な狩猟法のひとつであるが、さらに重要な点は、これらが罠や個人猟と無関係に存在しているわけではなく、むしろ両者が一体となって狩猟システムを構成している点である。
大規模な追い込み猟は群生し集団で移動するシカ類の生態行動に高度に適応した狩猟法であり、従って普通は越冬地への移動といったシカ類の集団移動の時に最も効果が発揮される。
このことは追い込み猟には季節性があり、他の時期や資源の獲得のためには罠猟や個人猟と相補的関係をもたねばならないことを意味している。
なおより温帯の狩猟民も、対象となる獣はバイソンや山ヤギのように異なるが追い込み猟を行っていた記録があり、先史時代には温帯でも追い込み猟が行われていたことは確実である。
図54
図55
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この図書の著者は縄文時代狩猟は集団猟としての追い込み猟と個人猟としての陥し穴罠猟から構成されると考えています。

しかし残念ながら縄文時代追い込み猟の記述はこの図書には全くありません。

ですからこの図書を最初にうっかりして読んでいたときは、縄文時代の猟は陥し穴罠猟だけから構成されているように錯覚してしまいました。
(そのように錯覚したので、追い込み猟自体を否定されたように受け止め、この図書の考えを受け入れるのに心理的抵抗が生まれ、時間もかかりました。)

縄文時代追い込み猟に関わる遺跡・遺構・遺物が見つかっていないから、(これまでの研究がないから)この図書では縄文時代追込み猟の記述がないのだと想像します。

大膳野南貝塚の学習を進めていく上で、縄文時代早期頃の狩猟はメインの集団追込み猟とサブの個人陥し穴罠猟から構成されていたと仮説することにします。

これまで私は、陥し穴の検討をすれば、陥し穴が使われていた頃の狩猟の全貌が判ると考えていたのですが、それは間違いだと気が付きました。

陥し穴の検討から直接導くことができるのは、それが使われていた頃の狩猟の一部事象だけであるということです。

広域的な陥し穴の検討から、間接的に集団追込み猟の情報が得られないものか、興味深く検討してみることにします。


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