2017年5月9日火曜日

西根遺跡の母体となる周辺遺跡

西根遺跡から大量出土(102100片、想定土器個体数1150個体~1200個体)する土器は全て加曽利B式期のものです。

発掘調査報告書では西根遺跡周辺の縄文時代後期加曽利B式期遺跡情報が掲載されているので学習します。

1 発掘調査報告書の記述
発掘調査報告書の図及び文章から西根遺跡付近の加曽利B式期の遺跡を図示してみました。

縄文時代後期加曽利B式期の遺跡
「印西市西根遺跡」(2005)から引用追記

発掘調査報告書では次のような説明を行っています。
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(1)縄文時代後期加曽利B式期の遺跡
この時期の遺跡については、まとまった資料がみられる遺跡としては、昭和49年に発掘調査、昭和58年に分布調査が行われた佐山貝塚(62)が挙げられる。
縄文時代後期称名寺式~晩期前浦式にわたる土器がみられ、その中でも加曽利B式土器の散布が多い遺跡である。
貝塚は東西約140m、南北200mの範囲にわたって形成されており、加曽利B式期の拠点的な遺跡と考えられ、注目される。

分布図の中で発掘調査報告書が刊行され、加曽利B式土器の出土が報じられている遺跡を列記すると、船尾白幡遺跡(31)では竪穴住居跡1軒と土坑1基、加曽利B式土器Ⅰ~Ⅱ式の土器が検出され、注口土器と考えられる小破片が出土している。
鳴神山遺跡(30)は遺構はみられず、加曽利B式土器は5片の報告であり、極めて微弱な散布傾向である。
印西市松崎Ⅱ遺跡(38)からは18個体分、91片の土器がグリッドからややまとまった形で検出されている。
印西市松崎Ⅰ遺跡(37)では26片の出土報告がなされ、八千代市島田込の内遺跡(72)からは4片の粗製土器片の報告例、八千代市向境遺跡(82)からは数片、八千代市真木野向山遺跡(59)では小破片、八千代市間見穴遺跡(67)では18個体分、印西市船尾町田遺跡(32)から11個体分、印西市向新田遺跡(28)では1片の出土が報告されている。

本遺跡に関連する集落については、上流域の船尾白幡遺跡周辺に求められる可能性がある。
土器については、上記のように周辺には当該期の遺跡が数多く点在するが、本遺跡の土器群と対比できるような遺物を有する遺跡は見当たらないのが現状である。
「印西市西根遺跡」(2005)から引用
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加曽利B式土器出土状況等を分布図に記入すると次のようになります。

縄文時代後期加曽利B式期の遺跡と加曽利B式期遺構・遺物
「印西市西根遺跡」(2005)から引用追記

2 西根遺跡と周辺遺跡との関係考察
発掘調査報告書では「本遺跡に関連する集落については、上流域の船尾白幡遺跡周辺に求められる可能性がある。」と見立てています。

その見立ての根拠が薄弱である理由をメモしておきます。
2-1 船尾白幡遺跡周辺に加曽利B式期集落が見当たらない。
船尾白幡遺跡から出土した竪穴住居祉は1軒だけです。調査面積が拡大すれば加曽利B式期の竪穴住居祉は増える可能性はありますが、その増大分の数が飛躍的なものになる可能性は望み薄であると考えます。
鳴神山遺跡では遺構が見つかっていません。
船尾白幡遺跡付近で今後拠点的な縄文時代遺跡が見つかる可能性は無いと考えられます。

2-2 船尾白幡遺跡の少数竪穴住居が300年間に土器を少しずつ貯めた可能性はない
発掘調査報告書では少数の竪穴住居から毎年少しずつ土器を出せば、300年間の間にはこれだけの土器が貯まるという思考を文章にしています。
しかしそのような事象は土器送りに次のような強い社会規制が働いていることからあり得ないと考えます。
・祭祀用土器が全く出土しない。
・土製品がほとんど出土しない。
・石器がほとんど出土しない。
河川沿岸という特殊な土器送り場に強い特殊な社会規制が300年間にわたって働いているのですが、このような社会規制を数軒とか多くて10軒とかの縄文集落が300年間保持し続け、毎年4個の使用済み土器を並べたということは到底考えられません。
拠点的集落とか拠点的集落の連合である地域そのものでないとこれだけの社会規制を300年間保持し続けることは不可能であると考えます。

船尾白幡遺跡に存在する加曽利B式期竪穴住居は、西根遺跡という広域土器送り場の管理人居住地であったとイメージします。
河川水際に存在する加曽利B式期イベント会場(西根遺跡)の管理人集落が、直ぐ近くの台地に(船尾白幡遺跡に)存在していたと考えます。

2-3 西根遺跡という土器送り場の主催者は佐山貝塚や神野遺跡・神野貝塚
西根遺跡という巨大な土器送り場に対応する主催者は佐山貝塚や神野遺跡・神野貝塚など印旛沼対岸社会であると考えます。
佐山貝塚は拠点であるし、神野遺跡は玉製作遺跡であり、これらの拠点集落連合社会(印旛沼西部圏)が西根遺跡の巨大土器送り場を主催していたと考えます。
それ以外の集落なり拠点なり社会なりが西根遺跡を作ったと考える材料がどこにも見当たりません。

3 今後の周辺遺跡学習
西根遺跡発掘調査報告書における周辺遺跡整理以降に新たな情報が生まれている可能性が大です。
そこで発掘調査報告書が刊行されている遺跡については悉皆的に、加曽利B式期を中心にして縄文時代の記述を詳しく閲覧して情報を整理することにします。
特に佐山貝塚、神野遺跡・神野貝塚などに着目します。
佐山貝塚、神野遺跡・神野貝塚などと西根遺跡を直接結びつける何かを何としてでも見つけたいと考えます。

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