2017年7月15日土曜日

大膳野南貝塚 埋葬関連遺構

大膳野南貝塚埋葬関連遺構の学習を発掘調査報告書「まとめ」の項目を引用しながら行います。

赤字は発掘調査報告書からの引用です。

1 廃屋墓
今回の発掘調査では、住居(址)の床、覆土中に遺骸を埋葬する廃屋墓が、J 9 ・11・18・40・67・74・79・88・95号住の9 軒で認められた。
本遺跡での最古例はJ88号住の中期末葉加曽利E4 式期の1 軒、最新例はJ11・40号住の2 軒が後期前葉堀之内2 式期であり、それ以外のJ 9 ・18・67・74・79・95号住の6 軒が後期前葉堀之内1 式期である。

廃屋墓計9 軒における埋葬人骨は、J 9 号住(貝層中出土)、J79号住(貝層直下覆土中層出土)の2 例(いずれも単葬)以外のJ11・18・40・67・74・88・95号住の7 軒が床面直上の埋葬である。
このうち加曽利E4 式期J88号住が頭骨・四肢長骨を集積した単独葬、堀之内2 式期のJ11・40号住が単葬、堀之内1 式期はJ95号住例が周産期~乳児期の単葬である以外、J18号住( 2 体)、J67号住( 4 体)、J74号住( 6 体)の3 軒は複葬であった。
堀之内1 ・2 式期の廃屋墓の床面埋葬人骨は炉に近接して分布する傾向が認められ、また遺骸埋葬時には住居址覆土堆積は認められず、炉、床面は露出状態であったと考えられる。なお、床面埋葬廃屋墓の炉はいずれも漆喰炉である。
J18・67・74号住の埋葬人骨を被覆して貝層の堆積が認められ、遺存状態の良好な18号住では人骨上部にイボキサゴ、ハマグリ主体の混土貝層が、J74号住ではイボキサゴ、ハマグリの純貝層が堆積しており、このような検出状態からはそれぞれの埋葬に当たって遺骸を多量の貝殻で被覆する葬法が採用されていた可能性がある。

埋葬関連遺構

2 床下墓坑
J77号住主体部北西側の漆喰貼床除去後の暗褐色土が遺構の確認面である。貼床形成時には小児埋葬を認識していたと考えられ、意識的に墓坑上面に貼床を行ったと考えられることから床下墓坑と呼称した。
平面楕円形、断面皿状を呈する掘り方内から、頭位南東の性別不明の3 歳幼児骨が出土した。埋葬姿勢は仰臥もしくは座位の屈葬である。上半身は東壁に寄り掛かった状態で頭骨はやや右側に傾いていた。頭骨右下の土坑底面に接し第373図3 の埋葬時における装身具と考えられる赤彩された土製垂飾が出土した。

3 土坑墓
本遺跡では1 基のみの検出である。平面形は楕円形、断面皿状を呈する。底面に接し性別不明の成人骨と推定された頭骨・四肢骨断片が坑底にややまとまりをもって出土したが、全体量が少なく埋葬姿勢が確定できない。人骨には小形磨製石斧が共伴し、やや離れた覆土中から堀之内1 式大破片が出土した。また、人骨は検出されていないが、堀之内2 ~加曽利B2 式期に属する土坑4 基(32・154・181・211号)は土坑墓の可能性がある。

4 小児土器棺
今回の発掘調査では小児土器棺6 基を確認した。その時期は1 ・2 ・4 ~ 6 号の5 基が堀之内1 式期、3号は無文土器のため詳細時期が特定できないが、同時期の所産と推定される。
1 ~ 4 ・6 号の5 基は南貝層の分布範囲内において、貝層除去後に発見された。5 号は北貝層地区北西側Q-25区に1 基離れて存在する。
遺構確認面は、2 ~ 5 号が貝層直下のⅢ層上面、1 ・6 号がJ95号住覆土最上層である。

2 号( 3 ~ 6 ヶ月乳児)小児土器棺からは穿孔し赤彩されたクチベニガイ3 点、イモガイ1 点合計4 点の埋葬時における装身具と考えられる小形貝製垂飾が出土した。6 基の小児土器棺の中で確実な装身具の出土は本例のみであるが、他に77号床下墓坑の幼児骨には赤彩された土製垂飾が共伴している。

5 考察
・床下墓坑に見られるように死んだ我が子と一緒の場(同じ空間、近接した空間)で生活することが縄文時代後期では自然の生き方であったと理解しました。
・次の図に見られる屋外漆喰炉は生業におけるメインの施設であったと考えますが、南北貝層ともにこの屋外漆喰炉の近くに小児土器棺があることは、労働の場のすぐ近くに死んだ我が子を置いておきたいという心理が強く表現されていると理解しました。

屋外漆喰炉等

・北貝層と南貝層では生活している家族系統が異なると考えていますが、北貝層家族より南貝層家族の方が廃屋墓が多く、埋葬の方法が異なっていたように理解します。
北貝層家族は土坑墓の利用がメインであったと推定しました。
葬送の仕方に違いがあるのですから、北貝層家族と南貝層家族の出自は違っていたと考えるのが妥当だと思います。
2017.06.22記事「最盛期の大膳野南貝塚集落」のA家族、B家族参照

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