2017年10月31日火曜日

大塚前遺跡出土大溝が道路であることについて(野馬堀説の間違い訂正)

2017.10.30記事「大塚前遺跡出土大溝が大結馬牧(延喜式)の野馬堀」(削除)の検討が間違っていることに気が付きましたので、記事を取り下げ、大塚前遺跡出土大溝が道路であることを述べます。

1 大塚前遺跡大溝を野馬堀に間違えた理由
次のような理由から大溝を野馬堀と間違えました。
ア 道路と考えた場合、塹壕のような深い溝である理由が見つからない。馬が越えることができない溝と考える方が合理的である。
イ 一般道路と考えると、木曽馬の尻幅を約40㎝とすると、この大溝内では古代馬のすれ違いが無理であるから、道路とは考えられない。
ウ 寺院前、竪穴住居前にもかかわらず溝から宅地面に上がる施設(馬が上れるスロープ)がなく、交通施設として不自然である。
エ 牧場地区の管理や堀自体の管理のために野馬堀を道路として使うことは当然だから、あるいは馬の移動(輸送)に使ったかもしれないから、堀の底面に硬化面ができる。硬化面の存在は一般道路の存在を示すものではない。

2 大塚前遺跡大溝を道路と考える理由
イ 馬のすれ違いができないことについて
鳴神山遺跡直線道路の詳細情報を発掘調査報告書から得ると、区間の一部に歩く底面が複線になっている場所があり、その場所には台地上に人間用と考えられる側道もついています。つまり特定場所だけですれ違っていて、道路の大部分が単線利用(一方向利用)であった可能性が浮かびあがりました。
鳴神山遺跡や大塚前遺跡の道路は、馬がすれ違えるいわば2車線道路ではなく、すれ違いは特定場所で行う1車線道路をイメージするのが正解だと考えられます。
この理由から、馬のすれ違いができないことが、道路ではない理由にならないことがわかりました。

鳴神山遺跡の直線道路

ウ 寺院前にも関わらず大溝から宅地面に上がる施設(スロープ)がないことについて
次の写真の穴を橋の橋脚の穴と考えましたが、木製階段施設であったとすれば、馬は上れませんが、馬から降りて人が寺院に参拝することができます。
あるいは馬の上れる階段だったかもしれません。
この理由も道路でない決定的要件にはなりません。

大塚前遺跡の大溝
「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書Ⅱ図版編」(1973、千葉県開発庁・財団法人千葉県都市公社)から引用

エ 硬化面の存在について
溝底面に硬化面があることは人馬の通行があったことを示しますが、溝の管理や牧場の管理による通行だけで硬化面ができると考えるのは困難のようです。
硬化面の存在は人馬が激しく通行した証拠かもしれません。
しかし「硬化面」という言葉だけが自分の判断基準であり、その発掘現場における実体を体感的に知らないので、なんともいえません。

ア 塹壕のような深い溝について
大溝が鳴神山遺跡の道路遺構と比べて約2倍の深さがあるので、これまでどうしても感覚的に道路であることを受け付けることができませんでした。

大塚前遺跡の大溝
「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書Ⅱ図版編」(1973、千葉県開発庁・財団法人千葉県都市公社)から引用

しかし、データとしてどうなのか、大塚前遺跡の大溝と鳴神山遺跡の道路の断面を比べてみました。

大塚前遺跡と鳴神山遺跡の道路断面 同縮尺比較

鳴神山遺跡 直線道路近くの総柱掘立柱建物

確かに大塚前遺跡の深さが鳴神山遺跡の深さの倍近くあります。同時に道路幅は大体同じです。
そして、鳴神山遺跡のデータで面白いことを発見しました。道路沿いに2間×3間の総柱掘立柱建物があり、その長軸方向が道路走行と完全に一致しています。総柱掘立柱建物は鳴神山遺跡でこれだけです。その総柱掘立柱建物近くだけ道路の深さが浅くなっているのです。
遺跡でただ一つしかない総柱掘立柱建物が道路走行と一致して道路間近にあるということはその建物が通行に関する行政(宿泊・休憩や各種旅行支援、あるいは関所など)に関わるなど、道路機能と密接に結びついた施設であると考えることが自然です。
つまりこの建物は広義の道路付属施設であると考えることができ、その場所だけ道路の深さが浅く、道路から宅地面に上りやすくなっているのです。

鳴神山遺跡のこの例から奈良時代道路の深さは、必要な場所では浅くして宅地面に上りやすくしているということです。
道路通行者が得られる便益に資するように道路の深さが変化するということです。

さて、ここまで情報を得ると、大塚前遺跡大溝の深さが深い理由が仏教寺院前で通行者に便益を与えるためにわざとその深さを深くしたことに気が付くことができました。

寺院(播寺)のメイン棟である東棟は総柱建物(3間×3間)で、屋根だけ瓦を葺く甍棟(いらかむね)建物であったと考えられています。

大塚前遺跡の甍棟復元図
「千葉県の歴史 資料編 考古3(奈良・平安時代)」(千葉県発行)から引用

寺院近くでは道路の深さをわざと深くして、道路利用者の視点の位置を宅地面より1.2m~1.3m下げ、立派な甍棟建物寺院をより迫力あるように見えるようにしたのだと推定します。
この寺は単なる民衆への布教施設ではなく、鎮護国家の観点から東北軍事進出活動に従事する人々を鼓舞する役割を持っていたのであり、寺院前を通行して東北へ向かう人々などに対して寺院建物をより迫力がありご利益があるものにしたのだと推定します。

次の例がどれだけ参考になるかどうかわかりませんが、私の散歩道にある2階建て瓦屋根の建物を通常の視点から見た場合と1.2mほど視点を下げてみた場合の例です。

道路に立って普通に撮った写真

視点位置を1.2m下げて撮った写真

視点位置を下げると、建物全体が立派に見えます。

播寺(大塚前廃寺)の風景設計と道路設計が一体のものとして行われたという、大変高度な地域開発計画が存在したということです。

鳴神山遺跡でも道路付属施設設計と道路設計が一体のものとしておこなわれ、道路利用機能の有効性が確保されたと考えます。

これまで大溝は塹壕みたいで到底道路と直観できないと考えていました。
しかし、甍棟寺院を立派に見せるために道路の深さをわざと深くしたと気が付くと、この大溝が道路であると意識の奥深くで納得することができました。
また、東北進出のために仏教寺院が果たす役割の大切さを下総国総合開発プランナー(おそらく中央政府高級官僚)が理解していたことも知ることになり、学習の興味がますます深まります。

3 検討課題
・大溝から見た甍棟建物寺院がどのようなものであるか、将来、3Dモデルやモンタージュ画像を駆使して、風景工学的に解明したいと思います。
・大溝が道路であると100%確信が持てたので、次の検討はその道路がどことどこをむすんでいるかということです。
大溝道路利用者に仏教寺院が威風堂々としているところを演出するのですから、道路利用者は遠方から東北方面に向かう人々を含んでいたに違いありません。
下総の軍勢はすべて鹿島神宮に集結して、そこから海路東北に向かったと言われています。
各地から大結馬牧を経由して香取の海に出て、そこから鹿島神宮に向かうと考えると、木島馬牧、長洲馬牧との関係がこの道路を介して検討射程に入るかもしれません。
・大塚前遺跡の道路と鳴神山遺跡の道路はその見かけの違いとは別に、その標準設計断面は同じものだと推論することができました。そして、単線利用(一方通行利用)のようだということも推論できました。また道路沿線に仏教寺院や道路機能施設を配置していることも判りました。これをきっかけに奈良時代準幹線道路の理解を深めたいと思います。

2017年10月29日日曜日

大結馬牧(仮説)の牧場地区イメージ

鳴神山遺跡が大結馬牧であるという新仮説を立てました。
大結馬牧が船橋にあったという既存説明に説得力がなく、同時に鳴神山遺跡の正業としての牧を大結馬牧として捉えると多様な情報をセットで合理的に説明できることから生まれた仮説です。
印西台地(鳴神山遺跡)における馬牧開発の背景に、大化の改新後中央政府が下総国を東北進出の一大兵站基地とするための総合開発があったことを考えると、その馬牧開発が律令国家肝いりの諸国牧開発であると考えることが、印西台地の戦略的位置からして必然であると考えました。
2017.10.22記事「大結仮説 鳴神山遺跡が大結馬牧であるとする新仮説」参照

この仮説により鳴神山遺跡出土墨書文字「播寺」「波田寺」が大塚前廃寺の名称であると推定できました。
播寺(大塚前廃寺)は鎮護国家の観点から大結馬牧に付属する仏教寺院であると仮説しました。
2017.10.27記事「印西市大塚前廃寺の名称は播寺(波田寺)」参照

この記事では墨書文字の共通性から鳴神山遺跡と南西ヶ作遺跡に深い関わりがあり、その関わりから大結馬牧のおおよその空間的広がりをイメージしてみました。

1 大結馬牧(仮説)に関わる遺跡
大結馬牧(仮説)に関わる主な遺跡として、鳴神山遺跡、船尾白幡遺跡、大塚前遺跡、南西ヶ作遺跡の4つを挙げることができます。

大結馬牧(仮説)に関わる遺跡

2 墨書文字共通性からみた鳴神山遺跡と南西ヶ作遺跡の親近性
鳴神山遺跡で特徴的な墨書文字は「大」「大加」などがあります。
「大」は大国玉神、大国神、大神などの大であると推定しています。
また「大加」はオオカミと読むのではないかと推定しています。(以前「大加」の加を加勢の加と考えましたが、その考えは廃棄します。)
大国玉神、大国神、大神を念頭にすべてオオカミと発音し、その発音を「大加」と略してかいたのではないかと推定しています。「大加」は文字でありながら一種のロゴマークのようなものであったと考えます。
実際に「大加」は線刻では特徴的な組文字になっていて、図案化しています。墨書文字も大の下に組文字風に加が小さく添えられ図案化しています。

この「大加」(墨書)が南西ヶ作遺跡からも出土します。

南西ヶ作遺跡出土墨書土器(例)

「大加」の図案風書き方は鳴神山遺跡出土墨書と似ています。
また「大加」は千葉県で鳴神山遺跡と南西ヶ作遺跡だけから出土します。
こうした事情から南西ヶ作遺跡は鳴神山遺跡と交流があったことは確実です。

「大加」の他に、その語源と推定できる「大国玉」も双方の遺跡から出土します。

また、共通して出土する「佛」の書体をよく見ると、南西ヶ作遺跡出土の蓮花も書かれた土器の「佛」と鳴神山遺跡出土「佛」が酷似しています。
播寺(大塚前廃寺)の僧侶が鳴神山遺跡と南西ヶ作遺跡を回り、それぞれの集落で土器に墨書をして住民に布教活動をした可能性が浮かび上がります。

このような墨書文字の共通性から鳴神山遺跡と南西ヶ作遺跡は親近性があります。
南西ヶ作遺跡が戸神川東岸に位置していることを考慮すると、鳴神山遺跡の出先機能を有する集落であった可能性があります。

3 大結馬牧(仮説)の牧場地区イメージ
4つの遺跡が大結馬牧(仮説)に関わっていたことを念頭にその牧場地区(馬を放し飼いにする地区)の範囲をイメージすると次のようになります。

大結馬牧(仮説)の牧場地区イメージ
馬を放し飼いにする牧場地区は戸神川流域であったと考えられます。
戸神川の本支谷津が合流する部分より上流部では谷津が浅い谷になっていて、放し飼いされた馬が台地からいつでも谷底水飲場に下りられる地形になっています。この浅い谷を軸に牧場地区が設定されていたと考えると合理的です。

空想の域を出ませんが、鳴神山遺跡が牧全体の統括と牧南西部の管理、播寺(大塚前廃寺)付近に存在していたであろう寺院サポート集落が牧北西部の管理、南西ヶ作遺跡が牧北東部の管理、船尾白幡遺跡が牧南東部の管理に関わったと考えます。

なお、船尾白幡遺跡の東北東の戸神川流域内に多々羅田という地名があり、遺跡包蔵地となっていて鉄滓が出土しています。どの時代の製鉄遺跡か不明ですが、大結馬牧の時代(奈良・平安時代)のものである可能性もあります。その場合、その場所が大結馬牧の馬具工房であったと考えられます。

2017年10月28日土曜日

八千代市白幡前遺跡の大寺の名称は勝光寺

2017.10.27記事「印西市大塚前廃寺の名称は播寺(波田寺)」に関連して、八千代市白幡前遺跡の瓦塔出土周溝付寺院遺構の名称が勝光寺であることをメモしておきます。

白幡前遺跡から「大寺」の墨書文字が出土しているので「大寺」が寺院遺構の名称であると一般に書かれていますが、「大寺」は愛称、通称、あるいは尊称であって、寺院名称は同じ萱田遺跡群の北海道遺跡から出土した墨書文字「勝光寺」であると考えられます。

白幡前遺跡を含む萱田遺跡群を対象に「寺」を含む墨書文字を検索すると次のようになります。

萱田遺跡群の墨書文字「寺」

白幡前遺跡寺院遺構の影響圏と考えられる範囲に「大寺」と「勝光寺」がセットで出土しています。
白幡前遺跡の寺院遺構と北海道遺跡の墨書文字「勝光寺」との直線距離は700mです。

発掘区域の設定や遺跡名称は現代発掘行政のご都合であり、古代社会の事情とまったく無関係ですから、近在に他の寺院遺構がないので、白幡前遺跡寺院遺構の名称が「勝光寺」であると特定できます。
「大寺」は愛称、通称、尊称であると考えます。

「大寺」が寺院の愛称、通称、尊称であると推定することの正しさは、次のように、千葉県における墨書文字「大寺」出土遺跡全てで正式名称と考えられる墨書文字が出土していることから確かめることができます。

千葉県全遺跡における墨書文字「大寺」

千葉県から墨書文字「大寺」は白幡前遺跡、加良部(LOC15)遺跡、真行寺廃寺の3遺跡から出土しています。

加良部(LOC15)遺跡からも「大寺」と寺院名称「忍保寺」が出土しています。

加良部(LOC15)遺跡における墨書文字「寺」

真行寺廃寺からも「大寺」と寺院名称「武射寺」が出土しています。

真行寺廃寺における墨書文字「寺」

これらの情報から「大寺」は愛称、通称、尊称であることと、「大寺」と呼ばれるほどの立派な寺ですから正式名称もそれぞれ墨書文字で残ったといえます。

白幡前遺跡の尊称大寺の正式名称は「勝光寺」といえます。

白幡前遺跡大寺の名称は勝光寺

これまでの考察にこの考察を加えて、2つの諸国牧に鎮護国家の観点から付属すると考えられる寺院の名称を整理することができました。

萱田遺跡群…高津馬牧(延喜式諸国牧)…勝光寺
鳴神山遺跡・大塚前遺跡等…大結馬牧(延喜式諸国牧)…播寺(波田寺)


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参考 墨書文字「大寺」出土遺跡

参考 白幡前遺跡、加良部(LOC15)遺跡、真行寺廃寺の位置

2017年10月27日金曜日

印西市大塚前廃寺の名称は播寺(波田寺)

大結馬牧の場所が船橋ではなく印西であると気が付くと、これまで意味不明であった多数の事象(情報)が次々と結びつき、蓋然性の高い新たな情報が生れます。
自分が思考しているというよりも、情報自身が能動的に結びつく挙動をしているようにさえ感じます。

この記事では大塚前廃寺(大塚前遺跡)の名称が播寺(波田寺)[ハタデラ]であるという仮説が生まれましたので、メモします。

鳴神山遺跡では墨書文字「播寺」「波田寺」「寺」「佛」が出土しています。

文字「寺」「佛」出土分布図

鳴神山遺跡から仏教にかかわる遺構は見つかっていません。
視野を鳴神山遺跡発掘区域だけに絞ると、集落の北側に分布していて、その場所は馬牧の牧場に近い場所で、集落の中心部から離れた場所になります。
「播寺」「波田寺」「寺」「佛」の文字出土意義の空間的説明は困難です。

しかし、視野を鳴神山遺跡発掘区域から広げて、仮説大結馬牧の牧場ゾーンイメージも見渡してみると、同じ大結馬牧に大塚前廃寺もあれば「播寺」「波田寺」「寺」「佛」文字出土もあることに気が付くことができます。

「播寺」「波田寺」「寺」「佛」が発掘区域北側に偏っていたのは、これらの文字が大塚前廃寺と関連しているからであると考えざるを得ません。
「播寺」「波田寺」は大塚前廃寺の名称であると結論付けざるを得ません。

仮説 大塚前廃寺の名称は播寺(波田寺)

大塚前廃寺は「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)で次のように説明されています。
「印西市大塚前遺跡では下総国分寺系の軒瓦を使用した大型の四面廂付の掘立柱建物が検出されている。この遺跡からは、東西二棟の掘立柱建物の跡が掘りだされ、大型建物の屋根の棟だけに瓦をふく甍棟建物という屋根構造が想定されている。また、総柱建物構造から床板をはった仏堂的な機能が考えられている。この年代は明らかではないが、同時期と思われる竪穴住居の遺物から、八世紀後半から九世紀にかけてのものと思われる。」

大塚前廃寺説明イラスト
「千葉県の歴史 資料編 考古3(奈良・平安時代)」(千葉県発行)から引用

馬牧に仏教寺院があり、その影響を受けた馬牧現場従事者が墨書文字「播寺」「波田寺」「寺」「佛」を残したと考えることができます。

播寺(大塚前廃寺)の活動時期を8世紀後半から9世紀にかけてのもだとすると、蝦夷戦争の最盛期にあたり、律令国家が下総国全体を東北進出の兵站基地として全力で開発していた時期です。
播寺(大塚前廃寺)の意義は一般的な仏教普及ではなく、鎮護国家の観点から軍馬増産活動を宗教面から支援する施設であったと考えることができます。
播寺(大塚前廃寺)はいわば大結馬牧付属寺院であったと考えることができます。

さて、大塚前廃寺説明イラストをみると寺院の前に大溝が通っています。これは道路です。
2015.12.27記事「学習 台地上の溝状古代道路の例」参照

大塚前遺跡の発掘風景写真
「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書Ⅱ図版編」(1973、千葉県開発庁・財団法人千葉県都市公社)から引用

この道路は播寺(大塚前廃寺)に関わることは当然ですが、馬牧の道路であることも確実です。
鳴神山遺跡にも直線道路があり、播寺(大塚前廃寺)にも道路があります。つまり大結馬牧には道路が2本あります。
その意義(意味)について次の記事で検討します。
大結馬牧の姿が急速に浮かび上がってきています。

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2017.10.28追記
播寺(波田寺)[ハタデラ]の表記について

播(ハタ)、波田(ハタ)は印播郡の播(バ)をハタと読み替えて、あるいは印波郡の波(バ)をつかって田を加えてハタと読み、印播郡(印波郡)をイメージしたのではないかと想像します。

印播郡の表記は次のように変遷していることが専門家論文で述べられています。
奈良時代は「印波」と書くことが多い。
平安時代以降は「印播」と「印幡」が使われ、後に「印旛」と書くようになる。
「延喜式」は「播」、「和名抄」は「幡」を用いる。
「印葉」の表記もある。
山路直充:古代の開発と船穂郷の大塚前廃寺、いんざい再発見第3号(印西地域史研究会編)による

大塚前遺跡の時代つまり8世紀後半から9世紀初めごろのインバ郡の表記はこの論文から印播郡や印波郡が使われていたことと想定できますから、上記の播寺(波田寺)のイメージと合致します。

2017年10月26日木曜日

大結馬牧の場所と延喜式記載順

2017.10.22記事「大結仮説 鳴神山遺跡が大結馬牧であるとする新仮説」で大結馬牧の場所が専門家が考えている船橋付近ではなく、印西付近であるとする仮説を設定しました。

その仮説蓋然性の向上に資する可能性のある情報をみつけましたのでメモしておきます。

古代東海道研究において延喜式駅家リストの順番情報が駅路コースを復元するために有効活用されています。
延喜式のリストは必ず一定の決め事をした上でその順番が決まっていると考えて間違いありません。

延喜式の兵部省、諸国馬牛牧リストの順番も必ず一定の決め事により配列されていると考えてよいと思います。
その決め事(基準)はつぎのようになっていると推察できます。

●延喜式諸国馬牛牧リストの各国内順番の基準
馬牧→牛牧の順
馬牧は南→北の順

馬牧→牛牧の順は全ての国で確認できます。
南→北の順は手持ち情報の範囲では安房国、肥後国で確認できます。

この基準が正しいと考えると、下総国の馬牧は南から北へ高津馬牧,大結馬牧,木嶋馬牧,長洲馬牧の順に配列していたことになります。

大結馬牧を船橋に比定すると高津馬牧より南になりますから、延喜式リストの順番と合わなくなります。
このような間接情報から大結馬牧を船橋に比定する考えが否定されます。

大結馬牧の場所が船橋ではないとすると、大結仮説(大結馬牧の場所は印西)の存在感が増します。

参考 「千葉県の歴史 通史編 古代2」の牧分布推定図
「千葉県の歴史 通史編 古代2」から引用
大結馬牧の場所は船橋にプロットされている。
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延喜式 諸国馬牛牧

諸國馬牛牧。
駿河國。【岡野馬牧,蘇彌奈馬牧。】
相摸國。【高野馬牛牧。】
武藏國。【檜前馬牧,神埼牛牧。】
安房國。【白濱馬牧,鈖師馬牧。】
上總國。【大野馬牧,負野牛牧。】
下總國。【高津馬牧,大結馬牧,木嶋馬牧,長洲馬牧,浮嶋牛牧。】
常陸國。【信太馬牧。】
下野國。【朱門馬牧。】
伯耆國。【古布馬牧。】
備前國。【長嶋馬牛牧。】
周防國。【竈合馬牧,垣嶋牛牧。】
長門國。【宇養馬牧,角嶋牛牧。】
伊豫國。【忽那嶋馬牛牧。】
土佐國。【沼山村馬牧。】
筑前國。【能臣嶋牛牧。】
肥前國。【鹿嶋馬牧,庇羅馬牧,生屬馬牧,柏嶋牛牧,櫏野□牧,早埼牛牧。】
肥後國。【二重馬牧,波良馬牧。】
日向國。【野波野馬牧,堤野馬牧,都濃野馬牧,野波野牛牧,長野牛牧,三野原牛牧。】

WEBページ「延喜式」から引用

2017年10月25日水曜日

泥縄式学習

2017.10.22記事「大結仮説 鳴神山遺跡が大結馬牧であるとする新仮説」で大結馬牧が船橋ではなく印西にあったという仮説を立てました。
千葉県の古代史専門家はこぞって大結馬牧を意富比神社(船橋大神宮)と関連づけて考えています。

参考 「千葉県の歴史 通史編 古代2」の牧分布推定図
「千葉県の歴史 通史編 古代2」から引用
大結馬牧の場所は船橋にプロットされている。
 
専門家がこぞって考えている大結馬牧の場所を否定し、別の場所を仮説するのですから、いくら素人趣味活動といっても大胆過ぎ無謀過ぎることは否めません。
しかし、この趣味活動では歴史専門家があまり思考していない領域…国土計画、インフラと地域開発の関係等建設に関わる領域…を思考しているという直観があり、その思考の意義があるのではないかと考えます。

新仮説についての蓋然性向上を図り、自分なりに確信を深めておきたいという欲望に逆らえませんが、歴史考古の門外漢素人としてのつらいところで、基礎知識が思い切り不足しています。
そこで、いつもの泥縄式学習を展開しています。
今回の泥縄式学習は超短期集中で飛鳥時代、奈良時代、平安時代初期頃の中央政府と下総国の出来事などの年表を作成し、時代の感覚を養っています。
年表作成は次の2図書を詳しく何度も読み、利用できそうな出来事をメモし、年表形式に直しています。(半世紀以上前の大学受験勉強体験を思い出す作業です。)

「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)中表紙と箱背

「日本の神々 神社と聖地 11 関東」(谷川健一編 白水社)中表紙と箱

「日本の神々 神社と聖地 11 関東」(谷川健一編 白水社)には意富比神社のみならず印波国に関わる麻賀多神社、宗像神社、埴生神社について詳しく書かれています。
さらに鹿島神宮と香取神宮の日本歴史における意味が両神宮の項だけでなく、常陸の大生神社、大井神社等の項目でも詳述されています。単なる祭祀の歴史ではなく、記紀神話成立の中央社会状況との関係で鹿島・香取両神宮や下総・常陸の歴史が述べられています。私にとって「そういうことが知りたかったことだ」という感想を持つ図書となっています。

大化の改新による新政策により日本書紀が編まれ(記紀神話を編み)、鹿島神宮と香取神宮が在地氏族の神社から国営直轄ともいえるような藤原・中臣氏の神社に衣替えし、東北への軍事進出の拠点として整備したことを詳しく学習しています。
そしてこの鹿島・香取両神宮の直轄軍事拠点化と東海道整備、域内幹線道路・水運路整備、馬牧整備とそれらを支える開発集落建設が一体のものであることを詳しく検討すると新仮説の蓋然性がおのずと高まります。
新たに編んだ記紀神話とそれが適用された鹿島・香取神宮を背景に下総のインフラ整備(東北進出の兵站基地建設)が進んだことを学習しています。

なお中央政府(藤原・中臣)が下総の総合開発を主導したのであり、在地氏族はそれに協力することによって出世できたことも浮かび上がります。
現在検討している7遺跡の内白幡前遺跡、井戸向遺跡、北海道遺跡、権現後遺跡、鳴神山遺跡、船尾白幡遺跡は官牧集落ですからその始発は直轄開発集落となります。少なくとも蝦夷戦争が終わる9世紀初頭までは、これらの集落は特定在地氏族の独自開発ではないことを踏まえて検討する必要があると考えます

2017年10月22日日曜日

大結仮説 鳴神山遺跡が大結馬牧であるとする新仮説

1 大結仮説 鳴神山遺跡が大結馬牧であるとする新仮説
鳴神山遺跡が大結馬牧であると薄々直観してきましたが、それがどのような仮説になるのか不明でした。
しかし、下総国府の建設、東海道の建設(駅路、駅家建設)、東海道を軸とした域内幹線交通路の建設、官牧の建設が同一プロジェクトとして構想、計画、実施されたことに気が付く(理解する)と、鳴神山遺跡が大結馬牧であるという仮説が脳裏に焼き付き他の仮説をことごとく駆逐しました。

大結仮説 鳴神山遺跡が大結馬牧であるとする新仮説

大結(オオユイ)とは下総国府(東京湾岸)と香取の海のミナトを結ぶ陸上道路の名称であると仮説します。
大結(オオユイ)は読んで字のごとく二つの海を結ぶ大連絡を表現している具体地域開発用語(その当時の造語)として捉えました。
大結道路は東海道を補完する補助幹線道路(域内幹線道路)の機能を有する道路であると考えます。
この道路建設と連動する新規官牧開発が鳴神山遺跡のある印西台地であり、その名称が道路名称を使って大結馬牧となったと考えました。
鳴神山遺跡で出土した直線道路が大結道路そのものであると考えます。
その道路の下総国府付近延長部が下総国府関連遺跡や新山遺跡で出土した道路であると考えます。

参考 鳴神山遺跡出土道路
発掘調査報告書から引用


参考 新山遺跡出土道路
「千葉県の歴史 資料編 考古3(奈良・平安時代)」(千葉県発行)から引用

このような関連インフラ名称が官牧名称になった例として高津馬牧があります。
東海道水運支路(仮説)において船越の平戸川側に高津(印旛浦の最高位にあるミナト)が建設され、その高津のそばに新規建設された官牧の名称が高津馬牧となりました。
高津も具体地域開発用語(その当時の造語)です。
なお、船越には地形を無視した直線道路整備が後世の馬防土手遺構として伝わっていて、道路建設作風が7世紀末から8世紀初頭頃のものであることを表現しています。
仮説東海道水運支路、船越については2014.11.21記事「〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討について」などブログ記事が多数あります。
2015.01.10房総古代道研究会発表資料も公開しています。
忘れられた古代交通施設 -千葉市花見川区に所在した水運路を結ぶ古代道路施設 船越-

2 これまでの大結馬牧比定地仮説とその難点
2-1 船橋付近説 大結の読み「オオヒ」
邨岡良弼「日本地理志料」、吉田東伍「大日本地名辞書」では大結をオオヒと読み、意富比(オオヒ)神社と関連付けて、大結馬牧を船橋付近としています。
大結をオオヒと読む根拠がありません。共通する音「オオ」を使って強引に二つの言葉を結びつけた「語呂合わせ」が思考の根底にあります。
後世にその場所が夏見御厨という開発地であったので、その前身が牧であると考えています。
しかし「語呂合わせ」が無意味であるとすれば、後世の開発地の存在だけからその場所を大結馬牧であると特定することは困難です。

2-2 船橋付近説 大結の読み「オオユイ」
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)では大結をオオユイと読みますが、意富比(オオヒ)神社と関連付けて船橋付近としています。

「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)の大結馬牧説明

オオユイ馬牧とオオヒ神社の音の違いの説明をしていないにも関わらずその間に関連があることを前提にしています。
後世にその場所が夏見御厨という開発地であったので、その前身が牧であると考えています。また近隣の遺跡から馬の出土があったことを念頭においています。

強引な語呂合わせをしていないだけであって、オオユイとオオヒが関連することの説得的説明が出来ない点で2-1と同じです。後世に開発地になり、古代遺跡からは馬骨が出土したからという理由だけでそこが大結馬牧であると特定することは困難です。

2-3 茨城県水海道市から石下町付近説
大結をオオヒと読み、地名大生郷(オオウゴウ)、古間木(古牧)、大間木(大牧)と関連付けて大結馬牧を茨城県水海道市大生郷町から石下町古間木一帯とする説があります。
大結をオオヒと読む根拠がありません。また仮にオオヒと読んだとして、なぜオオヒなのかその説明はありません。
オオという音がオオヒとオオウゴウで一致するという語呂合わせになっています。
語呂合わせを除くと残る情報は牧存在を示す地名です。牧関連地名は下総の至るところにありますから、これをもって大結馬牧の特定はできません。

3 余談 新仮説誕生の舞台裏
大結馬牧、意富比神社、鳴神山遺跡出土メイン墨書文字「大」の3者に関連があるに違いないと4日間ほど寝ても覚めても検討しました。図書館で古い情報を調べたりもしました。
何度か「新仮説」が生まれ、消えました。
・オオヒ神社はオオユイ神社の転であり、オオユイ馬牧と関連付けることができる?
・オオヒ神社は多氏の神社で墨書文字「大」は多氏と関連する?

アーダ、コーダと考えて、到達した結論は大結馬牧、意富比神社、鳴神山遺跡出土メイン墨書文字「大」の3者に関連が全く無いということです。
3者の関連を断ち切ると3者の意味が脳裏に鮮明に浮かび上がりました。
大結馬牧の意味はこの記事で書いた通りです。
墨書文字「大」の意味は大神ということで、「大加」「天(則天文字)」(船尾白幡遺跡メイン文字)などの意味も関連して解釈を深めることができました。別記事で書きます。
意富比神社の名称意味は「日本の神々 神社と聖地 11関東」(谷川健一編、白水社)における意富比神社と大井神社(常陸)の説明が参考になりました。別記事で紹介します。

2017年10月19日木曜日

下総における馬牧の建設時期

白幡前遺跡、鳴神山遺跡が官牧と考えられる牧の居住地区であることを突き止めました。また上谷遺跡も小さな牧の居住地区であるといえます。
この記事では白幡前遺跡、鳴神山遺跡関連牧の建設年代を検討します。

1 白幡前遺跡関連牧(高津馬牧)
萱田遺跡群の竪穴住居消長を示します。

萱田遺跡群の竪穴住居消長と蝦夷戦争に関する時代区分

白幡前遺跡竪穴住居の年代は8世紀初頭からです。牧の母集落が8世紀初頭から始まっているのですから、牧建設は8世紀初頭頃であると考えます。

2 鳴神山遺跡関連牧(大結馬牧か?)
鳴神山遺跡の竪穴住居消長を示します。

鳴神山遺跡 竪穴住居の消長

7世紀に竪穴住居が2軒あるのですが、発掘調査報告書ではこの2軒は8世紀以降の集落とは関係を持たないと記述しています。
集落建設は8世紀初頭であることが明白です。
牧の母集落が8世紀初頭から建設されだしているので、牧建設もこの時期から始まったと考えることができます。

この様子を時期別竪穴住居分布図でみてみます。

鳴神山遺跡 7世紀竪穴住居分布図

鳴神山遺跡 8世紀竪穴住居分布図

鳴神山遺跡 9世紀竪穴住居分布図

鳴神山遺跡 10世紀竪穴住居分布図

集落を横断する直線道路が7世紀末から8世紀初頭頃建設され、8世紀末から9世紀初頭頃埋め立てられます。
集落は8世紀初頭から建設が始まります。
この情報から直線道路建設、牧建設、集落建設が8世紀初頭頃同じ場所で始まりました。この3つの事象が全く無関係にバラバラに行われたと考えることは出来ません。
同一の地域開発計画の中で実施されたことは確実です。

直線道路で東京湾(意富比[オホヒ]神社があり、牧があり、後世に夏見御厨となった付近)と香取の海を結び、その沿線開発として広大な土地を利用した馬牧とその従事者集落を建設するというプロジェクトが浮かび上がります。
8世紀初頭頃の計画的道路は地形を無視した直線道路建設を特徴としており、鳴神山遺跡の直線道路はその極端な特徴を備えています。

3 2つの牧が8世紀初頭頃建設された大前提としての駅路網建設
7世紀中ごろ~689年までの道路網を示します。

前期計画道路の形成(7世紀中頃~持統3(689)年)
「日本の古代道路を探す」(中村太一、平凡社新書、2000年)による

この時期は東海道が市川-船橋-千葉付近の東京湾沿岸を通っていません。この幹線道路網では白幡前遺跡や鳴神山遺跡付近の下総台地開発は不可能です。

次に689年以降の道路網を示します。

前期駅路の隆盛(持統3(689)年~神護景雲2(768)年)
「日本の古代道路を探す」(中村太一、平凡社新書、2000年)による

689年以降は東海道本路が市川-船橋-千葉付近の東京湾沿岸を通るようになります。

この東海道本路建設が下総地域開発の大前提となりました。
東海道本路から香取の海までの陸路をつくりその沿線開発したものが鳴神山遺跡関連牧建設です。

また東海道本路沿いに浮島牛牧(幕張付近)を建設したことも、東海道本路建設から派生したものであることは言うまでもありません。

東海道本路の検見川付近で花見川-平戸川(新川)-印旛浦の水運路を開発し(東海道水運支路建設)、その沿川開発として白幡前遺跡関連牧(高津馬牧)建設があると考えることができます。東海道本路建設がなければこの水運路建設もあり得ません。

2つの馬牧の建設年代推定

馬牧建設・集落建設が交通インフラ整備(駅路網建設、域内道路建設、東海道水路支路建設)とリンクしていて、律令国家発足時のビッグプロジェクトであった様子が浮かび上がってきました。

次の記事で東京湾と香取の海を結ぶ道路と東海道水運支路について検討します。

2017年10月18日水曜日

鳴神山遺跡 牧と武士集団、輸送集団との強い関係

白幡前遺跡では牧と武士集団、輸送集団との関係が密接であることが判りました。
2017.10.16記事「白幡前遺跡における牧と武士集団、輸送集団の関係」参照
鳴神山遺跡でも同じことが言えますので記述します。

1 墨書文字「大」集団、「大加」集団について
墨書文字「大」(オオ)集団と「大加」(オオカ)集団は集落の北側に竪穴住居をかまえ、牧の現業に関わる集団であると考えています。
「大」は下総各地に同族を持つ氏族的集団であると考えています。「大加」は「大」に加勢するという意味であり、新たに「大」一族に従った寄せ集め外人部隊であると想像しています。
なお、例えば墨書「依」(キヌ…養蚕)集団は集落の南側に竪穴住居をかまえ、牧現業集団の生活を支えるサポート集団であり、養蚕、漆、食料生産などに関わっていたと考えています。たとえば養蚕に使う掘立柱建物や製糸に使う紡錘車の出土は集落南側に集中しています。

墨書文字「大」の分布

墨書文字「大加」の分布

参考 墨書文字「依」の分布

2 墨書文字「大」「大加」出土と武器出土の関係
集落が最盛期を迎えた9世紀第2四半期でみると「大」出土と鉄鏃出土が強く相関するとともに、「大加」と「弓」が同じ土器に書かれます。「弓」は武装勢力であることを直接示します。
なお「大加」出土竪穴住居から刀子は出土しますが、鉄鏃の出土はなく、外人部隊である「大加」集団(武装集団)が外敵と戦うための武器(鉄鏃)は日常的には所持していないことがわかり、親集団の「大」と雇われ集団の「大加」の関係が見えて興味が増します。

9世紀第2四半期の「大」「大加」

9世紀第2四半期の「大」「大加」 説明

鉄鏃の集中出土と「大」出土が強く相関し、「大」集団の武装化が進んだ様子が次の図でわかります。

9世紀第2四半期の鉄鏃と「大」出土

9世紀第2四半期の鉄鏃と「大」出土 説明

牧の現業を担う集団の武装化がすすみ、武士集団となっていく様子がよくわかるデータとなっています。

牧集団が武士集団になっていく理由の最大のものは、牧集団が単純に馬生産に特化してたわけではなく、9世紀になると生産した馬を使って運送業を行い、街道での盗賊から身を守ることが必要であったからであると考えます。
なお、墨書文字「久弥良」(クビラ…金毘羅)集団は関西から鳴神山遺跡に来た輸送専門集団であると想像しています。
武装化は牧や集落を盗賊から守るための自衛でもあったと考えます。

しかし、9世紀末頃の制度的混乱で無政府状態が生まれ、俘囚の反乱や群盗の蜂起が相次ぎ、牧が盗賊に襲われる機会が増し、逆に武装した牧集団が盗賊にもなり、下総の牧は一気に凋落したと考えます。
武装した牧集団がその後の専業武士集団誕生の母体の一つになったと考えます。

2017年10月16日月曜日

白幡前遺跡における牧と武士集団、輸送集団の関係

白幡前遺跡、鳴神山遺跡、上谷遺跡などの生業が牧であり、特に白幡前遺跡と鳴神山遺跡は官牧(延喜式における諸国牧)従事集団の居住地区としての集落であることが判ってきました。
同時に、これらの集落の遺物(特に墨書文字)からは武士集団や輸送集団の存在が浮かび上がっています。
牧という生業は単純な家畜生産業務だけではなく、騎馬に関連する戦闘員の駆り集め養成や専門従事者による荷物馬輸送も行っていたようです。

その様子を遺跡毎に考察することにします。
この記事では萱田遺跡群(白幡前遺跡)について考察します。

1 萱田遺跡群のメイン墨書文字「生」について
萱田遺跡群のメイン墨書文字「生」は次のように変化してきています。

萱田遺跡群における墨書文字「生」の変化
この変化から「生」の原義は人や生命を表現すると考えます。

2 萱田遺跡群における刀子・鉄鏃と「生」分布の強い相関
萱田遺跡群では出土金属製品の種類をみると刀子が1位、鉄鏃が2位となり武器出土が特に目立っています。鉄器は生産生活用具ではなく武器がメインとなっています。

萱田遺跡群金属製品出土数

萱田遺跡群内部における刀子・鉄鏃の分布と墨書文字「生」の分布をみるとその間に強い相関がみられます。つまり武器の多いゾーンには墨書文字「生」も多いということです。

竪穴住居10軒あたり刀子出土数

竪穴住居10軒あたり鉄鏃出土数

ゾーン別墨書土器の代表文字(白幡前遺跡、井戸向遺跡)

3 墨書文字「生」の解釈
武器と墨書文字「生」の相関が強いことから「生」の意味を一例として「白兵戦で生き残る」と解釈しました。「生」は「武士が戦いの中で勝って自分の命を守る」という祈願であると考えました。
同様に墨書文字の解釈を行い、次に示します。

ゾーン別墨書土器代表文字の意味イメージ(想定)

参考
〇…則天文字「星」→白星(相撲の星取表と同じ)であり、戦勝祈願を意味します。
継…都と戦地を繋ぐと解釈します。輜重部隊、輸送部隊の仕事完遂祈願です。

4 土坑から人骨が出土した意味
武器出土が多く、また墨書文字「生」出土が多い白幡前遺跡1Aゾーン土坑(P-168)から馬2頭と人1体が出土しています。

馬2頭と人1体出土位置

馬骨出土は律令国家の蝦夷戦争に関わる牧発展祈願であると想像しました。
人骨出土はこの祈願が単純な家畜増産祈願ではなく、1人の人間の命を身代わりで神にささげることによって、戦地に赴く武士集団の命確保を同時に祈願したことを物語っていると考えます。
武士集団が集まった中で1人の人間(*)を殺す瞬間を見せ、白兵戦で勝ち抜く覚悟を植え付けたのだと思います。
*犯罪者とか俘囚(蝦夷)だったと考えます。

つまり牧発展という概念の中に馬増産と同時に覚悟のある武士集団育成・派遣が一体のものとして含まれていたと考えます。

5 牧と武士集団、輸送集団の関係
蝦夷戦争が終結する前は、牧業務の中で東北地方に騎馬と武士を派遣するために馬の増産、武士の育成、輸送部隊の結成が行われ、それらを戦地に送ったと考えます。

蝦夷戦争終結後は、牧活動が律令国家のコントロールから離れて発展し馬の増産、耕地開拓、馬を使った輸送業務等が行われ、それらの活動(荘園的活動)を守る武士集団を搔き集め育成したと考えます。

9世紀末頃から強雇(ごうこ)(荷物を運んでいる馬から荷物を離し、馬だけ手に入れて自分の荷物を運ぶ行為)や「僦馬(しゅうば)の党」をはじめとする群盗の蜂起が相次ぎ、俘囚の反乱もあり牧が一気に凋落します。「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)では「群盗のなかに牧で働く人々がいた可能性が考えられる。」と記述しています。