2017年10月27日金曜日

印西市大塚前廃寺の名称は播寺(波田寺)

大結馬牧の場所が船橋ではなく印西であると気が付くと、これまで意味不明であった多数の事象(情報)が次々と結びつき、蓋然性の高い新たな情報が生れます。
自分が思考しているというよりも、情報自身が能動的に結びつく挙動をしているようにさえ感じます。

この記事では大塚前廃寺(大塚前遺跡)の名称が播寺(波田寺)[ハタデラ]であるという仮説が生まれましたので、メモします。

鳴神山遺跡では墨書文字「播寺」「波田寺」「寺」「佛」が出土しています。

文字「寺」「佛」出土分布図

鳴神山遺跡から仏教にかかわる遺構は見つかっていません。
視野を鳴神山遺跡発掘区域だけに絞ると、集落の北側に分布していて、その場所は馬牧の牧場に近い場所で、集落の中心部から離れた場所になります。
「播寺」「波田寺」「寺」「佛」の文字出土意義の空間的説明は困難です。

しかし、視野を鳴神山遺跡発掘区域から広げて、仮説大結馬牧の牧場ゾーンイメージも見渡してみると、同じ大結馬牧に大塚前廃寺もあれば「播寺」「波田寺」「寺」「佛」文字出土もあることに気が付くことができます。

「播寺」「波田寺」「寺」「佛」が発掘区域北側に偏っていたのは、これらの文字が大塚前廃寺と関連しているからであると考えざるを得ません。
「播寺」「波田寺」は大塚前廃寺の名称であると結論付けざるを得ません。

仮説 大塚前廃寺の名称は播寺(波田寺)

大塚前廃寺は「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)で次のように説明されています。
「印西市大塚前遺跡では下総国分寺系の軒瓦を使用した大型の四面廂付の掘立柱建物が検出されている。この遺跡からは、東西二棟の掘立柱建物の跡が掘りだされ、大型建物の屋根の棟だけに瓦をふく甍棟建物という屋根構造が想定されている。また、総柱建物構造から床板をはった仏堂的な機能が考えられている。この年代は明らかではないが、同時期と思われる竪穴住居の遺物から、八世紀後半から九世紀にかけてのものと思われる。」

大塚前廃寺説明イラスト
「千葉県の歴史 資料編 考古3(奈良・平安時代)」(千葉県発行)から引用

馬牧に仏教寺院があり、その影響を受けた馬牧現場従事者が墨書文字「播寺」「波田寺」「寺」「佛」を残したと考えることができます。

播寺(大塚前廃寺)の活動時期を8世紀後半から9世紀にかけてのもだとすると、蝦夷戦争の最盛期にあたり、律令国家が下総国全体を東北進出の兵站基地として全力で開発していた時期です。
播寺(大塚前廃寺)の意義は一般的な仏教普及ではなく、鎮護国家の観点から軍馬増産活動を宗教面から支援する施設であったと考えることができます。
播寺(大塚前廃寺)はいわば大結馬牧付属寺院であったと考えることができます。

さて、大塚前廃寺説明イラストをみると寺院の前に大溝が通っています。これは道路です。
2015.12.27記事「学習 台地上の溝状古代道路の例」参照

大塚前遺跡の発掘風景写真
「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書Ⅱ図版編」(1973、千葉県開発庁・財団法人千葉県都市公社)から引用

この道路は播寺(大塚前廃寺)に関わることは当然ですが、馬牧の道路であることも確実です。
鳴神山遺跡にも直線道路があり、播寺(大塚前廃寺)にも道路があります。つまり大結馬牧には道路が2本あります。
その意義(意味)について次の記事で検討します。
大結馬牧の姿が急速に浮かび上がってきています。

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2017.10.28追記
播寺(波田寺)[ハタデラ]の表記について

播(ハタ)、波田(ハタ)は印播郡の播(バ)をハタと読み替えて、あるいは印波郡の波(バ)をつかって田を加えてハタと読み、印播郡(印波郡)をイメージしたのではないかと想像します。

印播郡の表記は次のように変遷していることが専門家論文で述べられています。
奈良時代は「印波」と書くことが多い。
平安時代以降は「印播」と「印幡」が使われ、後に「印旛」と書くようになる。
「延喜式」は「播」、「和名抄」は「幡」を用いる。
「印葉」の表記もある。
山路直充:古代の開発と船穂郷の大塚前廃寺、いんざい再発見第3号(印西地域史研究会編)による

大塚前遺跡の時代つまり8世紀後半から9世紀初めごろのインバ郡の表記はこの論文から印播郡や印波郡が使われていたことと想定できますから、上記の播寺(波田寺)のイメージと合致します。

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