2017年12月4日月曜日

大膳野南貝塚 後期集落最初期の集団入れ替わり

2017.12.03記事「大膳野南貝塚 廃屋墓の機能不明柱穴の検討 1」で後期集落最初期と次期の間に集団の入れ替わりがあったことに気が付きましたので、もう少し詳しくメモしておきます。

最初期(加曽利E4~称名寺古式期)と次期以降(称名寺~堀之内1古式期以降)では貝出土、漆喰炉の存在、遺物の量と質、葬送、竪穴住居分布で次のような非連続が確認できます。

大膳野南貝塚 縄文時代中期末葉~後期中葉集落の最初期に集団が入れ替わった可能性

最初期の縄文人集団は漁業と関わらない(貝塚を形成しない)集団であり、葬送から見てわかるように文化的にも次期以降集団と異なっていたと考えることができます。
また出土物などから次期以降集団と比べて貧しく、かつ技術的にも遅れていたと推定できます。
おそらくこの場所に漆喰炉技術を持参してやってきて貝塚をつくった集団は、それまでの居住者を駆逐して(追い払って)新たな集落を形成したものと考えます。

最初期の竪穴住居のうち2軒は北貝層の下に位置しますが、貝層は最初期には存在していません。またこの2軒の竪穴住居覆土層から貝は一切出土していません。したがって、地図上では最初期竪穴住居と北貝層は重なりますが、最初期竪穴住居と貝層(貝塚)とは一切無関係です。
また最初期竪穴住居の分布は台地に分散していて環状集落形成と関わらないことを物語っています。

大膳野南貝塚加曽利E4~称名寺古式期竪穴住居

大膳野南貝塚称名寺~堀之内1古式期竪穴住居



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