2018年4月13日金曜日

メモ 縄文時代遺構から破壊土器片が出土する意味

縄文時代遺構から破壊土器片が出土する意味を一つの共通思考で明らかにできることがわかりましたのでその概要を忘れないうちに、粗々の全体像としてメモしておきます。

1 縄文時代炉穴、竪穴住居、土坑、ミナトなどの生活必須施設の廃絶場所から破壊された土器片が出土する
1-1 炉穴
炉穴を廃絶する時廃絶祭祀を行い、その祭祀行為の一環として手持ち土器片を投げ込み破壊したことが観察できます。(土器片を踏みつける、棒でたたくなどで壊す。)

大膳野南貝塚 早期 3号炉穴の出土土器 大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

1-2 竪穴住居
竪穴住居を廃絶する時廃絶祭祀を行い、その祭祀行為の一環として手持ち土器片を投げ込み破壊したことが観察されます。(土器片を強く地面に打ち付ける、壊してばら撒くなど)

大膳野南貝塚 前期 J56号竪穴住居の出土土器  大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

1-3 土坑
土坑を廃絶する時廃絶祭祀を行い、その祭祀行為の一環として手持ち土器片を投げ込み破壊したことが観察されます。(壊して投げ込んだ)

大膳野南貝塚 後期 189号土坑出土土器 大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

1-4 ミナト
ミナトを廃絶する時廃絶祭祀を行い、その祭祀行為の一環として廃用巨大土器を破壊したことが観察されます。

西根遺跡 加曽利B式期 破壊された土器集積 西根遺跡発掘調査報告書から引用

2 生活施設廃絶に土器破壊が伴う意味
2-1 土器片破壊は犠牲と同じ意味を持つ
生活施設(炉穴、竪穴住居、土坑、ミナト)を廃絶するときに廃絶祭祀(施設の送り)が行われます。その廃絶祭祀(施設送り)を視覚的に表現するためには何らかの象徴的活動が必要です。その象徴的活動が廃絶施設内における手持ち土器破片の送り(破壊)であったと考えます。

「王が死んだとき臣下が一緒に死ぬことにより王が本当に送られる(天国に行ける)という思考」つまり殉死(犠牲)という概念が古代にあります。この殉死という古代思考と類似の思考が縄文人の生活施設廃絶思考(送り思考)に組み込まれていたと考えます。
縄文人は施設を廃絶するために、つまり施設を送るためにはそれなりの犠牲が必要であり、その犠牲を手持ち土器片の破壊という形式で行ったのだと考えます。

土器片は経済の状況によって多寡はあるとしても誰でもいつでも所持できている財産です。土器片は現実に皿や容器等と同じ機能を備えた道具として利用されていたと考えることができます。この各人が持てる財産としての土器片を廃絶施設内に持ち込み、その場で破壊する活動により施設を送ることができると考えられていたと想像します。

縄文社会では土器片入手は誰でも容易であると考えられますから、施設送りのアイテムの一つして土器片を使うことは社会運営を円滑に進めるという点で合理的なことであったと考えられます。

2-2 土器片破壊の背景に利用可能完形土器の確保がある
縄文人は、生活施設(炉穴、竪穴住居、土坑、ミナト)廃絶を表現するために土器片あるいは廃用土器をその施設内で破壊しました。この「施設廃絶-土器破壊」活動の背景には新施設が既に完成し、その新施設に関わる新品完形土器が既に確保されていることがあると考えます。
崩れて使えなくなった炉穴を廃絶しそこで土器片を破壊するときには、既に新しい炉穴が作られていてそこで煮炊きする完形土器は確保していると考えます。
住居の主人家族が没した竪穴住居の廃絶祭祀で土器片を破壊するとき、集落住人の誰もが竪穴住居を確保していて、その竪穴住居には煮炊きできる完形土器が確保されていたと考えます。
湿気やカビなどで使えなくなった土坑で廃絶祭祀を行い土器片を破壊して投げ込む時、既に新しい土坑が作られ、手元には完形土器が必要な分だけそろっていたと考えます。
海退現象でミナトが使えなくなり、ミナトの廃絶祭祀が行われ、その場で廃用巨大土器が破壊されるとき、既に下流に新ミナトが作られ、母集落には新品完形巨大土器が多数そろっていたと考えます。

このように考えると施設廃絶祭祀=「施設廃絶-土器破壊」活動は裏返せば、施設確保祭祀=「必要施設確保確認-必要土器確保確認」活動です。つまり施設廃絶祭祀は極限すれば施設や土器がそろって生活が順調であり安寧である状況を寿ぐ祭に通じます。

2-3 施設廃絶祭祀の多義性
施設廃絶祭祀は極限すれば施設や土器がそろって生活が順調であり安寧である状況を寿ぐ祭に通じると考えると、土器片破壊を伴う施設廃絶祭祀は現実には「施設を送る」だけでなく多義的な活動であったと考えます。
むしろ「施設を送る」という基礎の上に多様な意味あいの祭祀が乗っていたと考えます。
秋の収穫祭も全て施設廃絶祭祀の一環として行われたと考えます。
西根遺跡ミナト廃絶祭祀もその形式面の上部には堅果類収穫の広域秋祭りの風景が存在していたと考えます。

2-4 その他
●陥し穴
陥し穴からはほとんど土器片出土はありません。縄文人にとって陥し穴は廃絶祭祀をおこなうような生活施設でなかったと考えます。
●奈良時代遺構
鳴神山遺跡など奈良時代集落竪穴住居からも多量の破壊土器片が出土し、縄文時代と経済状況が格段に違うだけで、その場が祭祀の場であったことは同じように捉えられると考えます。下総では縄文人の風習がほとんどそのまま奈良時代まで伝わってきていると捉えられます。

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ギリシャ壺投げ映像をみて、それが自分の思考において触媒の働きをしてこのメモが生まれました。
2018.04.11記事「ギリシャ壺投げと印西市西根遺跡土器破壊」参照



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