私の散歩論

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2011年3月7日月曜日

花見川中流紀行 17河川争奪に関する先行記述

河川争奪の古典的な説明イラスト
 花見川における活断層存在の可能性の話を続ける前に、花見川における河川争奪に関する先行記述を見つけたので、報告しておきます。

 私は「花見川上流紀行10河川争奪の見立て」で古柏井川の水系の過半が古花見川によって争奪されたと見立てました。争奪前後の水系想像図も添付しました。
 こうした想像は、この地域の谷地形分布を地図で見れば、興味のある人や素養のある人は容易にすることができます。したがって、花見川の河川争奪の記載はどこかにあるのではないかと思っていましたが、確認することはありませんでした。ところが、最近WEBで情報検索していることをきっかけにして、白鳥孝治「印旛沼落堀難工事現場の地理地質的特徴」(印旛沼-自然と文化-第5号、1998.11 財団法人印旛沼環境基金発行)という文献に花見川河川争奪の記載があることを知りました。

 この文献による、河川争奪の記載の要旨は次の通りです。
 谷が深いか浅いか、印旛沼の方向を向いているかそれとも東京湾の方向をむいているかということから、「少なくとも花島、柏井の枝谷津が形成された時代の初期河川は、印旛沼方向に流れていたと考えられる。したがって、花島付近の花見川は、ある時代に流れの方向を北流する印旛沼方向から南流する東京湾方向へ逆転させたことになる。」「この河川争奪を起こす原因に、次の二つが考えられる。」として地盤隆起と東京湾水系の侵食力の強さを上げています。さらに、「隣接する数本の谷津のうち、花島を通る花見川だけが分水界を越えて北上した理由は、ここが弱い沈降帯であったためではなかろうか」として、常総粘土層の高度分布のデータを引用しています。
 この文献には過去の地学的調査研究に関するリストが付いています。

 私が興味を持つのは、この文献の著者は明治25年の巨智部忠承「印旛沼堀割線路中断層の存在」の存在を知らないと思われることです。もし断層の可能性について少しでも知っていたら、「ここが弱い沈降帯であったため」という記載にはならないと思います。

 この文献の著者が巨智部忠承の断層論を知らないということは、それ以前の調査研究した人々が巨智部忠承の断層論を知らなかったからであると思います。要するに、巨智部忠承の断層論は一度世の中から忘れ去られてしまったということではないでしょうか?

 栗原東洋も、水資源開発公団印旛沼建設所も巨智部忠承の断層論を知らなかったのではないだろうかと、想像します。

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