私の散歩論

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2011年8月10日水曜日

縄文丸木舟と大賀ハス8

浪花川流域紀行10 縄文丸木舟と大賀ハス8

            八千代市保品出土縄文丸木舟(複製・復元品)
八千代市立郷土博物館所蔵

4-2 印旛沼(香取の海)出土丸木舟の閲覧
 八千代市立郷土博物館に八千代市保品(印旛沼流域)で出土した縄文丸木舟の複製・復元品が展示されており閲覧できました。出土の経緯や複製・復元作業についてまとめた資料もいただくことができました。また、ご好意により現物資料の写真を提供していただきました。
 これらの資料引用等により印旛沼出土丸木舟についてア~ウに紹介し、エで印旛沼出土丸木舟と検見川出土丸木舟を対照し、オで私の感想を述べてみます。

ア 出土経緯
 昭和25年(1950)11月に印旛沼干拓工事の排水路掘削現場で丸木舟が発見されました。千葉県教育委員会は早稲田大学考古学研究室に調査を依頼し発掘調査を実施しました。
 丸木舟は地表面から1.6m下の泥炭層から出土し、周辺の泥炭層から縄文土器が出土しました。土器の時期が縄文時代晩期(約3000年前)であったことから、丸木舟も同時代のものと判断されました。

            八千代市保品出土丸木舟現物資料(早稲田大学考古学研究室提供)
船首から船尾方向の写真

イ 丸木舟の形状と構造
 丸木舟の材質はカヤで、残存する部分の長さは6.54mありました。船底4箇所に刳り残しの形で横梁があり、船体の強化を図っていることから、単純な刳り舟から技術的に一歩進んだ形態を示しています。

            八千代市保品出土丸木舟現物資料(早稲田大学考古学研究室提供)
船首部分

            八千代市保品出土丸木舟現物資料(早稲田大学考古学研究室提供)
船尾部分

ウ 複製・復元作業
 次の作業を資料上部側と下部側に分けて行います。
 表面の剥落を防ぐために樹脂の吹き付けを3回繰り返し、その上に厚さ3ミクロンの錫箔を貼り、その上からシリコンを塗ります。シリコンが乾燥した後に、それが変形しないように樹脂で厚く固め、資料からシリコンと樹脂をはがします。
 二つの型を組み合わせて、その隙間に合成樹脂を流し込み、複製をつくります。復元部分は丸木舟の正確な実測図から再現します。(平成14年度第1回企画展資料による)

            八千代市保品出土縄文丸木舟(複製・復元品)
八千代市立郷土博物館所蔵

エ 八千代市保品出土丸木舟と検見川出土丸木舟の対照

            出土場所

●出土層位
 両方の丸木舟はともに泥炭層の下部から出土していて、縄文海進の海が退いてその場所が海から低湿地に変化するその時に埋没遺物化したものと考えられます。

●出土場所の地形
 八千代市保品の出土地点は海の幅が800~1000mに狭まる場所で、そこに突き出た半島の背後の位置にあたります。舟の停泊場所としては格好の場所です。この場所に現在「須賀」という地名が残されていますが、これは「『州処(すか)か』川や海の水などで堆積した砂地。川海にのぞむ砂地や砂丘」(国語大辞典、小学館)であり、その背後に丸木舟が出土した入江的な環境があったことを現代にまで伝えています。
 検見川の出土地点は古検見川湾につながる小さな谷津が形成する入り江です。この入江の古検見川湾側には埋没した砂堆が確認されており(中野尊正著「日本の平野」)、舟の停泊場所として格好の場所です。
 丸木舟の出土地点の地形的特性は八千代市保品と検見川は砂洲(砂堆)の背後の「自然の港湾」に当たる部分であるという点で、瓜二つです。

●出土場所付近の遺跡
 舟を利用した縄文人の遺跡が双方の出土地点のすぐそばにあります。(将来、舟の出土と縄文遺跡における生活活動復元が、有機的に結合されて検討されれば面白いと思います。)

●年代
 八千代市保品出土の丸木舟は縄文晩期、検見川出土の丸木舟は縄文後期から晩期に比定されています。八千代市保品出土丸木舟の方が新しい時代です。

●舟の材質、形
 材質はともにカヤです。
 形をみると、造船技術上八千代市保品出土丸木舟が勝っており(横梁を刳り残して船体の強化を図っている)、年代の比定と合致しています。
 大きさは共に6m超で、八千代市保品出土丸木舟(複製・復元)の方が0.5mほど大きいようです。
 ただし、私個人の感覚では八千代市保品出土丸木舟の方がはるかに大きいように感じました。置かれている空間や照明等の状況で感覚は変化すると思いますが、そういう条件より、複製・復元した物と完形に近い形で出土したといっても物として激しく風化的損耗状況下にある物では、比較してしまえば存在感が全然違うということだと思います。複製・復元した物の存在感は強く、大きく感じると思います。

            丸木舟の形
左は八千代市保品出土丸木舟(複製・復元)右は検見川出土丸木舟

オ 感想
・八千代市保品と検見川の丸木舟出土地点の間の直線距離は約13キロです。縄文時代には中間の5キロほどは陸路の回廊(河川争奪現象による谷津の連続)になりますが、香取の海と東京湾を結ぶ唯一の水上移動幹線ルートがここ花見川に存在していたと考えます。
・たった13キロですから八千代市保品の縄文人と検見川の縄文人は密な交流があったに違いありません。
・八千代市保品の縄文人は香取の海全域の縄文人と交流して、自然の幸(物)や情報を検見川縄文人に届けたに違いありません。
・検見川縄文人は東京湾全域の縄文人と交流して、自然の幸(物)や情報を八千代市保品の縄文人に届けたに違いありません。
・そうして香取の海全域の縄文人と東京湾全域の縄文人が自然の幸と人々の知恵を共有していたと思います。
・検見川と八千代市保品で縄文丸木舟が出土したことを、単なるバラバラの出来事として捉えるのではなく、「香取の海と東京湾交流」の双方の拠点港湾基地が見つかったと捉えたいと思います。

資料を提供していただき写真撮影や掲載に許可をいただいた八千代市立郷土博物館に感謝します。
現物資料写真を提供していただいた早稲田大学考古学研究室に感謝します。

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