私の散歩論

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2011年8月18日木曜日

流域界付近の泉と文化の検討


花見川流域のイメージと感想3 流域界付近の泉と文化の検討


前の記事でその検討計画を報告したとおり、花見川流域界に対する一種の執着的興味が深まっています。そんな折、栗原東洋著「印旛沼開発史 第二部」(印旛沼開発史刊行会発行、昭和51年)をめくっていると「第三章印旛沼流域における地下水と湧泉」に「分水界と小河川群」「二宮神社とその文化」などの項目を見つけました。そこに、分水界つまり流域界についての検討があり、とても強い刺激をうけています。

例えば次のような記述が展開されています。

習志野が原の南端に位置する二宮神社が、なぜ、どういう契機で、その広い背後地の村々に、総鎮守という形で、大きな影響を持ちえたのであろうか。この点については、二宮神社は、分水界に在って、豊富な水に恵まれ、人間が定着し、これを基盤とする農業などでの発展が、早くより発展を可能にしたのではないだろうか。
 すなわち、この二宮神社は、谷津頭の、水の豊富なところに建てられている。
 
栗原東洋は分水界を源泉地帯として捉え、その重要な文化的意義を二宮神社(現船橋市三山…花見川流域界付近!)を例に詳しく述べています。

二宮神社の管内23ヶ村には花見川流域の畑、天戸、武石、高津、実籾、長作、大和田のほか新川や神崎川流域、海老川流域の村々が含まれます。

この栗原東洋の検討を下敷きにして、GIS地形分析をベースにして、花見川流域の分水界(流域界)と泉、そして文化について検討して、花見川流域の認識を深めたいと思っています。


【予察】

早速、二宮神社付近の自然地形をみてみました。旧版1万分の1地形図(津田沼、大久保、幕張、検見川図幅、いずれも大正6年測量)に二宮神社の位置、地形上の花見川流域界、行政上の花見川流域界、等高線凹地をプロットしてみました。


二宮神社付近の自然地形

この図を見ると、既視感を感じました。よく考えると、以前記事にした子和清水の姿と似ていることに気づきました。(2011729日「子和清水遺跡」掲載のマップ参照)

・東京湾側から発達してきた谷津が下総台地に明瞭な谷頭を有し、そこが湧泉の場になっている。

・下総台地には等高線凹地が分布し、降った雨は地下水になるしかない場所が各所にみられる。(本田ヶ池という名称も記載されています。)

・台地上の印旛沼側から発達してきた谷津は浅い谷となり、地形として未発達のように感じられます。

 このように、流域界付近の台地は、地形上は印旛沼流域(ここでは高津川流域)であっても、そこが地下水涵養域となり、湧泉は東京湾流域(ここでは三山川[下流は三田川、さらに下流は田喜野井川]流域)にあるという、二つの流域共通の集水域であることが考えられます。


子和清水の湧水も勝田川流域(印旛沼流域)の台地の等高線凹地などを集水域として、その台地を刻む犢橋川谷津谷頭に湧泉があるという構図です。

人とのかかわりでも、一方は二宮神社を伝え、一方は民話と古墳時代の祭祀跡を伝えています。

花見川流域界を考える上で湧泉、神社(祭祀跡)、古代遺跡(集落跡)などをキーワードにしていくことで、認識を深めることができそうなことがわかってきました。

栗原東洋に感謝します。

 次の図は上図の情報を現代地図にプロットし、現代の位置との関係を確認できるようにしたものです。

二宮神社付近の現代の状況

 なお、地形上の流域界と行政上の流域界が200250mずれています。行政上の流域界の方が花見川流域としては狭くなっています。これと同じパターンは多くのところで見られます。花見川流域では一般的であると捉えています。その理由は戦後の市街地開発において土木施工上の理由から生じたものと考えます。今後本当にそうであるか検証したいと思っています。

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