私の散歩論

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2011年10月21日金曜日

花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想5

花見川河川争奪を知る19 花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想5

oryzasan氏論文全4章の第3章を紹介します。

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oryzasan氏論文「花見川の地学」 第3章引用

Ⅲ.「古柏井川」は存在したか
①河川争奪の時期はいつか
最初に述べたように、この地域の川が侵食力を持っていたのは、海水面の低下期であるV字谷の時代、つまり最終氷期最寒冷期以前でなければなりません。1.7万年前(八千代市平戸における新川低地沖積層の下限の年代です)以降は海進期になり、谷は沖積層堆積の場となります。約4000年前の縄文の海の海退後もこの状況に変わりはなく、関東平野で新たに谷を刻み始めた川はありません。ですから河川の争奪があったとすれば、それはV字谷の時代以前ということになります。
②「古柏井川」の下流域は存在するか
古柏井川の上流域を花見川が奪ったとすれば、古柏井川の下流域が地形的に確認されねばなりません。とくにその時期が、最も河川の侵食力の強かった(つまり海水面の最も低下した)最終氷期最寒冷期の出来事であったとすれば、明瞭な谷地形が残されているはずです。クーラーさんはそれが横戸-柏井間の花見川開削部にあったとしていますが、はたしてそうでしょうか。
航空写真は1949年にアメリカ軍が撮影したものです。柏井の谷津と花見川の開削部が写っていますが、他の低地に比べて、花見川の開削部分は明らかに直線的です。人工的に作られたものという印象を強く受けます。花見川開削部が「古柏井川」の下流部を人為的に広げて作られたとすれば、このことは説明がつきます。しかし、その幅は柏井の谷津よりも明らかに狭く、ここが柏井の谷津の下流部であったとは考えられません。なぜなら谷津の幅は下流部ほど広いのが原則だからです。まして、「古柏井川」の下流部を人工的に広げて作られたのが花見川の開削部であるとするならば、なおのことです。

図8

また花見川の開削部の地形は、幅に比べて台地との高度差が大きいのが特徴です。このことは、例えば勝田川低地の地形と比べてみれば明瞭で、大きすぎるといって良いでしょう。もしこれが、古柏井川の谷津の底を掘り下げた結果であるとするならば、人為的改変以前、勝田川低地との合流点において、古柏井川は急流をなして勝田川に合流したことになり、不自然です。
さらに、北東に向かう柏井の谷津が突然直角に曲がるのは、30m地域の出現によって、行く手を遮られたためでしょう。それなのに、東西の谷津の合流後、改めてそこを横切ってゆくのもおかしなことです。
以上の理由から花見川の開削部が、かつての古柏井川の下流域であったとする、クーラーさんの考えには賛成できません。そして他には古柏井川の下流域の候補にあたるような地形は見あたりませんから、古柏井川はなかったというのが僕の結論です。
ただし、それは現在のように谷筋が明瞭になって以降(つまり5万年前以降)のことです。常総粘土層の堆積期、あるいはその直後であれば話は別です。この頃、この地域はほとんど平坦で、わずかな高低の差に従って水が流れ、それが現在の低地の元となる谷を刻んでゆくのですが、そんな、谷筋がまだはっきりと形成される以前であれば、「古柏井川」の存在は充分に考えられます。この頃、東西の柏井の谷津の元を作った川(「東柏井川」と「西柏井川」とでも呼びましょうか)は、芦太川や宇那谷川などと一緒に(もしかすると花見川も)、南西方向から北東方向へと並行して流れていたでしょう。30m地域の出現によって、東西の「柏井川」だけが直角に流路を変えて花見川に合流し、東京湾へと流れることになるのですが、これは河川の争奪というよりは単なる流路変更と見た方が妥当ではないかと思います。
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第3章の感想は次の記事で述べます。

1 件のコメント:

  1. おはようございます。
    30年も 前の ことですが 犢橋小学校のPTAのお母さんたちが 「ふるさとこてはしを 知ろう」ということで 地域のお年寄りを 訪ねたり 文献で調べ 広報誌に連載したことがありました。
     「犢橋」の地名の由来は いま天戸大橋が架かっている橋の工事が 両岸の地盤が悪く
    どうしても うまくいかず 人柱の代わりに
    生きた子牛を埋め 神様に捧げたそうです。
    そこで 「こうしばし」「こてはし」「犢橋」となったとかーー。
    子牛のことを「こて」と呼ぶと 聞いたことがありますので 調べてみたいと思っていますがーーー。
    いま80代の人たちのころは よく花見川の岸辺で遊び  その頃は 清水がたくさん 流れでていた聞いた記憶があります、
    なにしろ  難工事で 多くの人が 犠牲になり いまでも その供養塔があるそうですが 見たことは ありません。
    橋の名前は 隣村と 折り合いがつかず 船橋側が「 天戸橋」 四街道側には 「犢橋」と表示が あったのですが 昨日 車の中から
    みたら 「御成街道 天戸大橋」と
    真ん中ごろに 表示板が たっていました。
    御成街道につきましても 面白いはなしがありますが ご存知ですか?
    遅れましたが 私のことは 竹中機械製作所で 検索なさってみていただけたらーーーと
    思います。「切削侍」のなかで「おんな侍」
    で書いています、
    これからも よろしくお願いいたします。

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