私の散歩論

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2011年12月31日土曜日

谷中分水界と道

谷中分水界の丁度その位置が8つの道路の起終点となる5差路(大正6年測量旧版1万分の1地形図「大久保」による。明治15年測量迅速図でも同じ。)となっていて、地形と道ネットワークの関係が特徴的です。

谷中分水界の5差路と結ばれている場所
この5差路(現在の6差路「花見川三小西側」交差点と同じ位置)に関わる8本の道路がどこと結ばれていいるか、旧版図等調べてみました。

谷中分水界の5差路
基図は旧版1万分の1地形図「大久保」「三角原」

Aは南方向の馬加(幕張)と結ぶ道路です。この交差点から300m程だらだら坂を下り、その後12~3mの崖を降りると猪田谷津の沖積地になります。その沖積地を台地縁に沿って歩けば、再び坂を上ることなく馬加まで行けます。そこから東京湾に出航できます。

Bはいわば地域の生活道路であり、幹線機能はないと考えます。

Cは東北方向に連続的に分布する湧水地帯を結ぶ道路です。この道路を利用して滝ノ清水を経て三山、田喜野井、飯山満方面に行くことができます。この道路は5差路を経てもともとHに連続しているものと考えます。

Dは北の大和田と結ぶ道路です。高津新田を経て高津川沿いを行きます。

Eは地域の生活道路であり、幹線機能はないと考えます。

Fは横戸の弁天経由で志津や佐倉と結ぶ道路です。芦太川の谷底をだらだら降り、途中で台地を横切り花見川に出るルートです。

GはHの補助道路のように考えます。Hが男坂、Gが女坂のような役割をはたしていたように想像します。

Hは花島に向かう道路で、花島で花見川を渡り四街道方面に行けます。

このように8本の道路の機能と行き先を考えると、この交差点の主機能は東西方向の道路と南北方向の道路の結節、南北方向の道路の分岐にあるように整理できます。

谷中分水界5差路の交通機能

谷中分水界に交差点ができた理由
東京湾側から人力や家畜を利用して荷物を運んで、猪田谷津の谷頭の崖を登り、各地に行く場合、無駄なエネルギーを消費しないで済むルートの道路が成立することは当然です。
東京湾側からこの谷頭分水界のある芦太川を伝って北方向に行けば、他のルートより高低差の少ない荷物運搬ができたものと考えられます。
また、台地の上に出るには、谷中分水界で台地に上るのが最も効率的です。

谷中分水界の現場に立った時、地形の傾斜があまりにも緩やかであり、現代人の私は自動車利用など文明生活に慣れきっているせいか、荷物を背負って、あるいは家畜に乗せて(引いて)、さらには大八車などを利用して、わずかでも高低差の少ない道をもとめた古代人~近世人の気持ちを生き生きと感得できないことに気がつかされました。

谷中分水界5差路に関する空想
この谷中分水界5差路の南西1Kmには長作築地貝塚があり、縄文海進の海が谷中分水界5差路近くの猪田谷津まで入っていたことが想像できます。
私は、この谷中分水界間近が海で、東京湾から舟で直接近くまで人が来れた時分からこの谷中分水界の交差点があったのではないかと空想します。
縄文人が東京湾側と印旛沼側を往来する一つのルートをここに持ち、また湧泉地帯を結ぶ東西方向の移動ルートも持っていたにちがいないと空想します。
こうした空想を実証する方法があるか、検討していきたいと思います。

古代花見川ルートの復元材料
東京湾側と印旛沼側を結ぶ道路を考えた時、この谷中分水界5差路を通るルート(芦太川ルート)のすぐ東に花見川ルートがあったはずです。
花見川ルートの方が東京湾側と印旛沼側を結ぶ往来のメインルートであったと想像しています。
しかし、近世の堀割普請で古代の道路は消失したと考えます。
縄文時代など古代の花見川ルートの復元について考えるとき、谷中分水界5差路を通るルート(芦太川ルート)の存在は貴重な情報を提供してくれるものと考えます。

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