私の散歩論

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2012年1月3日火曜日

谷中分水界の固有名称を知りたい

谷中分水界に立地する5差路(現在の6差路)の名称は、現在は「花見川三小西側」です。
この交差点は花見川三小ができる前からあるわけですから、(私は縄文時代からあると考えているのですから)、現在の名称とは別の固有名称がかつてあったに違いありません。

判らないと、知りたくなるのが、人の常です。

現在はこの交差点は花見川区作新台六丁目、同八丁目、天戸町、花見川の4つの町丁目境となっています。

花見川三小西側交差点付近の町丁目区割

作新台の4丁目から8丁目は1987年に長作町と天戸町の各1部を持って設定されたものです。
そこで、長作村と天戸村の字訳図を調べてみました。

長作村の字訳図(部分)
千葉市史史料編9近世p538より引用

谷中分水界が「享保」と「上猪堀込」の境になっています。

天戸村の字訳図(部分)
千葉市史史料編9近世p321より引用

谷中分水界が「道灌堀」と「向原」の境になっています。

近世において、谷中分水界に位置する5差路が2村4字の境となっていて、その区割が名称を変えて、現在まで引き継がれてきていることがわかりました。

近世の4つの字の名称から、この5差路の近世における名称を推測する手がかりは、私は感じることができませんでした。

全くの推測ですが、この5差路に野馬除土手の長作木戸が設けられていたので、木戸は特徴的な地物になりますから、近世のある一時期は「長作木戸」がこの5差路の名称になっていたかもしれません。

この5差路の固有名称が文献上現代に伝わってきていない理由は、(少なくとも定番の資料[「絵にみる図でよむ千葉市図誌」や千葉市史史料編等]では分からない理由は)次のように想像します。

1 街道の南北方向移動ルートとしての機能が近世になり虚弱になってしまったこと。
・東京湾側と印旛沼側を結ぶ交通路としての役割は、隣接する花見川筋とこの5差路のある芦太川筋はもともと競合していて花見川筋の方が総合的には有利だったと考えます。芦太川筋は裏街道的な役割を担っていたと考えます。(花見川筋の方が陸路区間が短く、峠の高低差も少ない)
・近世になり、印旛沼堀割普請というプロジェクトが繰り返され、それにともない東京湾側と印旛沼側の移動のメインルートが花見川筋に定着し、芦太川筋の街道としての役割の凋落が決定づけられたと考えます。

2 谷中分水界(交差点)の土地利用上の変換点を示す役割の重要性が希薄になってしまったこと。
・明治以降、開拓がすすみ、開拓地(耕作地)と牧(あるいはそれ以前の原野)の境という境界機能の重要性が、この谷中分水界(交差点)から徐々に失われていったと考えます。

この5差路の固有の名称を気長に調べたいと思っています。

とりあえず、花見川第三小学校(1972年開校)が開校する前のこの交差点の名称を調べてみたいと思っています。
古い道路地図等が見つかればわかるのではないかとタカをくくっています。
しかし、そもそも公共図書館等が40年前の道路地図や住宅地図をコレクションしているか?


なお、上記天戸村の字訳図(部分)には5差路近くの道灌掘に神社の印があります。
この神社について、千葉市史史料編9近世では次のように記述しています。
「享保15年(1730)、字道灌堀に稲荷神社を本村内から勧請創建。」
現在この神社はありません。
その敷地と思われるところは、現在の6差路に面した土地でコンビニになっています。

この記述を読んだ時、お屠蘇の酔いも手伝って、私の頭脳は自動運転を開始し、次のような白昼夢が始まりました。
「もともとこの5差路には縄文時代以来の人々の気持ちを引き継いで建てられた、いつの時代のものかは別にして、土俗的な石神があったに違いない。
享保年間に長作村字「享保」の開拓がはじまり、天戸村の農民もその開拓に関わった。そして、その開拓成功を祈念して、それまでの村域と新規開拓地の境界にあった石神のある神聖な土地に神社を勧請して、その土俗的な神聖さを近世的神道の神聖さに格上げした。
何もない場所に神社を勧請することは不自然で、5差路に人々の土俗的信仰対象が既に存在していたからこそ、その場所に神社が勧請された。
その後字「享保」の開拓地は荒廃し、この神社の役目も減った。
時代は変わり、現代では、神社は消失したけれども、その地割だけをコンビニ敷地として伝えている。」

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