千葉県地質環境インフォメーションバンクのボーリングデータを整理してみました。
仲東谷津のボーリングデータは3つ(1~3)、南岸に該当するデータとして最も近い3つ(A~C、芦太川の浅い谷の検討で使ったデータと同じ)、小崖を挟んで北岸に該当するデータを3つ(ア~ウ)の位置を3Dレリーフ図にプロットしました。
同時に、ボーリングデータの標高を比較できる形で並べてみました。
ボーリングデータの位置
ボーリングデータの比較
千葉県地質環境インフォメーションバンクの資料による。
この図から、それぞれのグループの孔口標高、ローム層厚、粘土層厚、粘土層と砂層の境の標高を平均を求めると、次のようになります。
比較のために、芦太川の浅い谷のデータも表に含めました。
仲東谷津の北岸の谷壁は構造的な小崖となっていると考えられますので、南岸台地(A~C)と仲東谷津(1~3)の関係と、北岸台地(ア~ウ)と仲東谷津(1~3)の関係は異なると考えます。
1 南岸台地(A~C)と仲東谷津(1~3)の対比
この二つのグループは地形が台地一般面と浅い谷という相違がありますが、地殻運動の影響は、双方とも小崖1と小崖2に挟まれているという点から、基本は同じであると考えます。
表から、私が気がついた特徴的なことは、次の通りです。
1-1 粘土層・砂層境の標高は台地一般面と仲東谷津はほとんど同じであること。
このことから仲東谷津の基本形状は砂層浸食によらない可能性が濃厚です。
1-2 粘土層厚は仲東谷津が1.2m薄いこと。
このことから、仲東谷津は粘土層を浸食して形成している可能性が濃厚です。
1-3 ローム層厚は仲東谷津が1.7m薄いこと。
このことから、粘土層の堆積が終わってから後、台地で、ローム層が1.7m積もった期間の間、この仲東谷津がアクティブであったと考えます。
逆に言うと、1.7m分のローム層は仲東谷津では流水によって下流に流されたと考えます。
仲東谷津のローム層厚は3.0mですから、このローム層が積もった期間は仲東谷津のアクティブさが失われてきた期間を示していると考えます。
2 北岸(ア~ウ)と仲東谷津(1~3)の対比
この二つのグループは小崖を挟んでいますから、異なる地殻運動の影響を受けている考えます。
表から私が気がついた最も特徴的なことは、次の通りです。
2-1 粘土層・砂層境の標高は北岸台地(ア~ウ)の方が仲東谷津より3.2m高いこと。
南岸台地(A~C)と北岸台地(ア~ウ)を比較しても北岸台地(ア~ウ)の方が3.5m高いことから、北岸台地(ア~ウ)の粘土層・砂層境の標高が高いのは、地殻運動によるものと考えることとし、仲東谷津の侵食作用によるものと考えないことにします。
2-2 北岸台地(ア~ウ)の粘土層厚が薄いこと。
北岸台地(ア~ウ)の粘土層厚は1.2mであり、南岸台地(A~C)と比べて2.6m薄くなっています。この附近は遅れて陸化したため、粘土層の堆積(湿地状の環境)の期間が短かったのかもしれません。
以上の情報と推測に基づいて、自分なりの作業上の仮説として模式地層断面図を作成してみました。
想定模式断面図
仲東谷津の浅い谷の正体を次のように想像します。
1 この附近では砂層堆積から粘土層堆積に環境が変化し(海の陸化)、粘土層アが堆積した。
2 芦太川の浅い谷が形成された。(南北方向の谷津がメインの水系網として形成された。)
3 小崖2の北側が隆起した。(小崖2ができた。)
4 小崖2の下(南側)にはもともと谷地形は無かったが、崖から水が集まり、その水は出口を探るので、時間の経過の中で浅い谷が形成された。
わずかの傾斜の差により、浅い谷は芦太川方向(仲東谷津)と高津川方向(仲西谷津)に分かれた。別れた場所が谷中分水界となった。
5 この浅い谷は流域面積が小さく、流量が少ないため、いつしか火山灰の降灰圧に負けて、火山灰に埋もれ、化石谷となった。谷が台地に戻ったと考える。
このように考えると、2012.1.9記事「空想」の「原始的浅い谷が東に向かっていたという空想」は成り立たないことに気がつきました。
なお、仲東谷津のローム層厚は3.0m、芦太川芦太川のローム層厚は2.3mですから、その差は0.7mあり、仲東谷津の方がローム層厚0.7m分余計です。それだけ早期にアクティブさを失ったと考えます。
現在の地形の形状をみても、芦太川浅い谷よりも、仲東谷津の方が埋もれて平坦化している様子が3Dレリーフ図で確認できます。
この時間の差が小崖2と小崖1の生起時間の違いによるものであれば、小崖2→小崖1の順番で地殻変動が生じたことになります。
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