メモ 表「花見川流域の時代別遺跡数」を作成して感じ、考えたこと
目次
1 旧石器時代遺跡は他の時代の遺跡と併存している
2 弥生時代遺跡が極端にすくない
3 縄文時代遺跡と古墳時代遺跡が併存している場合が多い
2 弥生時代遺跡が極端にすくない
花見川流域の時代別遺跡数を再掲します。
花見川流域の時代別遺跡数(1つの遺跡に複数時代の重複がある)
旧石器時代遺跡数
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縄文時代遺跡数
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弥生時代遺跡数
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古墳時代遺跡数
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奈良時代以降遺跡数
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時代記述のある遺跡実数
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全遺跡実数
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10
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105
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11
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68
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63
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170
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184
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上記表は次の資料から作成しました。
・千葉県埋蔵文化財分布地図(1)-東葛飾・印旛地区(改訂版)-(平成9年3月)、千葉県教育委員会〔佐倉市、四街道市、習志野市、八千代市、船橋市分〕
・千葉県埋蔵文化財分布地図(3)-千葉市・市原市・長生地区(改訂版)-(平成11年3月)、千葉県教育委員会〔千葉市分〕
この表に現れているように、弥生時代遺跡数が極端に少なくなっています。
旧石器時代遺跡数とほとんど同じです。縄文時代遺跡数の10分の1です。
その理由について、専門家や関係者は先刻ご存じに違いありませんが、専門知識がほとんど無い私は、知っていません。
そこでその理由について予想を立てて置いて、作業を進める中で、解答を得たいと思っています。また専門家に質問をしてみたいと思っています。
何かとても有益な情報が得られるような予感がします。
私の予想(作業仮説)は次の通りです。
ア 人口増減は直接的に表現していない
縄文時代は人が住んでいたが、弥生時代は人口が激減したというような事象を直接的に表現していることはないと思います。
現代人にとって遺跡発見がしやすいか、しにくいかの違いを反映しているものと考えます。
イ 弥生時代の居住地の大半は現在の集落と重なる
縄文時代までの狩猟時代には、人々は水場近くの高燥で日当たりのよい台地縁に居住していたと考えます。中近世にはその場所の多くが畑として利用され、土器が出て、遺跡として知られたのだと思います。
弥生時代になると狩猟から農業に時代が変わり、水田耕作がメインの生業となりました。この時人々は水田近くの沖積地微高地や河岸段丘に居住の場所を一斉に移したのだと思います。
そして、水田耕作に適した居住地のうち特に優良な場所は、その後現在に至るまで継続して集落として利用されてきていると考えられます。
つまり弥生時代、古墳時代などの居住地の多くは放棄されることなく、現在まで同じ目的で利用されてきていると考えます。そのため、弥生時代の居住の跡はその後の居住活動でほとんど消されてしまったと考えます。そうした理由で、発見される遺跡数が極端に少ないと考えます。
ウ 自然現象により弥生時代以降遺跡の消滅が進む
また、沖積地に構えた弥生時代(及び古墳時代以降)の居住地のうち一定の割合のものは、大きな出水の度ごとに流されたと考えます。
つまり自然現象として遺跡消滅が絶えず進行してきていると考えます。
逆に台地上では火山灰や表土に覆われることによって、縄文時代遺跡等の保全が自然現象として進みます。
エ 発見されている弥生時代遺跡の多くは地域拠点であった可能性が高い
弥生時代遺跡を含む遺跡のリストは次の通りです。
弥生時代遺跡を含む遺跡リスト
市
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遺跡番号
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遺跡名
|
遺跡の時代
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||||
旧石器
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縄文
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弥生
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古墳
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奈良以降
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|||
千葉市
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1
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高台向遺跡
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○
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○
|
○
|
○
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42
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天戸・なぎ遺跡
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○
|
○
|
|
○
|
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46
|
角原遺跡
|
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○
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○
|
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52
|
子和清水遺跡
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○
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○
|
○
|
○
|
○
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71
|
武石遺跡
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○
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○
|
○
|
○
|
○
|
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77
|
宮脇遺跡
|
|
○
|
○
|
|
○
|
|
108
|
内野山遺跡
|
|
○
|
○
|
○
|
|
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110
|
西妻遺跡
|
|
○
|
○
|
○
|
|
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124
|
本郷向遺跡
|
|
|
○
|
|
|
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四街道市
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111
|
鹿放ヶ丘№-2遺跡
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○
|
○
|
|
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八千代市
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243
|
上の山遺跡
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○
|
○
|
○
|
○
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このリストに掲載されている弥生時代遺跡は1つを除いて全て縄文時遺跡と併存しており、また多くが古墳時代や奈良時代以降遺跡とも併存しています。
このことから、旧石器時代遺跡のところで述べたのと同じように、このリスト掲載の弥生遺跡の多くは、一般の単純な居住地というより、古代から中近世までの間、地域で重要な役割を果たしていた中枢機能を有する拠点的な場所であった可能性が強いと思います。
具体的には地域レベルの祭祀の場(つまり、政治、行政、経済、軍事等を司る場)であったところが多いと考えます。
以上のような作業仮説が本当かどうか作業を進める中で確かめたいと思います。
つづく
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