私の散歩論

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2012年8月14日火曜日

双子塚古墳を築造した小豪族の本拠地

双子塚古墳の過去・現在・未来 その8
双子塚古墳出土物を閲覧して

3 古墳時代
3-7 双子塚古墳を築造した小豪族の本拠地
双子塚古墳を築造し、花見川源流部一帯を聖地化して独占したと考えられる小豪族の本拠地を考えてみました。
花見川谷津に本拠を持つことは当然だとおもいます。

以前の記事で、弥生時代や古墳時代の居住地の大半は、現在の集落と重なるため、遺跡が消滅したと述べました。(2012.7.8記事「花見川流域の弥生時代遺跡の予察」及び2012.7.19記事「花見川流域の古墳時代遺跡の予察」参照)

これを逆に考えると、江戸時代や明治時代から続いている集落は弥生時代や古墳時代の居住地である可能性が濃厚であるということです。

この点を踏まえて、花見川谷津(犢橋川合流部より上流)にある集落分布を見てみました。

次の図は明治15年測量迅速図です。

明治15年測量迅速図
集落記号を黒線で囲む。 「千葉県下総国千葉郡大和田村」図幅及び「千葉県下総国千葉郡畑村」図幅の各1部。

明治前期には柏井付近と花島付近にしか集落がありません。
これから、双子塚古墳を築造した小豪族の本拠地はそのどちらかであることになります。

そして、次の条件から双子塚古墳を築造した小豪族は柏井を本拠地としていたと考えてほぼ間違いないと思います。

ア 柏井には河岸段丘が両岸に広く発達していて、集落面積が広い。花島の河岸段丘は狭小で集落面積が狭い。…小豪族が拠点を設ける上で一族郎党を近くに居住させる必要があることは、集団の結束を強め管理を強化するうえで、あるいは防衛上の観点からも必要であることは論を待ちません。わざわざ花島に拠点を設けることは考えられません。

イ 柏井は花見川本川の谷津だけでなく、西から(前谷津)及び東から(後谷津)流入する谷津があり、それぞれ水田経営をする場所です。花島はそのような水田経営ができるような流入谷津がありません。…柏井は水田経営上の重要な結節点であり、ここに拠点を設ける必要があることは重要なことです。柏井を外して、わざわざ花島に拠点を設けることは考えられません。

次の図は大正6年測量旧版1万分の1地形図に双子塚古墳と近隣古墳のそれぞれの築造小豪族の本拠地の想定を示したものです。

双子塚古墳等の築造小豪族の本拠地想定
基図は大正6年測量旧版1万分の1地形図 「大久保」図幅及び「三角原」図幅の各1部

双子塚古墳を築造した小豪族について考えれば、犢橋川合流部までの幅狭い谷底が続く花見川谷津全てを自らの版図としていたのではないかと想像します。
従って、花島の集落は柏井の集落の配下にあったいわば出先として捉えられるのではないかと想像します。

(つづく)

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