天保期印旛沼堀割普請の捨土土手の詳細検討 その10
13 捨土を担ぐイラスト(続保定記絵図)
ここまで捨土土手の分布や形状について詳細な多数の地形断面図に基づいて検討してきました。
この検討はこれから、土木遺構としての印旛沼堀割普請遺構の平面範囲の確定や、捨土土手の推計土量を用いて普請前の自然地形復元検討などに発展させるつもりです。
この記事では、捨土土手を担ぐイラストが続保定記(※)に掲載されていて、当時の捨土の人力運搬の姿をリアルにイメージできるので、参考までに紹介します。
※ 続保定記
庄内藩大庄屋(添川組)の久松宗作が作成したもので、天保14年に幕府の命で庄内藩があたった印旛沼堀割普請の状況を多数の絵図を用いて詳細にまとめています。久松宗作自身が庄内人足と行を共にして現場に赴き、普請の有様をつぶさに観察して、それを基にまとめたものです。
原本は手書き1冊で、絵図を含めて久松宗作が直接筆を執ったと考えられています。(山形県教育委員会ヒアリングによる)
船橋市図書館、成田市図書館、東京大学などに筆写本が存在します。
山形県指定有形文化財(典籍)に指定されています。
江戸働黒鍬之者、大もっこうにて堀捨土かつく図
但し、土の重サ三、四十貫目ゟ、水つき候土ハ七十貫目位迄もかつき候由
久松宗作著続保定記掲載絵図
「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行、平成10年3月)より絵図と文章転載
(ゟは「より」)
黒鍬者は岩波日本史辞典(岩波書店)によれば「各地の新田開発や川普請に従事した日雇人夫。尾張国などからの出稼ぎ人が多かったという」と説明されています。
土の重さ三、四十貫(水がつけば七十貫)目も担ぐとありますから、1貫=3.75キログラムですから、110~150㎏、水がつけば260㎏ということになります。
「ハアドッコトショ」「アアヨイショ」という掛け声が書かれています。(「ハアドッコトショ」は誤字で「ハアドッコイショ」と著者は表現しようとしたものと、私は推察します。「イ」と「ト」は筆で書く時似ています。パソコン入力で「に」と「の」をよく間違うのと似ています。)
黒鍬者かつき替之所
鬼つきい云て、申サハ六丁有之所を三丁行、先ノ者江渡こと也
久松宗作著続保定記掲載絵図
「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行、平成10年3月)より絵図と文章転載
土方雇之者
是ハ古堀近郷又江戸辺之者にても、其土地之頭ニ随ひやとわれ出たるを云、重キをかつぐこと不叶、乍去無怠慢、図のことき両かつきかこに入、入レ候よりかつきあるくこと少しも弛ることなき故、思ひ之外果敢取候者也
久松宗作著続保定記掲載絵図
「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行、平成10年3月)より絵図と文章転載
土方 雇頭黒鍬
土方共ニ如此江戸者多く、黒鍬の元方惣頭ハ新兵衛 七九郎トテ結城近在之者也、右の者の手ニ付小頭相勤候者ハ、何レも如図
久松宗作著続保定記掲載絵図
「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行、平成10年3月)より絵図と文章転載
庄内役人
庄内夫 かつぐことをなれぬ故、背負ことを専らとす
久松宗作著続保定記掲載絵図
「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行、平成10年3月)より絵図と文章転載
大もっこうを担ぐ黒鍬者、両担ぎ籠を担ぐ土方、籠に土を入れて背に担ぐ庄内夫(郷人足)の3様の捨土運搬の技術が見て取れます。
異国に来て土を運ぶ庄内夫の姿がなんとも華奢に見えます。
久松宗作は庄内夫を土方としてではなく本来の勤労農民として意識して描こうとしたのだと思います。庄内藩の農民は「土方をするために生きてきたんじゃない」といいたげな絵です。
次の図は庄内藩内部の丁場(持ち場)区分図です。
庄内藩の丁場区分と捨土土手
庄内藩からはるばる歩いて1463人の人足(農民)と村役人がこの現場にきましたが、その集団が労働に従事したのが現在の横戸台団地付近です。
高台という地名があり、もともと東京湾水系の谷津(花見川)と印旛沼水系の谷津(古柏井川)の谷中分水界があった場所です。
最も深く掘らなければならない場所です。
郷人足の丁場の両側は人足引受人(現代風に言えばゼネコン)に工事を投げた場所で、北は百川屋、南は新兵衛と七九郎が工事を受注したわけです。
この丁場で働いたのが、黒鍬者や土方です。 最盛期には庄内藩の丁場全体で1日に6000~7000人が働きました。
つづく
「今も昔も変わらない?」
返信削除海老川乱歩です。
堀割普請の労働者の方に「刺青」がありますね。
小生は学生の頃、建設現場で墨出し(測量)のアルバイトをしていました。
ここにある挿絵を見てその頃を想い出しました。
ある現場で詰所(作業員の控室)が足りないため、
鍛冶屋と共同で詰所を使用していました。
切りがいいので休憩の為に早めに詰所に戻ったところ、
鍛冶屋の作業員も1人詰所に戻っていました。
鍛冶屋の作業員が作業着を着替えるため上半身裸になったので
自然に目に飛び込んできました。
その人の両肩に刺青があったのです。
その刺青について聞いてみたいのですが、聞けるわけがありません。
この人は、元893なのかなぁと心の中で思うだけです。
掘割で働いていた人はいわゆる「人足寄場」に居た人も沢山いたのでしょうか。
ここにある挿絵を見て「今も昔も変わらない」と思ってしまいました。
クーラーです
返信削除刺青の絵が髑髏あり、昇り竜あり、文字ありで見応えあります。
またすっぽんぽんの黒鍬もいて、顔つきがどれも憎めないので、楽しい感じがします。
私も子供のころ銭湯でいろいろな刺青をみていまだに忘れられない絵もあります。
たしかに今も昔もあまり変わらないと思います。