天保期印旛沼堀割普請の土木遺構の詳細検討 その17
20 土置場筋と捨土土手の関係
「天保13年試掘時の北柏井村堀割筋略図」を旧版1万分の1地形図に投影して作成した北柏井村の土置場筋(土置場ゾーン)分布と現在観察できる捨土土手分布を重ねてみました。
北柏井村における土置場筋と捨土土手の分布
西岸は土置場筋の北半分に実際に捨土土手がつくられたことが確認できます。
東岸は村の北側に一部だけ土置場筋の外側にずれていますが捨土土手がつくられたことが確認できます。
北柏井村は幕府に、人家等を除いた堀割筋両岸全川に渡る土置場ゾーンを設定し、報告した(させられた)のですが、実際に捨土土手がつくられたのは距離にして約4割です。
なぜこういう結果になったのか、次図に示す地区区分をして、検討してみました。
次図は北柏井村の堀割筋を3地区に区分したものです。
北柏井村の堀割筋3地区区分図
ア 高台地区の捨土土手
高台地区はもともと東京湾水系花見川と古柏井川の谷中分水界があった場所です。その地形イメージを示すと次のようになります。
高台地区の印旛沼堀割普請前の地形イメージ
天保13年試掘時にはすでに天明期普請により谷中分水界付近はかなり掘り下げられていたと考えられますが、さらに掘り下げる場所です。
当然のことながら掘った土は土置場に捨てて捨土土手をつくります。
イ 中間地区の捨土土手
中間の意味は高台地区と化灯土地区の中間という意味です。
この地区では谷底自体を掘り下げるという工事の意味合いは徐々に薄れてきて、土置場に捨てる土量も少なくなります。
少なくなった土は運びやすい西岸に捨てたのだと思います。
この付近の西岸台地は下総下位面(浅い谷)になっていて、東岸の台地(下総上位面)より5m程低くなっています。
中間地区の捨土土手
16番断面
ウ 化灯土地区の捨土土手
化灯土地区は花見川谷底が広くなり、谷底全体の高度を下げるという工事は行われず、谷底の中で水路を掘り下げるという工事が行われたと考えられます。
次のイラストは久松宗作著「続保定記」(「天保期の印旛沼堀割普請」〔千葉市発行〕収録)に掲載されているもので、化灯場で工事が難航している様子を描いています。
現在の柏井橋付近の工事現場で、右奥が下流の花島方面です。
新兵衛七九郎丁場化灯の場廻し堀いたし水をぬぐ図
久松宗作著「続保定記」収録図
「天保期の印旛沼堀割普請」〔千葉市発行〕より引用
工事をしやすくするために、足踏水車で水を流して河床を乾燥させ、化灯土を掘り出し、脇の平地に置いている様子が描かれています。
天明期の工事杭が描かれているとともに、技術者が幕府役人に対して、馬糞のような化灯土に三間竿(約5.4mの竿)を挿しながら「ドコ迄も入マス」と報告しています。
このイラストから確認できるように、化灯場では、高台地区と比べると掘る土量自体は少なく、土置場を利用して捨土することは無かったと考えられます。
また、馬糞のごとき(固まらない)化灯土の処理の方法として「流堀り」工法が執られていたことも考えられます。「流堀り」工法とは人力ではなく、水を堰上げして一挙に流しその流水パワー(人工洪水パワー)で化灯土を掘削流下させるものです。
「流堀り」工法は、当時は秘事の技術であり、松本清張の「天保図録」で堀割普請終盤における目付鳥居耀蔵と老中水野忠邦との確執部分で登場します。
「流堀り」工法が執られたので、捨土すべき土量はさらに減少したとも考えられます。
つづく
「新兵衛七九郎丁場化灯の場廻し堀いたし水をぬぐ図」について
返信削除海老川乱歩です。
「化灯土」なんて、今日では想像ができませんね。
柏井橋の東端に立って西を見たとき、
左手の2,3軒かたまっている家屋の地面の高さが、
元々の谷底(水面)の位置で、そこから現花見川の川底までが
削除された土砂の量になります。
柔らかい泥に板を渡してその上に人が乗っている様子は、
(極端な脚色がないとするならば)当時の状態がよく表現されている
と思います。
付近に「化灯土」の捨て土があれば少しは実感できるかも知れません。
「柏井市民の森」横の田んぼに、小生が8歳のとき(1976/S51)に蛙を取りに
行ったことがあるのですが、深田ではありませんでした。
(「柏井市民の森」横の谷は Google の衛星写真を見ると、
今は荒地になっているようですね)
昭和中期までに地盤改良でもされたのでしょうか。
柏井の東と西の谷津の谷底が、昔「化灯土」だったかどうかも気になります。
「柏井」という地名から、昔は湧水か井戸があったのでしょうか。
柏井橋の北側にある水色の水道橋の西側には「水神社」があります。
「湧水に感謝」するためか、「雨乞い」のためか分かりませんが、
気になります。
小生の3才歳上の人に聞いた話なのですが、その先輩が5,6才の頃
(昭和40年代後半。放水路完成が1969/S44)は、柏井橋付近の川の水は澄んでいて、
泳いで遊んでいたそうです。
今の川の水は濁り、「コケののり状になった」ようなものが浮いていたりしていますので
泳いで遊んでいたなんて信じられないですね。
海老川乱歩さんコメントありがとうございます。
返信削除縄文海進のピークが過ぎて海退していった時期に化灯土ができたと考えています。縄文海進の海は柏井までは到達していなかったかもしれませんが、花島までは到達していたと考えています。
縄文海進前後のある時期には、柏井の近くまで海が迫り、湿地状の環境が柏井橋付近ではそこで合流する3つの谷津に生まれ、ヨシが繁茂し、化灯土になったのだと思っています。
海退時のある時点では柏井付近の花見川に「河岸」ができ、少し川を下ると東京湾につながる(フィヨルドみたいな)海にでられたのだと想像しています。
柏井付近には湧水(=井)が多く、横戸との境の谷中分水界には顕著な湧水(=井)があったと考えます。
河岸と井がくっついて柏井の地名ができたと空想します。
音でいえば「カシバ(河岸場)」+「イ(井)」→カシバイ→カシワイ→漢字の当て字として「柏井」
地名「柏井」の語源は「千葉市の町名考」(和田茂右衛門著)で未詳となっていて、文献的には情報がないようなので、考察するべき未開拓領域になっています。したがって、上記のような地形との関連での検討も意義があると思います。
海老川乱歩です。
返信削除■「化灯土」は、植物腐敗の堆積物と考えるなら納得できますね。
■柏井の語源が、
「カシバ(河岸場)」+「イ(井)」→カシバイ→カシワイ→漢字の当て字として「柏井」とは、
説得力がありますね。
同じ千葉県の「柏市」の柏も「手賀沼のカシバ(河岸場)」が語源なのでしょうか。
あと、横戸と天戸の語源もご存知でしたら教えて頂けないでしょうか。
同じ「戸」がつく関東の地名を列挙してみます。
水戸(茨城県)
江戸(東京の旧呼称)
青砥/青戸(東京都)
奥戸(東京都)
松戸(千葉県)
坂戸(埼玉県)
長くなりますので以下は次の URL から抜粋
http://blogs.yahoo.co.jp/twilight_grooving/47490348.html
八戸(青森)
神戸(兵庫)
などもあります。
何処も「水」に関係がありそうですね。(「戸」がつく地名は、以外に多くありますね)
■柏井・横戸付近が大昔「海」だった証拠があります。
それはなぜか、貝殻の化石が出土するからです。
谷に縄文海進で水が入り込んでいたか、
付近全体が海底でその後隆起したのかは分かりません。
その場所をお伝えします。
弁天橋と柏井橋の間です。
川の東岸です。
土質は海砂のような感じなので、ひとめで分かると思います。
横戸の戸建団地付近の崖で、高さは中腹くらいです。
サイクリングロードから崖に登れました。
貝殻を発見したのは、小生が小6(1980/S55)のときなので、
もう32年前になります。
そのときは、表面にも貝殻が落ちていましたが、
今はもう表面に無い可能性があります。
5cmか10cmくらい掘れば出土するかも知れないので、
現場に行く時は、スコップを持参されることをお勧めします。
貝殻の大きさは3、4cmくらいで、数学でいう
三葉曲線か四葉曲線か五葉曲線のような模様がありました。
あさりやはまぐりは見当たりませんでしたし、
崖の中腹から出土しますので明らかに
貝塚ではないと小生は判断しています。
海老川乱歩さん
返信削除横戸や天戸の地名には当方も興味をもっています。特にこのブログの最近の記事によく出てくる横戸の地名の由来についてはアーデモナイ、コーデモナイと日々考えています。特に「横」を空間的な意味ではなく、別の意味に解釈できるのではないかと疑っています。「戸」は海老川乱歩さんが考えるようなことも考えています。谷津を意味しているのかもしれません。考えがまとまったら記事にしたいのですが、地名の起源がすべてハッピーな出来事であるとは限らないので、表現方法に工夫が必要だと思っています。
ご指摘の柏井と弁天の間の貝殻出土地層については近々の記事の中で言及する予定です。天保期普請の古文書にも貝殻のことが出てきます。